第三十話、お久しぶりです
第三十話です。
病室番号を頼りに、結衣のもとへ辿り着いた蒼汰。
扉の向こうにいた彼女は、あの日と同じ、小さなあざらしのぬいぐるみを抱いていました。
別れて以来、初めて交わす視線。
言いたいことはいくつもあるはずなのに、どの言葉も今ここに置くには重すぎる。
そんな二人の、静かな再会を描きます。
扉を開くと、白いカーテンの向こうから差し込む光が、室内をやわらかく満たしていた。
機械の規則的な音と、かすかな外の気配だけが、静かにそこにある。
病室の一番奥にある窓際のベッドに彼女はいた。
こちらには気づかず、外の景色をぼんやりと眺めていた。
風景を見ているというより、その向こう側にある何かを追っているようにも見えた。
膝の上には、見覚えのある小さなぬいぐるみがあった。あの日の夕食後にショッピング通りで、彼女が少しだけ足を止めた店に置いていたもの。
――まだ、持っていたのか。
その事実が、言葉にするより先に胸の奥へ落ちてくる。
足を踏み入れる。床がわずかに軋む音で、彼女の肩が小さく揺れた。
ゆっくりと振り向いた彼女と、正面から視線が合う。
一瞬だけ、時間が止まったようにどちらも言葉を選べずにいる。
何かを言おうとする前に、選べなくなる。
必要なはずの言葉が、どれも今ここに置くには重すぎて何も口にできないまま、互いに見ていた。
どうして。
大丈夫ですか。
何かできることはありますか。
会いに来ました。
どれも違った。
結局、いちばん無難で、いちばん遠回りな言葉が先に出た。
「……お久しぶりです」
声に出してみると、それは思っていたよりも平坦で、自分でも少しだけ可笑しくなる。
――
来るはずがないと思っていた。
来ない方がいいと思っていた。
終わりにしたのは自分だ。
これ以上近づかない方がいいと決めたのも、自分だ。
それなのに、扉の向こうに彼の気配を感じた瞬間、胸の奥がどうしようもないくらい安堵してしまった。
来てほしくなかった。
来てほしかった。
その二つが同じ場所に並んでいる。
膝の上のぬいぐるみを、少しだけ強く抱く。
あの日、何も言わずに彼から差し出されたもの。
欲しいとも言っていないのに、欲しかったことだけを静かに拾われてしまったもの。
それを、まだ手放せずにいる。
終わりにしたはずなのに、もう頼らないと決めたはずなのに。
彼が来てしまった以上、もう何もなかったことにはできない。
体調のこと。
これから先のこと。
あの電話で、何も言わずに終わらせようとした理由。
どこかで話さなければならない。
そう思うだけで怖い。
――それでも、
もう一度だけ彼と会えたことを嬉しいと思ってしまった。
そのことが、一番怖かった。
――
更新するのも、タイトルどおり「お久しぶりです」となりましたが如何だったでしょうか。
今回は、別れた二人が病室で再会する場面でした。
蒼汰の中には、
「どうして何も言わなかったのか」 「体調は大丈夫なのか」 「自分にできることはないのか」
という、いくつもの言葉があります。
けれど、どれを口にしても、結衣に説明や返答を求めることになってしまう。
そのため、彼が最初に選んだのは、
「お久しぶりです」
という、いちばん無難で、いちばん遠回りな挨拶でした。
そして結衣の中には、
来てほしくなかった。 来てほしかった。
という、相反する二つの感情があります。
彼を遠ざけたのは自分です。 それでも、扉の向こうに彼が現れたことへ安堵してしまう。
膝の上にあるあざらしのぬいぐるみは、終わらせたはずの関係が、結衣の中ではまだ完全に消えていないことを表しています。
この再会によって、二人が避けてきたものは、もう「なかったこと」にはできません。
次回、蒼汰と結衣は、別れたあと初めて言葉を交わします。




