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僕と彼女の最適解―合理主義者は恋が計算できない―  作者: 雨羽善和


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第三十六話、ちゃんとした未来を選んでほしくて

第三十六話です。


結衣が語る別れの理由は、さらに深いところへ進んでいきます。


恋人として触れ合うこと。

将来を考えること。

子供のこと。

一緒にいることで、相手に何かを諦めさせてしまうかもしれないという恐れ。


「あなたには、ちゃんとした未来を選んでほしくて……」


それは、蒼汰を突き放すための言葉ではありません。


好きだからこそ、自分のいない未来を選んでほしい。

そんな結衣の想いと心の痛みが、ようやく言葉になります。

 しばらくすると息を詰めながら、彼女はさらに言葉を重ねた。


「一緒に楽しく過ごすだけじゃなくて……」

 そこで一度、声が止まった。


 まるで、言葉にすること自体をためらうように、彼女の指先が服の裾を強く握った。


「恋人付き合いするなら……もっと近くで、触れ合う時間だって……大切なのに」


 風が、彼女の声の端をかすかに攫っていく。

「こんな身体じゃ、あなたの気持ちに……応えられるか分からない……」


 その言葉を口にした瞬間、彼女自身がいちばん深く傷ついたように見えた。


 視線が完全に落ちる。

「それに……」


 喉の奥で、声が細くなる。

「子供を産めるかどうかも、分からないですし……」

 言い終えたあと、彼女は唇を噛んだ。


「将来のことを考えたら……」

 そこまで言って、彼女は言葉を飲み込んだ。


 屋上を、風が抜けていく。


 白い壁。

 金網越しに見える街。

 遠くを走る車の音。

 どこかで電車が通り過ぎる、低い響き。

 その全部が、彼女の沈黙だけを残して遠ざかっていく。


 しばらく、彼女は何も言わなかった。

 ほんの一瞬、声をかけるべきだと思った。

 

 大丈夫です。

 そんなことは関係ありません。

 自分は気にしません。

 

 どれも浮かんだけれど、そのどれもが今の彼女の痛みに届く前に、軽い慰めとして落ちてしまう気がしたので無言で頷いた。


 ほんの一瞬、手を差し伸べようとしたけれど、伸びかけた手を止める。

 そのかわり、視線だけは逸らさず、彼女の言葉が戻ってくるのを静かに待った。


 やがて、彼女の呼吸が少しずつ不規則になる。

 吸って、止まって、吐ききれないまま、また浅く吸う。


 やがて、意を決したように彼女が口を開いた。

「あなたには、ちゃんとした未来を選んでほしくて……」


 声は、ほとんど掠れていた。

「私と一緒にいたら、きっと……いろんなものを我慢させてしまう。……いろんなことを、諦めさせてしまうから……」


 彼女はそこで、俯いたまま小さく首を振った。

「それでも、あなたは私と一緒にいてくれると思うから……」

 その言葉だけが、ひどく苦しそうだった。


「きっと、何でもないみたいな顔をして、私に合わせてくれると思うから……」

 大粒の涙が、彼女の頬を伝う。

「……そのことが、嬉しい反面、何よりも怖かったんです」

 彼女の声が、そこで崩れた……。


「あなたには、ちゃんと笑っていてほしい」

「私のせいで……」

「私の身体のせいで、何かを諦めてほしくないんです」


 風がまた吹いて、彼女の髪が頬にかかる。

 けれど、直そうとする余裕もないのか、そのまま風に髪が揺れていた。


「だから……」

 ほんのわずかに、彼女は顔を上げる。

「……離れようって、決めました」


 言い終えたあと、彼女の肩の力がわずかに抜けたように感じた。


 決めた、というよりそう決めるしかなかった、と言っているように聞こえた。


「だから、もう……私のことは、忘れてください……」

 泣きながら、消え入りそうな声で小さく呟いた。

「……それが、いいと思います」

今回は、結衣が別れを選んだ理由のさらに奥にあったものを語る場面でした。


前回までの結衣は、蒼汰の優しさに甘えてしまうことを怖れていました。


けれど今回は、それだけではありません。

恋人として過ごす時間。

触れ合うこと。

将来のこと。

子供のこと。

そうした未来を考えたとき、結衣は自分が蒼汰に何かを我慢させてしまうのではないかと考えていました。


「あなたには、ちゃんとした未来を選んでほしくて……」

この言葉は、とても優しい言葉です。

けれど同時に、結衣自身をその未来から外してしまう言葉でもあります。


蒼汰の幸せを願うほど、自分はいない方がいいと考えてしまう。 好きだからこそ、そばにいたいのではなく、離れようとしてしまう。


その矛盾が、この回の結衣の痛みです。

「私のことは、忘れてください」

そう言うことでしか、彼女は蒼汰の未来を守れないと思っていました。


けれど、その結論を聞いた蒼汰が何を選ぶのか。

次回は、結衣が差し出した“優しい別れ”に、蒼汰がどう受け止めたのか、どのような決断を選ぶのかというところに焦点をあてていきます。


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