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第二十七話、正しさだけでは拾えないものがある

第二十七話です。


結衣の入院を知り、病院へ向かうことを決めた蒼汰。


しかし、職場を出ようとした彼の前に立ちはだかったのは、麻倉部長とその取り巻きたちでした。


「普通は出るだろ」 「みんな忙しいのに」 「これは業務命令だ」


常識、空気、組織の形。

誰かの都合を“正しさ”に変えて押しつける言葉に、蒼汰は静かに向き合います。


今回は、蒼汰が「当たり前」という名の圧力を振り切り、結衣のもとへ向かうために動き出す回です。


 着替えを済ませて駐車場まで早足で歩いていると、行く手を遮るかのように門の前に人影が並んでいた。


「おい今井、どこへ行くつもりだ」

 そこには、麻倉部長が腕を組んだまま立っていた。

 その両脇には、いつも麻倉にくっついている取り巻きの大野と山岡。

 

 その三人が、わずかに間合いを詰めるようにして並んでいた。


 正面だけでなく、横からも逃げ道を塞がれているような立ち方で、意図的に退路を断っているのが分かる。


 すかさずポケットの中にある、携帯電話に指を滑らせる。録音開始の小さな振動だけが、掌に返ってきた。


「社長講話会、これからだろうが」

 返事を待つ様子もなく、言葉が重ねられる。

「勝手に抜けるつもりか?」

 さらに一歩、距離を詰められる。視線が外れない。圧だけで押し切るつもりなのが、嫌でも伝わってきた。

 

 ——どうでもいい。

 そう思った瞬間、もう立ち止まる理由がなくなっていた。

「早退の許可は、現場側で取っています」


「はぁ?!人が集まらないと格好がつかないんだよ!」

「お前一人の都合で、全体を崩すな!」


 ——黙れ。

 喉元まで出かかった言葉を、意識的に押し込む。

 ——それは、あんたの都合だ。

 そう分かっていても、それをそのまま口にしたところで、話が前に進むわけではない。


「……それは、部長の都合ですよね」

 できるだけ抑えた声で返すと、空気がわずかに軋んだ。


「おいおい、そういう言い方はないだろ。せっかく社長が来てくださってるんだぞ?普通、出るだろ」

 横から取り巻きの大野が割って入り、

「こういうのはな“形”が大事なんだよ」

 間を埋めるように言葉を重ねてくる。


 ——頼んでない。それを善意として押しつけるな。

 頭の中でだけそう返しながら、

「来てほしいと、こちらから頼んだ覚えはありません」

 と、言葉を選んで返す。


 その瞬間、もう一人の取り巻き山岡が、ため息混じりに口を挟んでくる。

「……みんな忙しいのに、出てるんだよ?それが社会人でしょ。空気、読みなよ」


 ——“みんな”。

 その誰も責任を取らない言葉だけが妙に引っかかる。

 だから、どうしたというのだ。

 一瞬だけ思考が止まり、その曖昧さだけが浮き上がる。


 ――もういい。それ以上、息を吐くな。

「……“みんな”とは、具体的に誰を指していますか」

 わずかな間を置いて問い返すと、

「え?……いや、他の部署も——」

 と返そうとした言葉に、被せる。

「参加しているのは、常に特定部署のメンバーだけですよね」


 言い切った瞬間、空気が明確に変わった。

 誰もすぐには言葉を継がない。触れられたくなかった部分に、全員が気づいている。

「……いいから来いって」

 低く押し潰すように、麻倉が言う。

「いちいち細かいことを言うな!」


 視線が絡みつくように固定され、逃げ場を許さない。

「これは業務命令だ」


 ——命令。

「業務命令、ですか」

 その言葉を受け取った瞬間、一瞬だけ思考が冷えたが、同時に余計なものが削ぎ落とされるようにして、結論だけが残る。


 ——業務としての合理性は全くない。

「では、その必要性を説明していただけますか」

 結論は、それだけだった。


 一歩だけ踏み出し、距離を詰め返す。

「参加しないことで、どの業務にどれだけ支障が出るのか説明してください」


 言葉を置いた瞬間、場が静まり返る。誰かが小さく息を呑む音だけが、やけに大きく聞こえた。


 ——“恋人同士なら普通は、こうするよね”。

 不意に過去の声がよぎる。誰かの基準を並べて、それを正しさとして押しつける声。


 合わせることはできた。時間も労力も調整すれば成立する。正直、納得はしていなかった。

 それでも、関係が円滑に進むなら合理的だと、あのときは判断した。

 

 けれど、一度合わせれば、次からそれは当然になる。

 断れば、こちらが悪いことになる。従えば、自分の意思だけが少しずつ削られていく。


 それは愛情ではなく、愛情を証明させるための手続きでしかなかった。


 相手を自分の望む形に従えさせるかどうかを、好きという言葉で試されていただけにすぎなかった。


 その時点で、もう関係は対等ではなかった。

 ――だから、必要ないものとして切り捨てた。

 

「文句を言うな!評価に響くぞ!」

 麻倉が顔を赤くし、恫喝に近い声を上げた。 


 ——“仲間なら、それくらいやるだろう?”

 あのときと同じ構造だった。

 恋人、仲間、社会人、組織のため。

 言葉は違うけれど、やっていることは同じだ。そこに、こちらの意思は全く含まれていない。

 

 誰かの都合を、誰も逆らえない正しさの形に変換する。それは、善意でも常識でもないただの支配だ。 

 

 誰かの基準で組み立てた関係は、最初からどこにも繋がっていない。


 だから、他人の“普通”を、そのまま受け入れることはやめた。

  

「お前のために、言ってやってるんだ」

 と、麻倉がわずかに声の調子を落として付け加える。


 ——結局、"それ“か。

「承知のうえです」

 あくまで選択の結果として、間を置かずに淡々と答える。そこに感情などは、一切挟まない。

 

 その一言で、やり取りは終わっていた。

 言葉を重ねる意味はもうなく、場には短い沈黙だけが落ちるが、誰もそれを崩そうとはしない。


「……失礼します」

 相手を睨みつけたまま、足早に踵を返す。背後で何か言葉が飛んだ気配はあったが、振り返る必要はない。

 

 ——合理的ではない選択には従う理由などない。

 ただそれだけの話だ。 


 “当たり前”という枠の中でしか生きていけない人間もいる。


 それはそれでいい。ただ、その枠の中での正しさが必ずしも全ての人間に当てはまるとは限らない。


 ――正しさだけでは拾えないものもある。

 そう結論づけたまま、足を止めることなくその場を離れた。


『本日、麻倉部長より威圧的かつ不適切な叱責を受けました』

 先程の上司とのやり取りを録音した音声データと、簡潔にまとめた経緯を添えて、本社の人事部とハラスメント相談窓口へ一斉送信する。

 

 画面に表示された「送信完了」の文字を、数秒だけ見つめる。 


 言い訳も、補足も入れていない。必要な事実だけを、必要な順番で並べただけだ。


 ――これで、いい。

 それ以上、考える必要はなかった。


 再び、携帯を操作して連絡先の一覧の中から彼女の名前を探す。


『朝比奈結衣』という名前を見つけた瞬間、それが少しだけ“他人の名前”のように見えた。

 ——既に終わっているはずだ。

 少しだけそう思う。だがその判断はすぐに消える。 

 

『突然の連絡、失礼します。今、病院に向かっています。もし負担でなければ、少しだけお時間をいただけますか』


 送信ボタンを押す。予想していたとおり、既読はすぐにはつかないけれど、返信を待ってから動くつもりはなかった。


 会えなければ帰ればいい。

 拒まれれば、それ以上は踏み込まなければいい。 

 ――その境界線だけは守る。

 

 迷っているわけではない。

 考えることを放棄したわけでもない。

 答えが出たから動いているのではなかった。 

 答えが出ないままでも、動かない理由だけは、もう残っていなかった。

 

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、蒼汰が職場を出ようとしたところで、麻倉部長たちに足止めされる場面でした。


「普通は出る」 「みんな出ている」 「お前のために言っている」 「業務命令だ」

一見すると、それらは組織や常識を守るための言葉に見えます。

けれど、そこに本人の意思や合理性が含まれていなければ、それはただの圧力でしかありません。


蒼汰は、感情的に怒鳴り返すのではなく、あくまで事実と合理性で切り返します。 そして、必要な証拠を残し、必要な窓口へ送る。


この場面は、単なる反抗ではなく、蒼汰が「他人の普通」に支配されないための線引きでもあります。


そしてその先で、彼は結衣へ連絡します。

関係は終わっている。

会えるかどうかも分からない。

拒まれれば、それ以上は踏み込まない。

それでも、動かない理由だけはもう残っていませんでした。


次回からはいよいよ最終章に突入します。

迷いを抱えつつも蒼汰は病院へ向かいます。

答えが出ないままでも、止まれなくなった彼の行動を見届けていただけると嬉しいです。

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