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幕間劇「月明かりの下で、さよならを覚えた」

いつも見ていただいて本当にありがとうございます。


本編では、蒼汰が結衣のいる病室へ辿り着き、二人が再会しようとしています。


その前に、小説家になろう限定配信の幕間劇をお届けします。


これは、結衣が蒼汰と出会うよりもずっと前の物語。


なぜ彼女は、誰かに頼ることを怖がるようになったのか。

なぜ相手のためを思うほど、自分から関係を終わらせようとするのか。


「優しさが人を傷つけることもある」


結衣がそのことを知り、さよならを先に選ぶようになるまでの過去を描きます。


 今井蒼汰と出会うよりも、ずっと前のこと。


 朝比奈結衣は、今よりもよく笑う人だった。


 休日になれば朝から予定を立て、行ったことのない店を地図に登録した。季節限定という言葉に弱く、遠回りになっても桜並木を選び、旅行雑誌を開けば、まだ行くと決めてもいない土地の宿まで調べた。


「来年は、ここに行ってみたいね」


 そう言って、未来の話をすることも怖くなかった。


 当時付き合っていた彼とは、結婚を意識していた。


 具体的な日取りを決めていたわけではない。けれど、駅から少し離れた静かな町を歩けば、「こういう場所で暮らすのもいいね」と話した。


 家具店では、買う予定もない食器棚を眺めた。


「二人なら、これくらいの大きさで足りるかな」


「結衣は物を増やしそうだから、もう少し大きい方がいいんじゃない?」


「失礼だなあ」


 頬を膨らませると、彼は笑った。


 そんな会話が、結衣は好きだった。


 特別な約束ではない。


 手を伸ばせば届く場所にある、ごく普通の未来だった。


 朝になれば仕事へ行き、休日には会い、疲れた日は近くの店で夕食を済ませる。


 人が当たり前と呼ぶものを、結衣も当たり前のように楽しんでいた。


 自分だけが、その外側へ落ちる日が来るなど考えたこともなかった。


     *


 最初の異変は、ほんの小さなものだった。


 階段を上っただけで息が切れた。


 真夏でもないのに、冷たい汗が掌に滲んだ。


 少し休めば治まったため、疲れているだけだと思った。


「最近、顔色悪くない?」


 彼に言われても、笑ってごまかした。


「仕事が忙しいだけ。寝たら治るよ」


 治らなかった。


 ある朝、駅のホームで視界が暗くなった。


 音が遠ざかり、膝から力が抜けた。


 気がついたとき、結衣は病院の白い天井を見上げていた。


 検査は何日も続いた。


 採血、画像診断、聞いたことのない数値。医師の口から告げられた病名は、音だけが妙に鮮明で、意味はすぐには理解できなかった。


 命に直ちに関わるものではない。


 ただし、治療には時間がかかる。


 今後も定期的な通院が必要になる。


 無理を避け、体調の変化に注意しながら生活すること。


 説明を聞きながら、結衣は何度も頷いた。


 理解しているふりをしなければ、その場に座っていられない気がした。


 病室の窓から、白い昼の月が見えた。


 夜の居場所を失ったように、薄く空へ残っていた。


     *


 彼は優しかった。


 入院中は何度も見舞いに来た。


 飲み物や雑誌を持ってきて、結衣が疲れていると分かれば、長居をせずに帰った。


「無理しなくていいから」


 彼はいつもそう言った。


 退院してからも、その優しさは変わらなかった。


「今日は外出しない方がいいんじゃない?」


「旅行は、もう少し体調が安定してからにしよう」


「迎えに行くから、そこで待ってて」


 初めのうちは、ありがたいと思っていた。


 自分の身体を気遣ってくれる。


 以前と同じようにできないことを、責めずに受け入れてくれている。


 けれど、少しずつ何かが変わった。


 彼は結衣に予定を尋ねなくなった。


 休日の行き先は、体調に負担がない場所だけになった。


 旅行雑誌は開かれなくなり、家具店の前を通っても立ち止まらなくなった。


「今度、あの店に行かない?」


 結衣が誘うと、彼は困ったように笑った。


「無理しなくていいよ」


「今日は調子いいよ」


「でも、途中で具合が悪くなったら大変だろ」


 言い返すことができなかった。


 心配してくれている。


 彼は間違ったことを言っていない。


 正しい言葉だった。


 だからこそ、その言葉に傷ついたと伝えることができなかった。


 彼の優しさの中で、結衣が決められることは少しずつ減っていった。


 彼は結衣を守ろうとしていた。


 けれど守られるたびに、彼女は自分の人生から遠ざけられていくような気がした。


 結婚の話も、いつの間にか消えていた。


 彼は「来年」という言葉を使わなくなった。


「いつか」


「そのうち」


「体調が落ち着いたら」


 未来は、輪郭のない言葉へ置き換えられていった。


     *


 別れを告げられたのは、月の明るい夜だった。


 二人でよく歩いた川沿いの遊歩道。


 水面に細長く伸びた月の光が、流れに合わせて揺れていた。


 彼は何度も言葉を選び直した。


「結衣が悪いわけじゃない」


 最初に、そう言った。


「俺では、支えきれないと思う」


 結衣は黙って聞いていた。


「このまま一緒にいたら、結衣にも無理をさせるかもしれない」


 彼の声は優しかった。


 怒ってもいない。


 責めてもいない。


 ただ、すでに決めたことを、なるべく彼女が傷つかない形で差し出そうとしていた。


「これは、結衣のためでもあると思うんだ」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に冷たいものが落ちた。


 彼は最後まで優しかった。


 結衣が怒る理由を、ひとつも残さなかった。


 病気を責めなかった。


 迷惑だったとも言わなかった。


 好きではなくなったとも言わなかった。


 ただ、彼女のために別れるのだと言った。


 だから結衣も、彼を責めることができなかった。


「……分かった」


 笑おうとした。


 うまく笑えていたかは分からない。


「今まで、ありがとう」


 彼は安心したように、ほんの少しだけ表情を緩めた。


 その顔を見たとき、結衣は初めて理解した。


 優しさは、人を救うためだけに使われるものではない。


 相手に罪悪感を抱かせず、自分が立ち去るためにも使うことができる。


 柔らかな言葉で包まれているからこそ、拒むことも、怒ることもできない。


 刃物なら傷つけられたと分かる。


 けれど優しさは、痛みの理由さえ曖昧にしてしまう。


 彼が去ったあとも、結衣は川辺に立っていた。


 水面の月は、揺れても壊れなかった。


 けれど手を伸ばしても、触れることはできなかった。


 あの日を境に、結衣は未来の話をしなくなった。


 誰かに会いたいと思っても、それをそのまま口にしなくなった。


 誰かの優しさに救われても、いつかその優しさを負担へ変えてしまう前に、自分から距離を置くようになった。


 置いていかれる前に、立ち去る。


 守られる前に、大丈夫だと言う。


 傷つけられる前に、自分で終わりを選ぶ。


 それが、相手のためになるのだと思った。


 そうすることでしか、誰かを好きでいる方法を知らなかった。


 夜空では、月が何事もなかったように輝いていた。


 あまりに優しく、あまりに遠い光だった。


 結衣はその夜、月の裏側で、さよならを覚えた。

今回は、小説家になろう限定配信の幕間劇として、結衣が蒼汰と出会う以前の過去を描きました。


かつての結衣は、今よりも明るく、未来の話をすることを恐れない普通の女性でした。


けれど、病気を発症して結婚を意識していた相手との関係が少しずつ変わっていきます。


相手は最後まで優しかった。

責めることもなく、怒ることもなく、「結衣のため」と言って別れを選びました。


だからこそ、結衣は怒ることも、傷つけられたと訴えることもできませんでした。


この経験がのちに、置いていかれる前に自分から立ち去る、守られる前に大丈夫だと言う、負担になる前に関係を終わらせるという現在の彼女の行動へ繋がっています。


次回、本編では蒼汰と結衣が再会します。


この幕間劇を踏まえると、これから先に二人の間で交わされる言葉や沈黙が、少し違って見えるかもしれません。

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