第五話、心地よい沈黙の正体
正しいことを言われているはずなのに、なぜか息がしづらくなる瞬間ってありませんか。
この話は、そんな場所の中でただ「そのままでいい」と思える相手に出会った短い時間の記録です。
小さな声が、すぐ近くで止まる。
顔を上げるとあの時の彼女がそこにいた。
一瞬、音が遠のいた。
あの夕暮れの車内と目の前の騒がしさが、うまく繋がらない。
――距離が近い。
通常であればこの位置は踏み込み過ぎている。だが、不思議と不快ではなかった。
「ええ。……その節は」
少しだけ堅くなった言い方に、自分でも違和感を覚える。
あのときと同じ控えめな笑い方で、彼女は小さく笑った。
「こんなところで会うんですね」
「そうですね」
会話はそれだけで途切れる。
けれど、その沈黙は上司たちが作り出していた「窒息しそうな空気」とは異なっていた。
すぐ横で、誰かがジョッキをぶつける音が響く。「お疲れー!」という声が割り込んでくる。
けれど、その音だけが妙に遠い。この一角だけ温度が違っていた。
沈黙を破ったのは彼女のほうからだった。
「……賑やかですね」
「そうですね」
「正しいことを言ってる人ほど、ちょっと苦手で……」
「わかります」
短く返したあと、グラスの水滴が指先に触れる感覚に意識を逃がす。
踏み込めば理由は聞ける。
けれど、彼女の言い方はそれを望んでいない言い方だった。
「そういう感覚、ありますよね」
だから、そのひとことだけを添えて話を閉じた。
――
何かを言われると思っていた。
理由とか考え方とか、
どうすればいいかとか。
そういうものを、きっと差し出されるんだと思っていた。
でも――
彼は、何も言わなかった。
続きを促すこともなく正しさを並べることもなく、ただそのままそこにいてくれた。
――それで、よかった。
何かが足りないはずなのに、欠けている感じがしない。
埋められているわけでもないのに、崩れていかない。
助けられたわけじゃない。
それでも――
ここにいてもいい気がした。
「……あのとき」
声に出してはみたものの、彼に何を言うつもりだったのか自分でも分からなかった。
ありがとうございました、違う。
静かでしたね、でも違う。
ゆっくり減速してくれたことを覚えてます、少し違う。
あの時間が好きでした、もっと違う。
言葉にしようとするほど少しずつずれていく。
あのときは、ただそこにあっただけで十分だったはずなのに。
「いえ、なんでもないです」
――
彼女は静かに呟いたあと、グラスに視線を落とす。
その仕草が、あの夕暮れと重なる。
言葉を待つ間の取り方が、あのときと同じだった。
急かさない。埋めない。
こちらに委ねたまま、無理に引き出そうとしない。
そのままでも途切れないそういう時間を、彼女は当たり前みたいに扱っていた。
たぶん、あの時間はそういう類のものだった。
だから無理に会話を拡げたり繋げたりをする必要はない。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
言葉が増えたから距離が近づくとは限らないし、何も言わないから遠いとも限らない。
そんな関係があってもいいのかもしれない、と思いながら書きました。
もしどこか一文でも、自分の中の感覚と重なる部分があれば嬉しいです。




