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第十五話、暗闇の座標

第十五話です。


今回は映画館での場面です。

スクリーンの物語をきっかけに、結衣の心と身体に小さな異変が現れます。

蒼汰の「踏み込まない誠実さ」が出る回です。

 やがて館内が暗転し、音が空間を満たす。本編が始まり、視線は自然とスクリーンに固定された。 

 ただ、隣から伝わってくるわずかな呼吸の揺らぎだけが、この閉ざされた暗闇の中での唯一の座標だった。

 

 物語は、静かに進んでいく。登場人物のひとりが潜入任務のため、身分を偽装して敵陣で生活をするその中で、ひとりの兵士と友情が生まれる。 

 任務上の接触。必要最低限の会話。打算的に積み上げられた時間はやがて、それ以上のものになる。

 

 映画は進み、物語は終盤に差しかかる。潜入をしていた人物の正体が敵であることを知りつつも庇い、その兵士は死んだ。 

 時間が、わずかに引き延ばされる。倒れゆく身体と、血を吐くような無音の絶叫。画面の中で、何かが終わる。

 

 ——そのとき。

 隣から、微かな震えが伝わってきた。視線は前のまま、意識だけを隣に向ける。 

 音はないけれども、分かる。彼女が泣いている。

 肩の上下はごく小さく、呼吸も抑えられている。それでも、完全には隠せていない。


 なぜ、この場面なのか。反射的に思考が動きだす。

 悲劇への共感か、自己の境遇への投影か。それとも、かつて喪失した何かへの追憶か。

 いくつかの心理的仮説が浮かび上がるが、確定には至らない。


 ――

 途中までは、普通に見ていた。

 けれど終盤、潜入していた人物を庇って兵士が倒れた瞬間、胸の奥で何かが強く引っかかった。

 

 その「正しすぎる悲しみ」が、まるで自分の細胞の一つひとつに刻み込まれているかのように、胸の奥を激しく締め付けた。 

 喉が詰まり、肩がかすかに震える。必死に呼吸を整え、涙を暗闇に溶かそうとした。

 

 けれど、隣に座る彼は、何も言わなかった。

 ただ、嵐が過ぎるのを待つように静かにそこにいてくれた。

 その、祈るような沈黙が、かえって私のこらえていたものを決壊させた。

 ――

 

 スクリーンの中では物語が続いている。そのとき不意に、座席の境界で彼女の指先がこちらの手に触れた。

 偶然か、あるいは無意識に何かを求めた結果か。判断を下すには、あまりに短く淡い接触だった。

 

 ――ただ、驚くほどに冷たかった。

 そして、わずかに汗を帯びて湿っている。同時に聞こえてくる呼吸も、感動による乱れと比較すると明らかに異質だった。

 

 ——反応が強い。

 触れた手は、弾かれたようにすぐに離れていった。

 追いかけることも、声をかけることもせず、今のは何もなかったことにする。 

 

 気がつけば、物語は終わりに向かって収束していく。しかし、隣の呼吸は完全には戻っていない。 

 理由は、いくつも推定できる。

 だが、白衣を持たない自分に許されているのは、あくまで「心」の対話までだ。

 医学的な領域、あるいは彼女が固く閉ざしている精神の深部へ、安易に踏み込む権利も資格もない。

  

 やがてエンドロールが流れ始め、館内に、わずかなざわめきが戻る。視線はまだ前に向けたまま、隣を見ることはしなかった。

 見れば、彼女の瞳の揺れも、言葉にならない痛みの正体も、すべて頭の中に流れ込んできてしまう。

 そして、おそらく彼女はそれに気づいてしまうだろう。だから今は、ただ彼女が自分自身を立て直すための時間を、一秒でも長く確保すべきだった。 


 館内の明かりが戻り、人の流れに合わせて外へ出る。

 エスカレーターで階を降りると、さっきまでの暗さから一転して、光が少しだけ強く感じられた。

 

 しばらく、言葉はなかった。

「……どうでした?」

 短くそう聞くと、彼女はすぐには答えず、前を向いたまま少しだけ間を置いた。

「……よかったです」

「最後の、あの兵隊さんのところが……印象に残りました」

「そうですか……」

 それ以上は、何も聞かなかった。

 あのとき彼女の指先がなぜあんなに冷たかったのか。なぜあの場面で決壊したのか。

 問いかける代わりに、彼女の歩調が再び安定するのを待って歩きはじめた。


 外へ出ると、空気が少しだけ軽く感じた。

 夕方の気配が、街の中に漂っている。

「……ああいうの、苦手ですか」

 問いの形は保ったまま、対象はあくまで映画に置いた。

 彼女はわずかに首を横に振り、少し考えるようにしてから、

「苦手、というより……分かりすぎる、というか」

 独り言のようにぽつりと続けた。

「……そういうこと、ありますよね」


 しばらく並んで歩く。時間帯の影響により人通りは多いが、館内ほどの密度ではない。

「昔、似たようなことがあって……」 

「……あまり、うまくいかなかったんですけど」

「そうでしたか」

 理由を問わないこと。意味を定義しないこと。それが、今の自分にできる最大限の誠実さであり、彼女が求めている「適正な距離」なのだと確信していた。 

 

 ――

 そこで止めてもらえて、少しだけ安心した。

 あのまま彼が話を続けていたら、きっとどこかで言い過ぎていた。


 すべてを言葉にしてしまえば、この胸のつかえも、もう少しは軽くなるのかもしれない。

 それでも――

 安易に軽くしたくないものがある。だから今はまだ、このまま持っていたい。


 彼は、私のその「持っていたい」という領域を、土足で踏み荒らすようなことはしない。

 ただ、重荷を抱えたまま歩く私の隣で、その歩幅が乱れないように、何でもない顔をして並んでくれている。

 

 差し出された手を取る勇気はまだないけれど、彼がその手を「差し出さない」ことで守ってくれている私の自由が、今は何よりも心地よかった。

 ――

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、静かな映画館の暗闇の中で、結衣の心と身体に異変が起きる回でした。


大丈夫かと聞くこと。

理由を求めること。

手を差し出すこと。


それらは一見すると優しさに見えます。

けれど、相手がまだ言葉にできないものを抱えているとき、その優しさがかえって相手の逃げ場を奪ってしまうこともあります。


蒼汰は、結衣の異変に気づきながらも、あえて踏み込みません。

差し出された手を取らせるのではなく、彼女が自分で立て直す時間を守る。


この回は、二人の関係が甘さだけではなく、少しずつ「相手の領域をどう扱うか」という場所へ進んでいく回でもあります。


次回は映画後の時間へ。

結衣の言葉にならない痛みが、少しだけ輪郭を持ち始めます。

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