第三十三話、これじゃあ嫌いになれない
第三十三話です。
病院の屋上へ出た蒼汰と結衣。
街では、誰かが食事をし電車に乗りそれぞれの日常へ帰っていく。
そんな当たり前の気配から少し離れた場所で、結衣は蒼汰に尋ねます。
「……やっぱり、怒ってますよね?」
責められた方が楽だった。
怒ってくれれば、彼を嫌いになる理由にできた。
けれど、蒼汰が選んだのは怒りでも正しさでもなく、まず彼女の話を聞くことでした。
相互理解を目的にした誠実さと、相手に寄り添おうとする優しさが、ときに人を傷つけることもある。
だから、人間関係というものは難しい。
そうしたことを伝えたいという想いを込めて描写しました。
ふいに、風向きが変わった。
病院の下にある飲食店街の方から油の匂いと焼いた肉の香ばしさ、それからどこか甘いソースの匂いが、かすかに混ざった日常の匂いが運ばれてきた。
外の世界は、何事もなかったように続いている。
誰かが食事をして、誰かが電車に乗り、誰かが家へ帰っていく。
その当たり前の気配の中で、彼女は手すりの近くに立っていた。
風が彼女の髪を揺らす。
細い髪が頬にかかり、彼女はそれを直そうとして途中でやめた。
その仕草が、妙に頼りなく見えた。
彼女は申し訳なさそうに視線を落としたまま、小さく呟いた。
「……やっぱり、怒ってますよね?」
問いかけというより、自分で答えを決めてしまっているような声だった。
少しだけ間を置いてから、彼女は言葉を続けた。
「突然、あんなことを言ったから……」
その声は、病気であることを差し引いても、思っていたよりずっと弱かった。
風にさらわれそうなほど細く、かすかに震えているようにも感じた。
顔を上げた彼女の眼を、正面から見るとその瞳の奥に、うっすらと涙の痕が残っていた。
「怒るかどうかは、話を聞いてから決めます」
できるだけ感情を抑え、平坦に聞こえるよう意識して言った。
彼女は一瞬だけこちらを見て、すぐに視線を逸らした。
二人きりの屋上に沈黙が落ちる。
遠くで電車の音がした。
車の流れは途切れない。
飲食店街の匂いも、まだ微かに風の中に残っている。
その全部が、まるで別の世界の出来事みたいに遠かった。
「……ずるいです」
その沈黙を、無理に埋めるように彼女が呟いた。
「これじゃあ、嫌いになれない」
泣きそうな顔のまま、それでもこちらを見ないで、ほとんど独り言のように呟く。
風がまた吹いて、彼女の髪が頬にかかる。
今度は、それを直そうとする手が少しだけ遅れた。
――
怒ってくれた方が、きっと楽だった。
責められた方が、ちゃんと悪者になれた。
そうすれば、自分で終わらせたことにも、もう少しだけ納得できたのかもしれない。
なのに彼は怒らない。
責めることもしない。
怒るかどうかさえ後回しにして、まずこちらの話を聞こうとしている。
――そういうところが、ずるい。
突き放す理由を探しているのに、彼はいつも突き放せない理由だけを静かに置いていく。
嫌いになれたらよかった。
ひどい人だと思えたら、もっと簡単に終われた。
けれど、嫌いになる理由より先に嫌いになれない理由ばかりが残ってしまう。
――
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、病院の屋上で結衣が蒼汰の気持ちを確かめようとする場面でした。
「怒るかどうかは、話を聞いてから決めます」
この言葉は、結衣を無条件に許したものではありません。
蒼汰にも突然関係を終わらせられた痛みや、聞きたいことがあります。
それでも、自分の感情だけで結論を出す前にまず彼女の言葉を受け取ることを選びました。。
その姿勢が、結衣にとっては優しさであると同時に残酷なものでもありました。
怒ってくれれば、彼を悪者にできる。
責められれば、自分も悪者として関係を終わらせられる。
けれど、蒼汰は結衣が彼を突き放すための理由を与えてくれません。
「これじゃあ、嫌いになれない」
それは愛情を告げる言葉というより、嫌いになることでしか終わらせられないと思っていた結衣の行き場を失った本音です。
嫌いになりたいのに、嫌いになれない。
離れなければならないと思うほど、離れたくない気持ちが浮かび上がる。
次回、結衣はこれまで言えなかったことを少しずつ蒼汰へ話し始めます。




