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第十四話、優しい味がします

第十四話です。


前回、目的地に到着した直後に小さな異変を見せた結衣。

今回は、喧騒を抜けた先の台湾喫茶で、二人が少しずつ落ち着きを取り戻していく回です。


何かを問い詰めるのではなく、ただ隣で待つこと。

その距離感が、少しずつ二人の時間を整えていきます。

 ――見た限りでは問題はない。 

 ならば、予定どおりでいい。通り抜けたあとは映画館前の台湾喫茶で、休憩も兼ねて時間を調整する。


 人の流れを抜けた瞬間、空気が少しだけ軽くなる。

 目的の台湾喫茶は、ガラス一枚隔てた外の狂騒が嘘のように、深い静寂に包まれている。

 店内を彩る琥珀色の柔らかな照明と、薬膳や茶葉が混ざり合った、どこか懐かしく甘い香りが全身を包み込んだ。

 

 奥の静かな席へ案内され、向かい合って座る。

 卓上に置かれた、厚みのあるメニューを開く音だけが、二人の間に静かに落ちた。 

「何か、食べますか」

 短くそう言うと、彼女は少しだけ考えるように視線を落とした。

「……そうですね。軽めのものを、少しだけ」

 その声は、駐車場にいたときよりもずっと自然で、柔らかな響きを取り戻していた。

 

 注文を伝えると店員が去り、再び静けさが訪れる。さっきまでの人混みの残像と、耳の奥に残っていた電子音の余韻が、おしぼりの温もりとともに少しずつ肌から抜けていく。 

 彼女は、グラスに手を伸ばして水を一口飲み、ふう、と小さく吐息をつく。白く細い指先の震えは、もう止まっていた。

 さっきまで身体の奥に残っていた硬さが、少しずつほどけていくように見えた。

 

 しばらくしてから、料理が運ばれてきた。

 せいろの蓋が開けられると、真っ白な湯気とともに、透き通った生地から淡いピンク色の海老が透ける蒸し餃子が姿を現す。

 その隣には、シロップに浸った真っ白な豆花と、琥珀色のミルクが豊かな香りを放つタピオカティー。

 

「いただきます」

 彼女が、少しだけ照れくさそうに笑った。

 その表情には、さっきまでの青ざめた緊張はもう欠片も残っていない。

 箸で慎重に餃子をひとつ持ち上げ、ふうふうと熱を逃がしてから、大切そうに口に運ぶ。

 ゆっくりと咀嚼し、海老の弾力と旨味を確かめるように、もう一度深く頷いた。

 

「うん……おいしいです。すごく、優しい味がします」

 その一言に、無理をして取り繕ったような響きは微塵も感じられなかった。

 そうしているうちに、会話は穏やかに増えていった。

 これから観る映画のあらすじ、さっき車内で流れていたあの奇妙で美しい音楽のこと。

 どちらともなく話題を差し出し、それを丁寧に受け取り合う。 

  彼女は温かいタピオカティーのストローをそっと咥え、一口吸い上げると、満足そうに軽く目を細めた。

「……これ、甘くておいしい。なんだか、ホッとします」 

 

 ――問題なさそうだ。

 そう判断するには十分だった。それ以上、あえて理由を詮索するような野暮な真似は必要ない。

 

 店内には、静かな胡弓の音色が流れている。

 外の喧騒はもう、厚いガラスの向こう側の出来事だ。

 彼女は、先ほどよりもさらにゆったりとした所作で箸を運んでいた。

 その様子を、特に意識することなく視界の端に収める。 


 上映時間が近づき、店をあとにして劇場内へと足を踏み入れる。

 発券を済ませ、外界の光を遮断した暗い通路を進む。足元灯だけが、深い海の底を導く導線のように等間隔で続いていた。

 

 指定の番号を確認して、席を見つける。

 彼女が先に入り、奥へと腰を下ろす。

 衣服が座席と擦れる微かな音を確認してから、それに続いた。

 

 まだ場内の照明は落ちきっていない。巨大なスクリーンには、いくつかの予告編が淡々と流れている。

 あえて隣を見ることはしなかった。その必要を、微塵も感じなかったからだ。

 彼女は、余計なことを言わない。気まずさを恐れて場を繋ごうともしなければ、こちらの機嫌を伺うように何かを引き出そうともしない。


 ――こういう場面では、多くの人は「沈黙」を敵のように扱う。

 間を埋めるように不要な言葉を重ねたり、「楽しみだね」と無理にテンションを上げたり、あるいは「気を遣わなくていいよ」という言葉そのもので気を遣わせたりするものだ。


 けれど、彼女はそれをしない。

 間を埋めようともしなければ、不自然に黙り込もうともしない。ただ、ありのままの体温を持って、何も足さずに隣に座っている。

 その結果として、呼吸をするのと同じくらい自然で、ちょうどいい静けさがそのまま残っていた。

  

 ――こういう人は、あまりいない。 

 ただ隣にいるだけで、相手の「正しさ」や「完璧さ」への執着を、これほどまでに無効化させてしまう人。

 

 まもなく、場内の明かりがゆっくりと絞られ始めた。

 完全な暗転が訪れる直前、視界の端で彼女がふっと、ほんの少しだけこちらへ肩を寄せた気がした。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、台湾喫茶での休憩から、映画館に入るまでを書きました。


前回の異変のあと、蒼汰は理由を問い詰めることも、過剰に心配することもしません。

ただ、結衣が自分の呼吸を取り戻すまで、何も言わずに待つ。


その結果として、結衣は少しずついつもの調子を取り戻していきます。


蒸し餃子や豆花、タピオカティーのような温かく柔らかいものが、二人の間に残っていた緊張をほどいていく回でもありました。


次回はいよいよ映画本編へ入ります。

この静かな時間のあと、結衣の心に深く触れる場面が訪れます。


引き続き読んでいただけると嬉しいです。

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