第六話、もう少しだけ話がしたい
騒がしい飲み会の中で、言葉よりも沈黙の方が近く感じられる二人。
蒼汰にとっても結衣にとっても、ここから少しずつ「一度きりだった時間」が続き始めます。
「今は、物流なんですね」
沈黙を引き受けるように、彼女が口を開く。
「ええ。異動になりまして」
それだけの会話なのに、なぜかあのときより少しだけ距離が近い。
「今井さん。休憩時間中は、いつも本を読んでましたよね……」
「……ひとりで静かに過ごすほうが性に合ってるんで、癖みたいなものです」
「ああいう時間のほうが、落ち着くんで……」
一瞬、言葉の意味を測りかねて曖昧に返す。
「やっぱり」
彼女は小さく納得するように頷いた。
「バスの中でも、そんな感じでしたから」
その言葉で、夕暮れの車内が一瞬だけ蘇る。
「……そんなに分かりますか」
「なんとなく、ですけど」
彼女は笑う。あのときと同じ、けれど少しだけ距離の近い笑い方だった。
「私は、あんまり本は読まないんですけど」
そう言って、彼女はグラスを軽く回す。
「でも、ああいう静かな時間は、私も嫌いじゃないですよ」
無理に合わせたような言い方ではなく、自分の中にも同じ温度があったことに、後から気づいたような言い方だった。
言葉を選んでいるのに飾っている感じがしない。
気がつけばグラスを揺らす彼女の指先をぼんやりと眺めていた。
人と話をする際には、いつも細心の注意を払って『安全な空気』を整えている。
けれど彼女は、そういうものを意識している様子もなく、そこにいるだけで場の角が取れていく。
上司たちの言葉に晒されて、どこか引っかかっていたものが静かに落ちていく。
理由は分からない。
――ただ、
余計な力が抜けていた。
――
何を言っても、彼は驚かない気がした。
うまく整っていない言葉も、形になっていない感情も、そのまま置いておける。
前に進められることもなく、引き出されることもない。
それでも、途切れている感じがしない。
呼吸だけが同じ速さで続いていて、その状態が当たり前みたいに保たれている。
合わせようとしているわけでもなく、合わせられているわけでもない。
その状態が当たり前みたいに保たれている。
――こんな時間は、
たぶん、ほとんどなかった。
何かを話せば、どこかで整えられてしまう。
黙っていれば何かを求められてしまう。
そういうものだと思っていた。
だから、言葉にしないまま置いておけることに少しだけ戸惑う。
戸惑うのに離れようとは思わなかった。
むしろ、
このまま崩さずにいられるなら――
もう少しだけ、ここにいてもいい気がした。
――
あのときと同じ温度の沈黙が落ちる。
「……あのときのこと、覚えてるんですね」
気づけば、そう言っていた。
「覚えてますよ」
「なんだか、不思議だったので」
理由としては曖昧すぎる。
けれど、それ以上を説明しないことが、かえって正確だった。
無理に言葉にして崩すよりそのまま残している。
店のざわめきが戻ってくる。
誰かが笑い、誰かが呼ぶ。
アルコールと誰かの香水が混ざった空気がわずかに揺れる。
けれど、その中で。
あの夕暮れだけが少しだけ現実に繋がった気がした。
余計な説明もなければ押しつけもない。
それでも会話は途切れなかった。
理由は分からない。うまく説明もできない。
ただ——
もう少しだけ、彼女と話をしたいと思った。
「……朝比奈さん」
「はい」
「次の休みの日に映画を観に行く予定にしてるのですが、もしよろしければ、一緒に観に行きませんか?」
場の流れでもない酒の勢いでもない。ましてや計算もしていない。
ただ、理由も分からないまま気がつけば口が先に動いていた。
「……えっ?」
彼女は、パチリと目を瞬かせる。
その反応が当然すぎて、遅れて自分の言葉の形を理解する。
――いくら何でも急すぎる。
さっきまでとは違う沈黙。あのバスの中のものとは違う、 “選ばなければならない側”の気まずい沈黙。
「いや、その……すみません。唐突すぎました」
視線を泳がせながら、無様に付け足す。
一線を引くことで、場の雰囲気を壊さないようにしてきたはずなのに、自分からその線を踏み越えて勝手に足元を滑らせている。
言い直そうとしても、言葉が見つからない。
いや、言い直す話じゃない。
もう言葉として出ている以上、引き戻す方が不自然だ。
彼女は視線を落として、グラスの縁を指でなぞっていた。その動きに心拍だけがわずかに乱れる。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、再会から映画に誘うまでの回でした。
言葉が多いわけではないのに、なぜか一緒にいられる。
そんな二人の距離感を大事にしています。
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