第二十六話、後からじゃ間に合わないこともある
第二十六話です。
結衣が入院していることを知った蒼汰。
職場に戻れば、そこにはいつも通りの忙しさがあり、やるべき仕事も残っていました。
関係はもう終わっている。
そもそも、男女としての交際をしていたわけではない。
聞く立場でも、会いに行く義務があるわけでもない。
それでも、映画館で触れた冷たい指先と、結衣が入院してるという事実、佐伯から聞いた病院名が、蒼汰の中で消えずに残り続けます。
今回は、蒼汰が「聞かないこと」と「何もしないこと」の違いに気づき、迷いを抱えながらも動き出す回です。
職場に戻ると、相変わらずの忙しさだった。
人手は足りておらず、各自が自分の持ち場で手一杯になっている。
やるべきことはある、今抜けるのは非効率だ。そう判断する材料はいくらでも揃っていた。
それでも、入院しているという言葉だけが同じ場所に戻ってくる。
専門医のいる病院。
少し前から体調を崩していた。
面会できるかは分からない。
それらの言葉を順番に並べても、うまく処理できなかった。
ふと、映画館の暗闇を思い出す。
座席の境界で一瞬だけ触れた、彼女の指先。
驚くほど冷たく、汗を帯びていた。
あのとき、理由は聞かなかった。
聞かないことが、その場ではいちばん彼女を壊さない選択だと判断した。それは、間違っていない。
しかし――
聞かないことと、何もしないことは同じではない。
そこだけが、うまく切り分けられなかった。
病院名をもう一度、頭の中で反芻する。
終業後に向かえば、面会時間に間に合わない可能性がある。
しかし、この時間に出ればまだ間に合う。
会えるかどうかは分からない。彼女がそれを望むかどうかも分からない。
会えなければ帰ればいい。
拒まれれば、それ以上踏み込まなければいい。
そこまでは整理できる。
それでも、なぜ行こうとしているのかだけが分からなかった。
関係は終わっているし、連絡を取る義務もない。
見舞いに行くような間柄でもない。
理屈としては成立している。
――だが、
成立していることと、完了していることは別だ。
その結論だけが、静かに残る。
なぜそこまで気になるのかだけが、どうしても説明できなかった。
やがて、区切りのついたタイミングで、顔を上げて近くにいた先輩に声をかけた。
「……すみません、早退したいのですが」
言ってから、少し遅れて気づく。
理由を考えていない。
説明しようと思えばできる。
知人が入院した。
面会時間に間に合わないかもしれない。
少し様子を見に行きたい。
どれも間違いではないけれど、どれを口にしても後から貼りつけた理由にしかならない気がした。
先輩は、すぐには返事をしなかった。
こちらの顔を見る。それから、ほんの一瞬だけ視線を外した。
「……そういう日もあるよな」
小さく息を吐いてから、続ける。
「いいよ。行ってこい」
「理由を考えるより先に動いたほうがいいこともある」
「……後からじゃ、間に合わないこともあるからな」
それ以上は何も言わなかった。
「いつも助けてもらってるからな。そのかわり今度、メシ奢れよ」
と軽く言った。
「感謝します」
それだけで、動くには十分だった。
更衣室へ向かい作業着の上着を脱いで、鏡に映った自分を一瞬だけ見る。
——本当に行くのか。
問いに対する答えはもう出ているはずなのに、どこかでまだそれを言葉にしきれていなかった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、結衣の入院を知った蒼汰が、職場に戻ってから早退を決めるまでの場面でした。
やるべき仕事はある。
今抜けるのは非効率。 関係は終わっている。
見舞いに行くような間柄でもない。
理屈としては、行かない理由はいくらでも成立します。
けれど、蒼汰の中では「聞かないこと」と「何もしないこと」が、同じではなくなっていました。
踏み込まないことは、相手を尊重するための選択です。 でも、相手が危うい場所にいると知ったとき、何もせずにいることが本当に誠実なのか?
その問いが、蒼汰を動かします。
そして今回は、そんな蒼汰を後押ししてくれる先輩の存在も大事に書きました。
理由を細かく聞かず、「そういう日もあるよな」と送り出してくれる人。
蒼汰がこれまで誰かにしてきた距離感を、今度は彼自身が受け取る場面でもあります。
次回、蒼汰は病院へ向かうために動き出します。
けれど、その前にもうひとつ、彼の前に立ちはだかるものがあります。
引き続き読んでいただけると嬉しいです。




