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第二十三話、消せない名前

第二十三話です。


通話が終わったあと、結衣と蒼汰はそれぞれの場所で、画面の中に残った名前と向き合います。


終わらせると決めたはずなのに、消せない名前。切り捨てる理由を探しても、分類できない相手。


今回は、別れの言葉を交わしたあとの二人の静かな空白と蒼汰が持っている冷徹な現実主義者の側面を書きました。

 ―――

 通話が切れたあともしばらく、携帯を耳に当てたまま動けなかった。切れたあとの無音だけが、遅れて現実を連れてくる。

 耳元には、もう何も残っていない。それなのに、まだ彼の声がそこにあるような気がして、携帯を下ろすことができなかった。


 画面は暗いままなのに、まだ何かが続いているように見えた。

 何かを待っていたのかもしれない。 引き止める言葉と理由を聞く声。もう一度だけ、名前を呼ばれることを……。

 ――けれど、

 何を待っていたのかを認めてしまうと、今したことが全部崩れてしまいそうだった。


 ――これでいい。

 そう思うことにした。このまま続ければ、きっと彼は理由を聞かない。無理をしていないかと気づいても、私が言わなければ踏み込んでこない。

 体調のことも、これから先のことも、きっと私が差し出すまで待ってくれる。そういう人だと、もう分かってしまっていた。


 だからこそ、これ以上近づくのが怖かった。

 彼の優しさに甘えて、少しずつ頼って、気づいたときには、私の不安や痛みまで彼の生活の中に置いてしまう。


 そうなる前に、終わらせるべきだった。

 それが、いちばん正しい。

 いちばん迷惑をかけない。

 いちばん、彼のためになる。

 そうやって並べた理由は、どれも間違っていないはずだった。

 それなのに、胸の奥だけが少しも納得していなかった。

 返さなければ、このまま少しずつ遠くなる。

 それでいい。その方が、きっといい。


 画面の中に残った名前を見る。

『今井蒼汰』

 ただの文字列のはずなのに、消せなかった。

 もう終わらせたはずなのにそれでも、最後の動作だけがどうしてもできなかった。名前の表示だけが、なかなか消せなかった。

 ―――

 

 彼女の連絡先は、まだ残したままだった。あの日に撮った写真も消してはいない。

 消そうと思えばすぐに消せる。これまでと同じように、必要のないものとして処理すればいいだけの話だ。


 ――実際、今まで何度もそうしてきた。

 表向きは「皆のため」「会社のため」と言いながら、実際には自分の都合を優先している人間。

 善意や常識の形を借りて、相手の時間や労力を、自分の所有物のように扱おうとする人間。

 

「仲間なんだから、助け合うのが当たり前だろ」

「恋人なら、普通はこうしてくれるよね」

「社会人としてのマナーだろう」

 そういう言葉を使う相手には、必ず同じ匂いがあった。こちらの選択を尊重しているようでいて、実際には逃げ道を塞いでくる。

 断ればこちらが悪いことにされる。受け入れれば次からそれが当然になる。

 そういう兆しが少しでも見えた相手は、例外なく切り捨ててきた。


 彼女が言っていた最後の言葉を思い出す。

『勝手なことを言って、本当にごめんなさい』

 彼女は、それだけを静かに告げた。

「あなたのため」という、偽善の形をした免罪符はなかった。

「分かってほしい」という、共感を求める圧もなかった。

「私の気持ちを察して」という、言葉の裏側にあるはずの甘えもなかった。

 つまり、こちらの情に縋るような言葉はひとつもなかった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、通話が終わったあとの結衣と蒼汰の場面でした。


結衣は、自分から終わらせたはずなのに、画面に残った『今井蒼汰』という名前を消せません。蒼汰もまた、これまでなら迷わず切り捨ててきたはずの相手を、同じようには処理できません。


「あなたのため」「分かってほしい」「察してほしい」


そうした言葉を使わず、ただ自分で選んだ終わりを置いていった結衣。だからこそ、蒼汰の中では彼女を切り捨てるための理由が成立しません。


別れたはずなのに、終わりきらない。消そうと思えば消せるのに、消せない。


この回は、二人の関係がいったん途切れたあとも、心の中ではまだ完全に終わっていないことを描く回です。


次回からは、日常に戻ろうとする二人と、その中で少しずつ浮かび上がってくる違和感へ進みます。引き続き読んでいただけると嬉しいです。

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