第三十一話、ちゃんと連れてきてますよ
第三十一話です。
別れて以来、初めて顔を合わせた蒼汰と結衣。
二人の間には、まだ言葉にできないことがいくつも残っています。
けれど、結衣の膝の上には、あの日と同じ小さなあざらしのぬいぐるみがありました。
「ちゃんと、連れてきてますよ」
その一言から、止まっていた二人の会話が少しずつ動き始めます。
彼女は、すぐには答えなかった。
膝の上のぬいぐるみを、少しだけ抱き直す。
それから、困ったように、けれどどこか安心したように笑った。
「……本当に、来たんですね」
返す声は少しだけ柔らかくて、それだけで、あのときから時間がちゃんと続いていたことが分かる。
小さく息をついたあと、彼女はいつもの調子を取り戻すように、少しだけ首を傾げた。
「お仕事中じゃないんですか」
責めるわけでもなく、ただ気遣いするような言い方で問いかけてきた。
「早退してきました。……かなり強引に」
言い終えたあと、ほんのわずかに間が落ちる。
彼女はじっとこちらを見たまま、その言葉をどう受け取るか、ほんの数秒だけ考えているようだった。
やがて、わずかに息を漏らして、
「……らしくないですね」
そう言って、ほんの少しだけ笑った。
その笑い方は、からかうものでも呆れるものでもなくて、安心したと言うのがいちばん近かった。
「……そうかもしれません」
いつもの自分なら、もっと理由を並べたはずだった。
必要性。
合理性。
許容される範囲。
起こり得る損失。
けれど、今ここにいる理由だけは、まだうまく説明できないままだった。
彼女の膝の上にあるそれに、視線が留まる。
「……それ」
気づけば、口に出していた。
彼女も、同じように視線を落とす。一瞬だけ、指先でその頭を撫でる。
「この子ですか」
小さく笑って、軽く持ち上げてみせる。
「ちゃんと、連れてきてますよ」
冗談めいた調子だったが、手放す気配はなかった。
あの日、何でもない顔で受け取っていたはずのものが、今は彼女の膝の上で、確かな場所を得ている。
それを見た瞬間、胸の奥で何かが静かにほどけた。
「……持っていてくれたんですね」
それ以上、うまい言葉が見つからなかった。
彼女は、少しだけ目を細める。
「捨てられませんよ」
そう言ってから、少しだけ困ったように笑った。
「……もらったものなので」
その言い方が、思っていたよりも胸に残った。
ぬいぐるみを、そっとベッドの上に置く。ほんの一瞬だけ、名残惜しそうに手を離す。
それから、ゆっくりと立ち上がると、彼女の足元がわずかに揺れた。
反射的に彼女の肩に手が伸びかけるが、触れる直前で止まる。
そのまま距離だけが保たれ、彼女は自分で体勢を整え、小さく息をついてから顔を上げた。
「……大丈夫です」
その声には、弱さを隠すための強がりではなく、自分で立ち直ろうとする意志があった。だから、頷くだけにした。
「……少し、外に出ませんか」
言ってから、わずかに遅れて意味を測る。
誘った理由は説明できる。
病室よりも空気が変わる。
話しやすくなる。
彼女の負担にならない範囲で気分転換になる。
いくらでも、後から理由はつけられるけれど、本当のところは少し違う気がした。
彼女は一度だけ視線を落とした。
考えているというより、どこまでなら大丈夫かを確かめているような間だった。
「少しなら」
何かを確かめるようにわずかに間を置いてから、静かに頷いた。
病室の扉を開けて廊下に出ると、白い壁、無機質な照明、遠くで鳴るナースコールの音。
さっきまで病室にあった柔らかい空気が、少しだけ遠ざかった。
並んで病院内の廊下をゆっくりと歩き出す。靴底が床を打つ音だけが、規則的に響く。
彼女の歩幅は小さかった。
それに合わせて、こちらも自然と速度を落とした。
遅い、とは思わなかった。むしろ、その速度になって初めて、呼吸が少しずつ自分のものに戻っていくような気がした。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、再会した蒼汰と結衣が、ようやく少しずつ言葉を交わし始める場面でした。
「……本当に、来たんですね」
結衣のこの言葉には、驚きだけでなく、安堵も含まれています。
そして蒼汰が目を留めたのは、結衣が抱いていた小さなあざらしのぬいぐるみでした。
「ちゃんと、連れてきてますよ」
結衣が連れてきたのは、ぬいぐるみだけではありません。
蒼汰と過ごした一日の記憶。 言葉にできなかった感情。 終わらせたあとも捨てることのできなかったもの。
それらすべてを、結衣はまだ手放さずに抱えていました。
また、結衣が立ち上がった際、蒼汰は反射的に手を伸ばしかけますが、触れる直前で止まります。
支えないのではなく、彼女が自分で立とうとする意思を尊重する。
ここにも、蒼汰なりの「踏み込みすぎない優しさ」が表れています。
そして二人は、並んで病院の廊下を歩き始めます。
結衣の歩幅に合わせて速度を落としたことで、蒼汰自身の呼吸もようやく整っていく。
この場面は、二人の関係が元に戻ったのではなく、以前とは違う速度で、もう一度始まりかけていることを描いたものです。
次回、二人は病室の外で、これまで避けてきたこと答えが出せなかったことと少しずつ向き合っていきます。




