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第十一話、『紅い祈り』

第十一話です。

今回は、車内での音楽と会話を通して、蒼汰と結衣の距離が少しずつ深くなっていく回です。


何気ない年齢の話、好きな音楽の話、そして名前も知らないまま記憶に残っていた一曲。

二人が言葉ではなく、音を通して互いの奥に触れていきます。

 車を発進させる前に、ダッシュボードからカーオーディオのディスクケースを取り出した。

 ずっしりと重みのあるケースの中には、およそ一人の人間が収集したとは思えないほど、脈絡のない音楽たちが並んでいた。

 

 バロック音楽の旋律、泥臭いブルース、激しいパンクに、哀愁漂う昭和歌謡。

 特定のジャンルに固執しないのは、その時々の「心の隙間」に合致する波長を、ただ無機質に求めてきた結果だった。 

「どれでも、好きなものを選んでください……」

 そう言って、開いたケースを彼女の方へ差し向ける。 

  

 彼女はわずかに身を乗り出し、食い入るように中を覗き込んだ。

 視線が、並んだタイトルの一枚一枚を、指でなぞるようにゆっくりと辿っていく。

「……ジャンルの幅が広いですね」

 少しだけ困ったように、けれど未知のパズルを解くような好奇心を瞳に浮かべて、彼女は小さく笑った。

 

「統一感がないだけです」 

 苦笑いしながら短く返すと、彼女はもう一度ケースに目を落とした。 

 指先が、ディスクの背をなぞる。

 止まりそうで止まらない。選んでいるというより、何かを探しているようにも見えた。

  

 やがてその指が、ひとつのタイトルの前で止まる。 

「……紅月の楽団が、お好きなのですか?」 

 少しだけ声のトーンが変わる。

 確認するような、慎重な響きを帯びていた。

「はい」

 余計な補足もなく短く答える。

 彼女が手にしているのは、『終幕の旋律』と記された一枚だった。

 理由はうまく説明できないが学生の頃から手放さずに持っている。


 最初に受け取るのはどこか冷たい印象だった。

 整いきらない不協和な旋律と、わずかに噛み合わないまま重なり合う音の層。

 それは、触れれば指先が切れてしまいそうなほど、鋭く危うい輪郭を持っていた。

 近づきすぎれば拒まれる。そんな、他者を安易に踏み込ませない頑なな距離感がある。 

 ――なのに。

 しばらくその音の奔流に身を浸していると、妙に手放し方の分からない、重い何かが胸の奥に残る。

 それは冷徹な拒絶ではなく、むしろ「自分と同じ孤独」を見つけてしまったときのような、突き放しきれない優しさに近い何かだった。


 理解したわけではない。

 分析など、到底追いつかない。

 ただ、この音を自分の世界から切り捨てることが、どうしてもできなかっただけだ。

 終わりを前提にした音なのに、どこかで続こうとしている。そういう種類の音だった。


 彼女は、もう一度そのディスクを今度は慈しむように見つめた。 

 それから、自分自身に言い聞かせるように、ほんのわずかに頷いて差し出してきた。

「……じゃあ、これで」

 表面に紅い菱の模様――

 それは、まるで古い紋章か、乾いた血の痕のように見える――

 が並んだディスクを一枚、そっと抜き取る。

 ケースを閉じるパチンという小さな音が、密閉された車内を沈黙へと戻した。


 エンジンをかける。低い駆動音が足元に伝わり、車がゆっくりと動き出す。

 マンションの前の道を抜け、大きな通りへ出るまでのあいだ、会話はほとんどなかった。

 けれど、その沈黙は気まずいものではなかった。

 言葉にしなくても、今ここに二人でいるという事実だけが、静かに車内に満ちていた。


 信号待ちで車が止まる。赤信号がフロントガラス越しに淡く滲んでいる。

「そういえば……」

 彼女が、ふと思い出したように言った。

「今井さんって、おいくつなんですか?」

 聞かれるとは思っていなかったので、一瞬だけ間が空いた。

「……二十六です」

 

「えっ!?」

 予想以上に大きな声が上がった。

 彼女は驚いたように目を丸くして、マジマジとこちらの横顔を覗き込んできた。

「……もっと上かと思ってました。三十前半くらいかなって」

「……そうですか。よく言われます」

 そう返すと、彼女は少しだけ笑う。

「落ち着いてるので。なんというか、最初からあまり年下っぽく見えなくて」

 年下っぽくない。その言葉を、ハンドルを握る指先で一度だけ反芻した。

 自分が二十六で、彼女が自分より少し年上だということ。その事実は、なぜか今更のように、妙なリアリティを持って迫ってきた。

 

「朝比奈さんは?」

「私は二十八です」

 一拍置いてから、彼女は少しだけ視線を逸らした。

「……あ、じゃあ私の方が年上ですね」

 言ってから、彼女はわずかに困ったように、けれどどこか照れくさそうに笑った。 

 冗談にするほどでもなく、かといって重く受け止めるほどのことでもない。そんな中間の表情だった。

「そうですね」

 年齢という誰にでも説明できる情報がひとつ加わっただけなのに、互いの輪郭が少しだけ現実に近づいた気がした。


 ――――

 年齢を口にしただけなのに、距離が少しだけ近づいた気がした。その感覚に、わずかに息が詰まる。

 嫌ではない。むしろ、その逆だ。

 彼が私より二つ年下で、けれど私よりもずっと大人びた静かな眼差しを持っているという事実に、胸の奥が少しだけ熱くなる。

 

 だからこそ、このまま進めばどうなるのかが、嫌な鮮やかさで先に浮かんでしまった。

 最初はうまくいく。ちゃんと楽しくて、ちゃんと笑える。

 でも――

 そのあと、少しずつ何かが変わっていく。

 気を遣わせていることに気づいて、どうすればいいのか分からなくなって距離が静かにずれていく。

 ――その流れだけは、もう知っている。

 

 窓の外に視線を戻すと、流れる景色が少しだけ歪んで見えた。

 けれど、スピーカーから流れる『紅月の楽団』の音は、そんな私の不安を突き放すように、ただ冷たく、美しく、車内を満たし続けている。

 

「……年上のつもりで、少しだけ頼りにしてもいいですか?」 

 半分は冗談で、半分は自分への防衛本能。

 そう言ってみると、彼は前方を見つめたまま、

 「……努力します」と短く、けれど真面目すぎるくらいのトーンで答えた。

 その返事が、あまりにも彼らしかった。

 

 私は、気づかれないように小さく息を吐き出すと、これ以上先のことなんて、今はまだ考えなくていいのだと自分に言い聞かせた。

 ――――

  

 信号が青に変わる。スピーカーから流れている音が、会話のあとに生まれた小さな余白を静かに埋めていく。

 彼女は窓の外を見ながら、けれど完全には外へ意識を向けきってはいないようにも見えた。

 

 その横顔を、バックミラー越しに一度だけ見る。

 あの夕暮れのバスの中とは違う。けれど、まったく別の時間というわけでもなかった。

 名前を知り年齢を知り、こうして隣に座っている。

 それでもなお、まだ言葉にしなくていいものが残っている。


 車は、神浜市へと向かう緩やかな道を走っていた。 

『紅月の楽団』の重厚な旋律が、車内の空気をゆっくりと馴染ませていく。

 最初は断片的だった会話も、気がつけば一つの流れになっていた。 

「私は、カメレオン・ポップスとか、ブルーストライクみたいな音楽が好きです」

 彼女はそう言って、少しだけ照れたように笑う。


 肩の力が抜けたまま軽快に転がるようなメロディと、真っ直ぐすぎて、ときどき痛いくらいの真っ当な言葉。

 どちらも、日々の生活を等身大で肯定してくれる、明るく分かりやすい種類の音だ。

「いいですね。彼らの曲は救われる瞬間が多いですよね」

 短く返すと、彼女は意外そうに目を細め、それから安心したように深く頷いた。


「あっ、でも……」

 言いかけて、少し間を置く。

「紅月の楽団も、いいと思ってますよ」

 その一言だけ、少しだけ温度が違った。

「ほら、音楽雑誌のインタビューとかで、よく特集されてましたよね」


 一瞬で、距離が縮まる。

「自分も、ああいう雑誌はよく読んでました」

 彼女の表情が、少し変わる。

「……やっぱり」 

 その一言に、確信が混じる。 

 音楽の話をしているはずなのに、共有しているのは、音そのものではない気がした。

 ページをめくる感触や、紙の匂い。インタビューの行間に滲んでいた空気。

 そういうものまで含めて、何かが一致している。

 

 車は、一定の速度で進み続ける。

 窓の外では柔らかな景色が流れていき、オーディオの音楽も、より深い次の曲へと移る。

 それでも、会話は途切れなかった。

  

 あの夕暮れの沈黙とは違う。

 今は、言葉が自然に続いていく。 

 ーーけれど、その奥には、やはり同じ静けさがある。 

 無理に埋める必要のない余白のようなものが。

 それが、心地よかった。


 

 車は、高速道路へと入った。

 一定の速度で後方へと流れ去る景色。規則的に刻まれる白線のリズム。

 低く響くエンジン音と、寄り添う音楽。

 そのすべてが、どこか均一で穏やかな「静止した時間」を作り出し、二人の会話もまた、自然と深く落ち着いた調子になっていく。

  

「紅月の楽団といえば……」 

 彼女が遠い記憶の糸を辿るように、視線を前方に向けたまま口を開いた。

「数年前、夜の歌番組で一度だけ聴いた曲があるんです。……それは、この中に入っていますか?」 

 断片的な記憶を辿るような言い方だった。 

「曲の題名、分かりますか?」 

 そう返すと、少しの沈黙が落ちる。

 

「題名は、思い出せません」

 彼女は少しだけ視線を落とした。

 膝の上で、言葉を探すように指先が小さく止まる。

「でも、暗い画面の中で、その光景だけが妙に焼き付いていて。……紅い雫が頬を伝って、それが最後の別れのしるしになるような。悲しいのに、どこまでも綺麗で、祈るような……そんな曲でした」


 その言い方で、曲の輪郭が浮かんだ。

「紅い祈りですね。このアルバムに入っています」

 オーディオのボタンを押し、トラックを送った。

 数秒の深い無音の後、聖歌のコーラスにも似た、透明で厳かな旋律が車内へと溢れ出した。

 重厚なベースラインの上に、天を仰ぐような美しいギターの調べが重なる。

 それはまさに、別れの痛みさえも慈しもうとする『祈り』そのものだった。


 車内の空気が、一瞬で色を変える。

 彼女は何も言わなかった。

 ただ、高速道路の白線を見つめたまま、わずかに震えるような呼吸を整えていた。 


 ――――

 テレビ越しに聞いた断片。名前も知らないまま残っていた数秒。それが今、目の前の時間と静かに繋がっていく。

 最初の音が流れた瞬間、胸の奥がわずかに引っかかる。

 ーー知っている。

 名前は知らなかったはずなのに、この旋律だけは確かに覚えている。


 あのときも、途中からだった。

 テレビの向こうで流れていた、名前も知らない誰かのための祈り。

 誰と一緒にいたのかも、そのとき何をしていたのかも、日常の風景はすべて霧の向こうに消えてしまったけれど。ただ、あのとき心に触れた「刺すような静けさ」だけが、今も同じ場所で震え続けている。


 切ない、というありふれた言葉で片付けるには、この音は少しだけ痛すぎる。

 優しい、という穏やかな言葉に置き換えるには、その輪郭はどこまでも鋭く、気高い。

 それでも――。

 この痛みを知ってしまった自分を、嫌いだとは思わなかった。


 むしろ、こういうものだけが、人生の最後の方までずっと残るのかもしれない。

 幸せだった記憶や、楽しかった笑い声が薄れていっても。

 理由は分からないまま、理由がないからこそ、ただそこに残ってしまう。

 ――――


 ――奇妙な曲だ。

 傷つけることと、優しくあること。

 本来は両立し得ないはずの対極にあるものが、この旋律の中では同じ場所に、当たり前のような顔をして置かれている。

 壊す側のままでありながら、なお、誰よりも優しくあろうと足掻いている。

 理屈としては破綻しているし、整合性など微塵も取れていない。

 

 かつての自分なら、その矛盾を「不健全な感傷」だと切り捨てていただだろう。

 正しくないものは、救いにはならないと信じていたから。

 けれど、今は分かる。正しいものだけが、人を優しくするわけではないのかもしれない。


 傷ついたまま、間違えたまま、それでも誰かに触れようとするものがある。

 そういう形の優しさも、おそらくは存在している。その結果として、独りよがりの優しさがさらに誰かを深く傷つけることだってある。

 

 ――非合理だ。

 あまりにも非合理的で、救いがない。

 だが、その歪んだ非合理性こそが、よほど「人間」という生き物の形に近い気がした。

 

 だからか。

 この曲が彼女の記憶に棘のように残っている理由を、言葉で説明されなくても、心の深いところで理解できている自分がいた。

 彼女がどんな夜にこの曲を聴き、どんな想いでその光景を眺めていたのかは知らない。

 車は変わらず走り続ける。言葉はしばらく戻らないけれど、それで十分だった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、音楽を通して二人の距離が少し深まる回でした。

年齢の話や好きな音楽の話は、表面上は何気ない会話です。

けれど、誰かの好きなものや記憶に残っているものを知ることは、その人の内側に少しだけ触れることでもあると思っています。


『紅い祈り』は、結衣にとって名前も知らないまま残っていた曲であり、蒼汰にとっても「正しさ」だけでは割り切れないものを感じ取るきっかけになっています。


次回は、蒼汰のズレた誠実さがキッカケで二人の距離が更に縮まる展開へと進みます。

静かな時間の中にも、少しずつ二人の抱えているものが見え始めていきます。


引き続き読んでいただけると嬉しいです。

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