第八話、一度きりでは終わらない
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
蒼汰と結衣の関係は、まだ恋と呼ぶには早いかもしれません。
それでも、夕暮れのバスで交わした沈黙が、飲み会の夜を経て、少しだけ続き始めました。
次回からは、映画の約束に向けて二人の距離が少しずつ変わっていきます。
引き続き読んでいただけると嬉しいです。
その後も、会話は途切れ途切れに続いた。
仕事のこと。部署の違い。
どうでもいいような、小さな話。
どれも特別な内容ではないけれど、悪くはない時間だった。
「……不思議ですね」
ふと、彼女がグラスを見つめたまま呟いた。
「何がですか?」
「さっきまであんなに息苦しかったのに。今は空気がおいしい気がします」
彼女はそう言って、悪戯っぽく笑った。
ときどき、麻倉部長たちの座る席の中心から大きな笑い声が飛んでくる。
――けれど、
それがただの遠い背景音にしか聞こえなかった。
――
やがて飲み会が終わりに近づき、席が少しずつ崩れ始める。
おざなりの挨拶を交わして帰る人と、名残惜しそうに残る人。
――彼も、そろそろ席を立つだろう。
その予感は、言葉を交わさなくても伝わってきた。
何もしなければ、きっとまた元の「名前だけ知っている同じ会社の人」に戻ってしまう。
あの夕暮れのバスの中と同じように、心地よいけれど実体のない記憶として消えていく。
それでもいいと思っていたはずなのに、今日は少しだけ違っていた。
「……今井さん」
声をかける前に、ほんのわずかに息を整える。
迷っていないわけじゃない。
でも、これ以上「理由」を探すのはやめた。
「もしよければ……連絡先、交換しませんか」
差し出した言葉は、思っていたよりも震えなかった。
――自分から誰かに歩み寄る。
それがこんなにも静かで、それでいて誇らしいことだなんて今の今まで知らなかった。
――
――先に言われた。
誘ったのは自分のはずなのに、次の一手は自分の側にはなかった。
主導権を譲ることはあっても、これほど予期せぬ形で手放したのは初めてだった。
ほんのわずかに呼吸が遅れる。
「……はい」
それだけを、どうにか短く返した。
「……どちらにします? QRか、IDか」
ポケットから携帯電話を取り出して画面を開き、連絡先の追加を表示する。
指先が、ほんのわずかにぎこちない。
「あ、じゃあ……QRで」
読み取り音が小さく鳴り、彼女の携帯電話の画面に【今井蒼汰】と表示される。
こちらの画面にも、登録が反映され【朝比奈結衣】と表示が出る。
さっきまで「あの人」という概念だったものに、具体的な輪郭が与えられる。
ただのデータの交換に過ぎないはずなのに、視線がどうしてもそこから離れない。
それだけのことなのに感覚だけが、わずかにずれていた。
「これで、大丈夫ですか?」
「はい。……ありがとうございます」
「じゃあ、またね」
そして彼女はそう言って、先に店を出ていった。
その背中を少しだけ見送る。追いかける理由は、まだない。
それでも、ポケットにしまった携帯電話の位置だけが、やけに意識に残っていた。
外に出ると、夜の空気は驚くほど冷たかった。
肺の奥まで冷気を吸い込み、熱を持ったままの心拍を落ち着かせようと、ゆっくりと息を吐き出す。
白く消えていく吐息を眺めていると、ようやく自分の中に静けさが戻ってくるのを感じた。
もう一度だけ、携帯電話を取り出す。
画面を点灯させ、新しく登録された名前を指先で確かめるようになぞってみる。
ただの文字列。それなのに、そこから彼女の控えめな笑い声が聞こえてくるような気がして、気づけば少しだけ口元を緩めていた。
――それだけで、今の自分には十分だと思えた。
帰り道の途中、エンジンの唸りもラジオのノイズもない、深い静寂が街を包んでいる。
かつての自分なら、この孤独をただ心地よいと感じていただろう。
けれど今、夜の道を歩く足取りには自分でも驚くほど確かな熱が宿っていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
ここまでは、蒼汰と結衣が静かに距離を縮めていく導入部でした。
ですが、この物語はただ甘いだけの恋愛では終わりません。
正しさ。
優しさ。
相手のためを思って選んだ答え。
そして、その答えが本当に相手を幸せにするのか。
次回以降、二人の関係は少しずつ深まり、やがてそれぞれの抱える問題と向き合うことになります。
ここまでの静けさが、後半では大きく意味を持ってきます。
引き続き、見届けていただけると嬉しいです。




