第三十二話、この笑顔をもう一度みたかった
第三十二話です。
再会した蒼汰と結衣は、病室を出て、並んで歩き始めます。
「……やっぱり、らしくないですね。今井さん」
結衣が見せた、少しだけ柔らかな笑顔。
その瞬間、蒼汰はようやく気づきます。
なぜ仕事を抜け、返信を待たず、ここまで急いで来たのか。
義務でも、責任でも、同情でもない。
ずっと説明できなかった行動の起点が、ひとつの答えへ繋がる回です。
エレベーターの前で立ち止まると、上階からゆっくりと降りてくる表示灯を、二人で並んで見上げる形になった。
「本当に、職場を抜け出してきたんですか?」
沈黙を軽くなぞるように、彼女が口を開く。
そこには、わずかに意地悪な響きが交じっていた。
「正確には、早退です」
そう答えてから、少しだけ間を置いて更に補足を入れた。
「ただ、かなり強引ではありましたが……」
彼女は一瞬だけ目を見開いた。それから、理解したように小さく息を漏らす。
「……やっぱり、らしくないですね。今井さん」
その笑みは、さっきよりも柔らかかった。
からかうでもなく、呆れるでもなく。
ただ、そこに戻ってきたものを、確かめるような笑い方だった。
その瞬間、胸の奥でつかえていた何かが剥がれた。
――そうか。
これだったのかもしれない。
病院に向かう理由を、ずっと探していた。
義務ではない。
責任でもない。
同情でもない。
彼女を救うためでも、正しい答えを出すためでもない。
――ただ、この笑い方を、もう一度見たかった。
そう認めた瞬間、これまでうまく繋がらなかった行動の起点が、ひとつの線になる。
入院していると聞いたときも、面会できるか分からないと言われたときも。
返信を待たずに電車へ乗ったときも全部、同じ場所へ向かっていた。
彼女がいる場所へ。
彼女の声がある場所へ。
彼女が、まだ自分の知らない痛みを抱えたまま、それでも笑おうとしている場所へ。
――惹かれている。
言葉にすると、あまりに単純だった。
けれど、その単純さを受け入れるまでに、ずいぶん遠回りをした気がした。
ちょうどそのタイミングで、エレベーターが到着する。
扉が開き、促されるように中へ入って最上階のボタンを押す。
扉が閉じ、閉ざされた空間にわずかな機械音だけが残ると同時に、ゆっくりと上昇が始まった。
並んで立つ距離がさっきよりほんの少しだけ近い。
それでも触れることはない。触れなくても分かる距離が、そこにあった。
表示の数字が一つずつ増えていく。その間、どちらも何も言わない。
沈黙は気まずくなかった。あのバスの中と同じで、言葉がなくても成立する時間が、確かにそこにある。
やがて、最上階で止まり、小さな振動と同時にエレベーターの扉が開いて病院の屋上に到着した。
屋上に出ると、思っていたよりも風があった。
夕暮れにはまだ少し早いけれど、空の青はもう昼の濃さを失い始めていて、遠くの雲の縁だけが、薄く金色を帯びていた。
病院の白い外壁の向こうに、市街地が広がっている。
車の走る音が、地上から低く重なって聞こえた。
少し遅れて、遠くの線路を走る電車の音が、風に乗って細く届いている。
その音は、どこか現実味が薄かった。ここにいる二人だけが、街の流れから少し外れた場所に取り残されているような気がした。
今回は、蒼汰が病院まで来た本当の理由に、自分自身で気づく場面でした。
彼はこれまで、自分の行動を合理性によって言語化しようとしてきました。
入院していると知ったから。
面会時間に間に合う必要があったから。
彼女の状態を確認するべきだと思ったから。
けれど、どの理由も、蒼汰自身を完全には納得させられませんでした。
その答えになったのが、結衣の笑顔です。
「……やっぱり、らしくないですね」
その一言と笑い方を見た瞬間、蒼汰はようやく認めます。
彼女を救いたかったわけでも、正しい答えを与えたかったわけでもない。
ただ、この笑い方をもう一度見たかった。
そして、自分は彼女に惹かれている。
複雑に組み立ててきた思考の先にあった答えは、驚くほど単純なものでした。
エレベーターの中で、二人の距離は少しだけ近づきます。
それでも、まだ触れることはありません。
触れなくても分かる距離。
言葉がなくても成立する時間。
それは、二人が出会った送迎バスの中と同じです。
物語は、いよいよクライマックスに突入します。
引き続き、見ていただけたら嬉しいです。




