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第二十九話、その延長線上に君がいる

第二十九話です。


病院へ向かう電車の中で、蒼汰のもとに結衣から返信が届きます。


『◎◎◎号室にいます』

余計な言葉は何もない。 けれど、その短い一文だけで、目的地は単なる病院ではなくなりました。


乗り換え、改札、坂道、階段。

彼女のいる場所へ向かって、蒼汰はただ走り続けて結衣が待っている病室の前へと辿り着きます。


 その時、ポケットの中で僅かな振動が伝わる。

 携帯を取り出して、画面を見ると一件の通知が入っていた。 


 彼女からの返信だった。

 指先が、ほんのわずかに強く画面に触れる。

 

 メッセージを開くと、短い一文だけが表示される。

 『◎◎◎号室にいます』

 余計な言葉は、何一つとしてなかった。

 

 それなのに、さっきまで組み立てていた思考も、ルートも、乗り換えも、時間の計算も、順番も全部、意味を失う。

 

 意味がなくなったわけではない。

 ただ、それらを支えていた目的が、急に近くなっただけだった。 


 画面を見たまま、思考が止まる。

 どこへ行くのかも、何をするのかも分かっている。

 けれど、そこに至るまでの手順だけが、急に遠くへ退いていく。

  

 ――ただ。

 その延長線上に彼女がいる。

 それだけで、十分だった。


 景色を眺めていると会社から何度か着信が入る。

 業務上必要な報告は済ませている。

 早退の許可も取っている。

 今、この場で応答しなければならない理由はない。

 画面を見ることすらせずそのまま電源を落とした。

 

 しばらくの間、電車は一定の速度を保ったまま走り続けていた。

 吊り革がわずかに軋む音だけが規則的に耳に残る中、

 次の停車駅を告げるアナウンスが車内に流れる。

 

 ――ここで乗り換える。

 

 扉が完全に開くのを待つより先に身体が動く。

 ホームに降り立つと同時に、視線が乗り換え口を捉える。


 案内板。

 階段。

 人の流れ。

 反対側のホーム。

 必要な情報だけを拾い、最短の線を選び取る。

  

 人の隙間を縫うように進みながら階段を一段飛ばしで駆け上がる。

 呼吸がわずかに乱れ始めるが、調整する余裕はない。

 足を緩めることはなく、そのまま反対側のホームへ滑り込む。


 ちょうど電車が入線してくるタイミングと噛み合い、その流れに乗るように車内へと入り込んだ。 

 扉が閉まると同時に、最後尾の車両まで移動をする。 

 ――三つ目で降りる。 

 改札から病院までの距離、信号の位置、人通り。

 頭の中で条件を並べれば、三分あれば辿り着けるという答えが出る。 

 だが、その計算を終えたところで、ふと、そんなものに意味はないと気づく。

 

 ――どうでもいい。

 そう結論づけたわけではない。

 ただ、それ以上考える必要がなくなっていた。

 

 電車が減速し、ブレーキの軋む音とともに視界の流れが緩やかになっていく。


 目的地の駅に到着した。

 電車の扉が開くと同時に、踏み出した足は、そのまま迷いなく地面を蹴った。

 

 改札を抜け、そのまま外へ出ると、息を整える間もなく走り出す。 


 視界の端で人の流れが後方へと押し流されていき、肺が一気に空気を求めて軋むように動き始める。

 

 シャツはすぐに背中へ張り付き、ジレの内側にこもった熱が逃げ場を失って身体にまとわりつくように広がっていく。

 額から流れ落ちた汗が視界をかすめ、反射的に袖で拭いながらも、視線はただ前だけを追い続けていた。

 

 信号に差し掛かる。一瞬だけ判断が走るが、わずかな隙を見て横断し、そのまま速度を落とさずに走り抜ける。

 一歩。

 もう一歩。

 坂の距離を削るように、前へ進む。


 呼吸はすでに整っていない。喉が乾き、胸が熱く、足の裏に地面の硬さが残るが、それでも、速度を落とさなかった。

 

 急勾配の坂道の距離を削るように走り続け、ようやく病院に到着した。


 自動ドアの前に辿り着くと、開いた瞬間に流れ込んできた冷たい空気が身体を包み込んだ。

 

 そのまま受付へ向かい、息を整えきれないまま名前を告げる。 

「……面会、お願いします」

  

 最低限のやり取りだけで手続きは終わった。

 案内を待つことなく方向だけを確認して歩き出す。

 エレベーターには目もくれず迷わず階段を選ぶ。

 

 待つ時間が惜しかった。一段飛ばしで駆け上がるたびに足音がコンクリートに響く。


 呼吸はさらに荒くなるが、それでもそのまま速度を落とさずにフロアへ出る。

 

 廊下を進みながら、並ぶ病室の番号を一つずつ視線で追っていく。


 近づいているはずなのに、距離の感覚だけがうまく噛み合わない。 


 それでも足は止まらない。

 やがて、目的の番号の前でようやく立ち止まる。

 

 ——見つけた。

 ドアの向こうに彼女がいる。

 呼吸がそこで一度だけ途切れる。


 胸の奥で何かが沈む。

 手を伸ばしてドアノブに触れる。 

 開けるだけでいい。

 それなのにその一動作だけが、わずかに遠い。


 そのまま、目を閉じる。

 浅く息を吸って、ゆっくりと吐く。

 それから、指先にだけ力を込めた。 

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、結衣から病室番号を受け取った蒼汰が、病室の前まで辿り着く場面でした。


『◎◎◎号室にいます』

結衣が蒼汰に送ったのは、必要最低限の情報だけです。


「来てほしい」とも、 「会いたい」とも書かれていません。

けれど、終わらせたはずの相手に自分の居場所を伝えることは、それだけでひとつの意思表示でもあります。


そして蒼汰も、返信を受け取ったことで、それまで組み立てていた経路や時間の計算を別の意味で捉え始めます。


最短ルートを選ぶことは、もはや単なる効率ではありません。

その先に、結衣がいる。

それだけで、走り続ける理由として十分でした。


駅を駆け抜け、坂を上り、階段を一段飛ばしで進んだ蒼汰。

けれど、病室の前に立った瞬間、最後の一歩だけが急に遠くなります。


次回、別れた二人が再び顔を合わせます。

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