第三十四話、理由を聞かせてもらってもいいですか
第三十四話です。
「これじゃあ、嫌いになれない」
そう本音を零した結衣に、蒼汰は静かに問いかけます。
「……理由を、聞かせてもらってもいいですか」
それは、別れの理由を問い詰めるための言葉ではありません。
結衣がこれまで抱え込み、誰にも見せずにいた痛みを、自分の言葉で置くための場所を空ける問いでした。
普通に笑いたかった。
普通に歩きたかった。
好きな人と、当たり前の時間を楽しみたかった。
結衣が隠してきた苦しさが、初めて言葉になります。
「……理由を聞かせてもらってもいいですか」
声が強くならないように、少しだけ抑揚を抑えながら間を置いてから言った。
ただ理由を問い詰めるためではない、彼女が自分の言葉を置けるための場所を、ただ空けるための問いだった。
「……はい」
やかて彼女は小さく頷いた。
指先が、わずかに自分の服の裾を掴んでいる。
風が屋上の柵を抜け、かすかな金属音を鳴らした。
夕暮れ前の光はまだ明るいのに、空の端だけが少しずつ色を薄め始めている。
彼女はその光から逃げるように、視線を足元へ落とした。
「私は、このとおり持病を持ってるので……普通の人と同じように動くことが出来ません」
言葉を選ぶように、ゆっくりと話している。
それでも声の奥には、すでに抑えきれないものが滲んでいた。
「……だから」
その先がなかなか続かない。
喉の奥で、一度だけ音が詰まっているように見えた。
彼女の影は、床の上で小さく揺れていた。
それでも、こちらは何も言わなかった。
頷くことも、促すことも、今はしない。
言葉を急かせば、その時点で彼女の呼吸を乱してしまう気がしたので待つことにした。
ふいに遠くで電車の走る音がした。
車の流れも、街のざわめきも、風に薄く削られて届いてくる。
彼女はその音の隙間に、ようやく次の言葉を置いた。
「一緒にお出かけしたり、映画やライブを楽しむことも、長旅をすることも……」
その次の瞬間、彼女の息が突然震えはじめた。
「こんな身体だと満足に楽しめません!!」
最後の言葉だけが、少し強くなる。
怒りではない、自分自身に向けた行き場のない悔しさだった。
「最初は、大丈夫だと思ってました……」
彼女は服の裾を掴む指に、さらに力を込めていた。
「少し無理すれば、普通にできるって思ってました。普通の人みたいに、笑って、歩いて、楽しめるって……」
風が吹き、彼女の髪が頬にかかる。
直そうとする手が一度だけ上がりかけて、途中で止まった。
「でも、楽しいはずの時間なのに、途中で辛くなって……」
「あなたに迷惑をかけて……」
「それで、気を遣わせるのが……すごく嫌で……」
言葉が途切れるたびに、彼女の呼吸が小さく乱れる。
何か返すべきか、一瞬だけ迷った。
今回は、結衣が蒼汰との関係を終わらせようとした理由を、少しずつ話し始める場面でした。
蒼汰の、「理由を、聞かせてもらってもいいですか」という問いは、説明や正当化を要求するものではありません。
すぐに許すのでもなく、責めるのでもなく、まず結衣自身の言葉を受け取ろうとするための問いです。
一方、結衣が何度も口にするのは「普通」という言葉でした。
普通の人と同じように歩きたい。
映画やライブを楽しみたい。
好きな人と遠くへ出かけたい。
けれど、無理をすれば身体がついてこない。
楽しい時間の途中で苦しくなり、相手に気を遣わせてしまう。
「こんな身体だと満足に楽しめません」
その言葉に込められているのは、蒼汰への怒りではありません。
できない自分への悔しさと、好きな人の負担になりたくないという恐れです。
だからこそ蒼汰は、安易に「大丈夫」とは言いません。 励ますことも、結論を急ぐこともせず、彼女が言葉を置き終えるまで待ちます。
次回、蒼汰は結衣の痛みに、どのような言葉を返すのでしょうか。




