第三話、噛み合わないまま…
理屈は通っている。
それでも、どこかだけが噛み合わない。
そんな違和感が、消えずに残ることがあります。
今回は、その“残り方”の話です。
バスは再び走り出す。
夕暮れは終わりかけていて、街灯が一つ、また一つと灯り始める。
窓の外を流れていく景色は見慣れているはずなのに、その日だけ、どこか輪郭が薄かった。
「送迎バスは、よく使うんですか?」
気づけば、こちらから話していた。
彼女は少しだけ意外そうに視線を戻す。
「いえ、今日が初めてです」
「そうですか」
また沈黙が戻る。
けれど、さっきまでのものとは違っていた。
ただ何もないのではなく、何かを置いたあとの静けさだった。
やがて、目的地の駅が近づく。
見慣れたはずの駅前が、なぜか少しだけ遠く感じる。
「もうすぐ、到着します」
前のめりになるような止まり方は避けるため、ブレーキを踏む際に減速を少しだけ長く取る。
バスが静かに止まる。彼女は立ち上がり、出口へ向かう。
その途中で、ふと振り返った。
「ありがとうございました」
ありふれた言葉だった。
それなのに、妙に輪郭を持って聞こえた。
「……また、利用しますね」
その一言だけ残して、彼女は降りていく。
扉が開き、外の空気が流れ込む。
そして彼女が降りたと同時に閉める。
再び、車内は一人きり。
エンジン音とノイズだけが戻ってくる。
――
立ち上がると、もう呼吸は落ち着いていた。
「ありがとうございました」
それだけで終わるはずだった。
「……また、利用しますね」
言葉に出したあとから、余計な一言だと思った。
それでも、言わずにはいられなかった。
ほんの少しだけ――
このまま続けてしまいたくなる気がした。
その考えに触れた瞬間、小さく息を止める。
ここで止めておけば、これ以上踏み込まずに済む。
それでいいはずなのに、胸の奥に残ったものだけが、静かに揺れている。
たぶん、もう話すことはないだろう。
そう思ってそのまま歩き出す。
胸の奥に残ったものには、名前をつけないまま持っていくことにした。
――
――世界に二人だけ、か。
さっきの言葉を、遅れて思い返す。
言葉は少ないのに温度だけが残っている。
そんな時間は、ほんの数分だったはずなのになぜか少しだけ、長く残る気がした。
バスを出発させようと、クラッチを切ってシフトをチェンジする。
――カチ、と。
いつも通りの手応えのはずが、ほんの僅かにズレた。
噛み合わない。いや、噛み合っている。
ただ、どこかが微妙にずれている。
小さく息を吐いて、アクセルを踏み込む。
エンジンが唸る。
回転数が、わずかに高い。
いつもより、ほんの少しだけ。
おかしいな。
そう思いながらもバスは動き出しはじめ、夜に変わり始めた街へとゆっくりと滑り出していく。
さっきまで、ここにもう一人いた。
「……世界に二人だけみたい」
不意に、その声が蘇る。
ハンドルを握る手に、わずかに力が入る。
バックミラーを見る。
当然、誰もいない。
空席だけが並んでいる。
さっきまでそこにあったものを、
埋める必要がないと感じている自分に、わずかな違和感が残る。
それでも、確かに“何か”があった気がする。
言葉にするほどのものじゃないけれど、確かにそこにあった。
シフトレバーに、もう一度触れる。
今度は、きちんと噛み合った。
アクセルを踏む。
回転数も、いつも通りに戻っている。
――気のせいか。
そう思って、前を見る。
信号が青に変わる。
バスは、何事もなかったかのように進んでいく。
ただほんの少しだけ、あの数分間だけが現実から切り離されたみたいに、どこか別の場所に置き去りにされたような感覚だけが残っていた。
それから幾度となく、彼女と顔を合わすことはあった。
通路の端と端。
休憩室の出入り口。
ミーティング前の、ほんの一瞬。
送迎の運転。
けれど――
言葉を交わすことはなかった。
あの日の夕暮れも、「世界に二人だけ」と言った声も、まるで最初から存在しなかったかのように互いに、ただの他人としてすれ違う。
視線が合うこともある。
けれど、それだけだ。
ほんの一瞬で、何事もなかったように逸れる。
それでいい。そういうものだ、と。
ただ――
逸れたあとに残る感覚だけは、完全には消えることはなかった。
やがて、自分は別の部署へ異動となり送迎バスを動かすこともなくなった。
新しい業務は、在庫管理。
物の流れと数字を追う仕事だった。
覚えることは多く、最初のうちは手順を一つずつなぞるだけで時間がかかった。
やること自体は明確だった。
正しく処理すれば結果は揃う。
そういう意味では、分かりやすい仕事だった。
――それでも、
どこかが噛み合っていない感覚だけは、残ったままだった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
うまく説明できないのに、なぜか残ってしまうもの。
そんな感覚が少しでも伝わっていれば嬉しいです。
次話も静かに続きます。




