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僕と彼女の最適解―合理主義者は恋が計算できない―  作者: 雨羽善和


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第三十五話、同じ速度で隣にいてくれた

第三十五話です。


屋上で、結衣は少しずつ自分の本音を語り始めます。

優しくされることが嬉しかった。

けれど、その優しさに甘えてしまうことが怖かった。


これまで彼女が経験してきた関係では、最初は誰もが優しかった。 けれど、いつしか互いにどう接すればいいのか分からなくなり、少しずつ距離が変わっていく。


だからこそ、蒼汰の優しさは、結衣にとって救いであり、同時に恐れでもありました。


可哀想とも言わず。 無理しなくていいとも先回りせず。 ただ、同じ速度で隣にいてくれた。

その優しさが嬉しかったからこそ、結衣は壊れる前に終わらせようとしていました。

 大丈夫です。

 迷惑ではありません。

 気にしなくていいです。

 

 どれも浮かんだけれど、そのどれもが今の状況に当てはまる言葉ではない思い、使わなかった。


 何も言わない代わりに、聞いていることが伝わる程度に、目を合わせたままでほんの一度だけ頷いた。


「あなたは優しいから……」

 彼女は、泣きそうな顔のまま続けた。

 

「きっと、無理してでも合わせてくれるって分かってたんです」

「だから余計に、それが嫌で……」

 

 その言葉に、胸の奥がわずかに軋む。

 優しさが、彼女にとって負担になる。

 その可能性を考えていなかったわけではない。

 けれど、彼女の口からそう言われると自分の頭の中で理解していたはずのことが別の重さを持って落ちてきた。 


「……そういう人、今までにもいました」

 彼女は視線を落としたまま言葉を続けた。

 

「最初は、みんな優しいんです」

「無理しなくていいよって言ってくれて、大丈夫?って、何度も気にかけてくれて……」


 彼女の声がだんだんと細くなる。

 夕暮れ前の光が、彼女の横顔に淡く触れている。

 その明るさの中で、目元に溜まったものだけが、かすかに光っていた。


「でも、そのうち……分からなくなるんです」

「どう扱えばいいのか、って」

「私も、相手も」

 彼女の指先が震えていた。

 

「気を遣わせてるのが分かって……」

「それなのに、どうすればいいのか分からなくて……」

「少しずつ、距離が変わっていって……」


 言葉が、そこで崩れかける。

 彼女は一度だけ唇を噛んだ。それでも、逃げずに続けた。

「……それが、ずっと怖くて」

 最後の一言は、風に持っていかれそうなほど小さかった。


 そこで、ほんの一瞬だけ彼女は顔を上げた。

 風に揺れた髪が頬にかかる。

 けれど、今度はそれを直そうとしなかった。


 そして、言葉の温度がわずかに変わり穏やかになった。

「でも――あなたは、違いました」

 その瞬間、彼女の身体がわずかに前へ寄った。

 無意識に距離を詰めてしまったことに気づいたのか、すぐに足元で止まる。

 

 それでも、落ちたはずの視線はもう完全には逃げなかった。

「あの日、少し息が上がったときも、何も言わずに歩く速さを落としてくれて……」

 

 そう呟く彼女の声は震えていたけれど、さっきまでとは違う。

 ただ崩れているのではなく、ずっと抱えていたものを、どうにか形にしようとしている声だった。


「気づいてるはずなのに、気づいてないみたいに振る舞ってくれて……」

 そこで一度、彼女の言葉が詰まった。

 

 遠くで電車の音がした。風に薄く削られたその音が、屋上の柵の向こうへ流れていく。

「……あれが、嬉しかったんです」

 彼女は泣きながら、小さく笑っていた。


 笑おうとした口元が、うまく形を保てずに崩れる。

 だが、その表情は悲しみだけではなかった。


「可哀想だとも言わないで」

「無理しなくていいとも言わないで」

「ただ、同じ速度で隣にいてくれた」

 一つひとつの言葉を置くたびに、彼女の指先が服の裾を強く握る。


「それが、嬉しかったんです」

 同じ言葉を、もう一度繰り返す。

 さっきよりも小さな声だった。

 けれど、その分だけ深く響いた。


「……だから」

 彼女は息を吸う。

 だが、吸い込んだ分だけ声が震えている。


「壊れるくらいなら、最初からなかったことにした方がいいって……思って」


 その言葉だけが、少し早くなった。

 まるで、最後まで言い切らなければ途中で崩れてしまうと分かっているみたいだった。


「このまま続けたら、きっと私は期待してしまうから」

「また会いたいとか、次も一緒に行きたいとか、もっと話したいとか……そういうことを、普通に思ってしまうから」

 そこで、彼女はようやく視線を落とした。

 

「でも、そのたびに怖くなるんです」

「次は迷惑をかけるかもしれない」

「次は途中で動けなくなるかもしれない」

「次は、あなたの予定まで変えてしまうかもしれない」


 風が強く吹いて、彼女の髪が頬にかかる。直そうとした指先が、途中で止まる。

「あなたは、たぶん怒らない」

「困った顔もしない」

「何でもないみたいに、私に合わせてくれる」

 彼女の声が、そこでいっそう細くなっていく。

「だから……怖かったんです」

 涙がひとつ、頬を伝った。


「……嫌われるより」

「……責められるより」

「あなたの優しさに、私が甘えてしまうことの方が……ずっと怖かった……」

 言い終えたあと、屋上に沈黙が落ちた。最後の言葉は、ほとんど息に近かった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、結衣が蒼汰に対して抱いていた本当の感情を語る場面でした。


結衣が怖かったのは、蒼汰に嫌われることだけではありません。

むしろ、彼が怒らず、責めず、困った顔もせず、何でもないように自分に合わせてくれることの方が、嬉しい反面、怖かった。


それは、彼の優しさに甘えてしまう未来を想像してしまったからです。

誰かに気を遣われること。

大丈夫かと何度も聞かれること。

無理しなくていいと言われ続けること。


それらは確かに優しさです。

けれど結衣にとっては、自分が相手の生活や予定、そして未来まで変えてしまうのではないかという怖さにも繋がっていました。


そんな中で、蒼汰は違いました。

可哀想だとも言わない。

無理しなくていいとも、先回りしない。

ただ、何でもないように彼女の歩幅に合わせて、同じ速度で隣にいてくれる。


結衣は、それが嬉しかった。

そして、嬉しかったからこそ、その優しさに甘えてしまうことが怖かった。


この回は、結衣が蒼汰を遠ざけた理由が「嫌いになったから」ではなく、「好きになってしまうことが怖かったから」だと明らかになる場面でもあります。


優しさは、人を救うこともあります。

けれど、ときには相手の弱さや恐れを浮かび上がらせてしまうこともある。

だからこそ、人と人との距離は難しいのだと思います。

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