第四話、正しさの外側で
正しいことは、たいてい間違っていない。
それでも、その中で息ができなくなることがある。
今回は正しさから少しだけ外れた場所で、ようやく呼吸が合った二人の話です。
異動してから、数ヶ月が過ぎた。
あの夕暮れのことを思い出すことも、ほとんどなくなっていたそんなある日のこと、半ば付き合いで他部署との合同の飲み会に参加した。
少し離れた席から、よく通る声がした
「――結局さ、問題って“本質”を外してるから起きるんだよ」
「いいか。組織っていうのはな、“個”じゃなくて“最適化”で動くんだよ」
視線を向けると、麻倉部長がグラスを片手に語っていた。
周囲には数人の取り巻きが固まっている。
「誰が何をやるかじゃない。全体としてどう機能するかだ」
「そのために、俺たちが“在るべき形”に導いてやる必要があると思うよ」
話し終えるたびに視線をわずかに外す。
断定の形を取りながら結びだけは曖昧に残していた。
――在るべき形に導く。
それは支援でも指導でもなく、ただの存在の否定だ。
「さすがです、部長」
部長が言い切る前に、すぐ横で大野係長が大きく頷いた。
言葉の内容を聞くというより、流れに合わせているような頷きだった。
「現場ってどうしても視野が狭くなりますからね。そういう全体最適の視点って、やっぱり上に立つ人間じゃないと持てないですよ」
「いやいや、当たり前のことを言ってるだけだよ」
そう言いながら、麻倉部長は満足そうに話を続ける。
話の区切りごとにスマホへ一度だけ視線を落とす。それは、重役たちからの通知を確認する癖のようだった。
「結局、“正しいやり方”ってのは決まってるんだ」
「それに従えば結果は出る。出ないのはやり方が悪いだけ」
――正しいやり方。
人の揺らぎや痛みを「効率」という定規で測り、規格外を不良品と見なすその視線に深く失望していた。
「分かります分かります。現場ってどうしても自己流入りますからね」
「ちゃんと型にハメないとダメなんですよね」
大野係長が続ける。
誰に向けて話しているのかで、声の高さが微妙に変わっていた。
「環境が悪いとか仕組みが時代遅れなんて言い訳ですよ、言い訳」
――言い訳。
同じ地平に立つことを放棄した者の言葉は、どれほど美しく整えられていても誰の心にも届かないだろう。
「みんな同じ条件でやってるわけですし」
山岡係長が割り込む。
発言の前に一度だけ周囲を見渡し、空気の温度を測ってから言葉を置く。
「結果が出ないのは、単純に努力が足りないだけなんですよ」
「仕事は無理してナンボ、頑張ってナンボですからね」
「問題が起きるってことは、どこかで手を抜いてるってことですよ」
話の流れを変えずに、結論だけを元の位置に戻していた。
――努力が足りない。
葛藤や迷いという人間らしいプロセスを「エラー」と切り捨て、他者の心に土足で踏み入るその言葉にこれ以上耳を貸す必要はないと感じていた。
「それだよ、それ!」
麻倉部長が穏やかにまとめる。
「今までどおりやっていれば大丈夫なんだから、それで問題が起こるってことは結局のところは、本人の意識の問題なんだよ」
誰も否定しないまま、正しさだけが積み重なっていく。
外れる余地など、どこにも残されていなかった。
空気が、形を持ったみたいに動かなかった。
周囲の空気が、それを当然のものとして受け入れて誰も否定しない。
騒がしい店内にグラスのぶつかる音と笑い声が断続的に重なる。
アルコールと油の匂いのなかに、どこか澱んだ空気が沈殿していて深く息を吸う気にはなれなかった。
注文を呼ぶ声と応える声が交差して、言葉の輪郭がにじむ。
隣の席では誰かが大声で昔話をしていて、そのたびに笑いが弾けていた。
――場違いだな。
他者の内面という不可侵の領域を、安っぽい成功論や根性論で塗りつぶしていくその傲慢さ。
それを「教育」と呼んで憚らない彼らと同じ空気を吸っている事実に、肺の奥がかすかに拒絶反応を起こしていた。
そう思いながら、端の席に座り笑うところで笑って適当に相槌を打っていれば、それなりに終わる。
そういう種類の時間だった。
店の奥。人の流れ。空いた席。立ち上がる者、座り直す者をただ何となく眺めていた。
――
正しいはずなのに、その“正しさ”の中には私の居場所がないような気がした。
ここにいると、うまく息ができない気がした。
この場には呼吸の合う場所がひとつも見つからなかった。
ふと、周囲の音が一段だけ遠くなる。
近くの笑い声だけが、別の場所の出来事みたいに聞こえた。
――この人たちは、何を言っているんだろう。
言葉の意味は分かるし理屈も通っている。
それなのに、胸の奥で何かが引っかかる。
声の大きい者の言葉がそのまま正しさになる。
誰かが否定しかけても、すぐに別の声が被せて消える。
結論は最初から決まっていて、そこに理由だけが後から並べられていく。
否定する理由は見つからない。それでも、頷くことができなかった。
店の空気が少しだけ重くなる。誰も違和感を口にしないまま、同じ言葉だけが繰り返されている。
居心地が悪いわけではないけれど、このままそこにいる気にもなれなかった。
静かな席へ移ろうとした、そのとき。
端の席に座っていた彼と視線が合う。
胸の奥にあった重さがほんの少しだけ軽くなり、その分だけ声が外に出た。
「……あ」
その一点だけ時間の流れがわずかに遅れた。
ほんの一瞬、足が止まる。
「……あのときの」
ーーあの夕暮れの車内。
静かなノイズと緩やかな減速。
何も言わずに、ただ当たり前かのように同じ位置に合わせてくれた彼がそこにいた。
その途端に肩の力が、ほんの少しだけ抜けた。
――
最後までお読みいただきありがとうございます。
――正しいのにしんどい。
そんな経験がある方に、少しでも引っかかるものがあれば嬉しいです。
よければ、次話もお付き合いください。




