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第十六話、時間が止まってくれたら

第十五話です。

映画を観終えた二人は、夕食のために静かなイタリアンへ向かいます。


温かい料理と穏やかな会話の中で、結衣はあの夕暮れのバスの中で感じていたことを、少しだけ言葉にします。

 風が少しだけ吹き、彼女が静かに呼吸を整える。その歩幅はもう乱れてはいなかった。

「次、どこかで食事にしましょうか」

 自然な形で話題を切り替えると、彼女は沈む夕日を少しだけ眩しそうに見つめてから答えた。

「……何か、温かいものがいいです」

「大通りを一本外れたところに、落ち着いたイタリアンがあります」

「いいですね。行きましょう」

 彼女が小さく頷き、そのまま店へ向かって並んで歩き出した。

 

 店は大通りから少し外れた場所にあった。派手な看板はなく、木の扉に小さなランプが灯っているだけだ。

 中に入ると、空気がゆるやかに変わる。

 適度に低い天井。長年手入れされてきたことがわかる、飴色の木のテーブル。背もたれが身体に馴染みそうな、使い込まれた椅子。

 そこには、家庭の食卓が持つ延長線上のような、安らぐ匂いが満ちていた。


 案内された席に腰を下ろす。白ではない、少し色の抜けたクロス。カトラリーの並びも、定規で測ったような正確さではなく、どこか人の手の温もりを感じさせる「ゆとり」があった。


 開いたメニューは潔いほど簡素で、料理名と短い説明だけが万年筆のような書体で並んでいる。

「軽めのもので大丈夫ですか?」

「はい」

 旬の野菜を使った前菜の盛り合わせと、身体を芯から温める具だくさんのミネストローネ。

 メインは、シンプルゆえに誤魔化しのきかないペペロンチーノと、濃厚なカルボナーラを選んだ。

 確認の声に頷くと、店員は音もなく厨房へと去っていった。

 

 やがて前菜が運ばれてくる。華やかさには欠けるけれど、奇をてらわない実直な一皿だった。

 原木から切り出したような生ハムに、たっぷりの葉野菜。それから、さっぱりと仕上げられた魚のマリネ。

 

「いただきます」

 彼女が、少し嬉しそうに呟く。

 フォークで生ハムを小さく切り、葉野菜と一緒にゆっくりと口に運ぶ。

「……ん、おいしい」

 本当に美味しそうに、彼女が目を細めた。

「すごく食べやすいです。変に酸っぱくなくて、体が喜んでる感じがします」

「そうですね。こういうのが、一番落ち着きますね」


 会話は、そこから途切れることなく続いていった。今日撮った写真の話や、仕事で最近あった小さな失敗談。

 これまでは「意味のない話」だと思って切り捨てていたような話題が、今は温かいスープを待つ間の、心地よいスパイスのように感じられた。 

 

 具だくさんのミネストローネが運ばれてくる。彼女はスプーンを手に取り、立ち上る湯気をそっと吹き消してから、一口分を慎重に口に運んだ。

「……温かい」

 こわばっていた何かが解けるように、彼女がふわりと笑った。


 スプーンを戻そうとした彼女の手が、空中でわずかに止まる。 

「映画って……どう終わるのが、正解だと思います?」 

 ふいに、彼女が問いかけてきた。

 あまりに抽象的で、答えのない問い。あまり考えたことがない問いを投げかけられ少し考える。

「終わり方は、あまり重要じゃないと思っています」

 

 彼女は、少しだけ視線を落とした。

「ちゃんと終わる方が、安心しませんか?報われたり、救われたりして」

「安心はしますね。でも、その安心が作品にとって『合っている』かは別だと思います。割り切れないまま終わることこそが最適な場合もあると自分は考えてます」 

 そう答えると彼女は何も言わず、

「確かに……分かってても、選べないことってありますよね」

 スプーンを持ったまま小さく、独り言のように呟いた。


 やがてメインが運ばれてくる。ニンニクと唐辛子の鋭い香りが鼻をくすぐるペペロンチーノと、チーズと卵の温かな香りがするカルボナーラが、湯気とともにテーブルの中央へ並べられた。

 

 フォークで麺と具材を丁寧に混ぜ合わせ、ゆっくりと巻き取る。彼女も同じように、手元の皿に意識を集中させるようにして、一口ずつ大切に口へ運んでいく。 

 時間が穏やかに流れている店内には、ささやかな話し声と食器の触れる音だけが背景のように溶け込んでいた。

 

 半分ほど食べ進めたところで、彼女の手が止まった。

「……あの、飲み会の時に。途中まで言いかけて、やめたことがあったんですけど」

 彼女はフォークを皿の縁に置き、視線を落としたまま切り出した。

 こちらは何も言わず、ただ静かに彼女の言葉を待った。

「……あのとき、バスの中で」

 言葉を選ぶように、少し間を置いてから彼女は言った。

「――このまま、時間が止まってくれたらいいって、思ってました」

 それは、あまりに静かだったけれど祈りに似た響きがあった。

「続けるって、難しいですよね」

 言い終えると、彼女は追いかけてくる沈黙を振り切るように、すぐに視線を逸らした。

「いえ、なんでもないです」

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、映画後の夕食の場面でした。

映画の感想、温かい料理、何気ない会話。

その中で、結衣が初めて「あのバスの中で思っていたこと」を言葉にします。


「このまま、時間が止まってくれたらいい」


それは大きな告白ではありません。

けれど、結衣にとってはかなり深い場所から零れた言葉です。


蒼汰はその言葉を無理に解釈せず、否定もせず、ただそのまま受け止めます。

二人の関係は、少しずつ恋に近づいていますが、同時に「続けることの難しさ」も静かに滲み始めています。


次回は、夕食後の時間へ進みます。

引き続き読んでいただけると嬉しいです。

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