第十話、約束の日
第10話です。
約束の日までの短いやり取りを経て、いよいよ二人で出かける日を迎えます。
一度きりで終わるはずだった時間が、少しずつ「続きのある時間」へ変わっていく回です。
その日のやり取りは、そこで終わらなかった。
『ありがとうございます(^^)
今井さんの部署も、忙しそうでしたね(^^;)』
たったそれだけのことだった。
それでも、それまでとは少し違っていた。
理由は分からない。
ただ、気づいたときには、そうなっていた。
『映画、予習した方がいいですか?』
必要か不要かで言えば不要だ。だが、それだけでは足りない気がした。
『しなくて大丈夫です(^^)』
そう返してから、少しだけ考える時間があった。
画面を見つめたまま指を止め、言葉を足すべきかを迷うが結局、補足の一文を打ち込む。
『分からなければ、後で説明しますので(^_^)b』
数秒ほどして、すぐに返信が返ってくる。
『それ、前にも言ってましたよね(^^)』
――覚えていたのか。
口元が、ほんの少しだけ緩む。
『癖みたいなものです(笑)』
『頼りにしてます(笑)』
それだけの短いやり取り。
けれど、画面越しであっても伝わってくるものがある。
あの夕暮れのバスの中で共有した沈黙とは違い、今は言葉がある分だけ距離は確実に近づいている。
それでもなお、その奥にはあのときと同じ静けさが、形を変えて残っているようにも感じられた。
しばらくして既読がつき、やがてまた新しい言葉が返ってくる。
その何気ない繰り返しの中で、あの一度きりで終わるはずだった時間が、いつの間にか少しずつ“続いていくもの”へと変わっていった。
――――
送信してから、画面を伏せる。
彼からの返事を待っているわけではない。
そう思うことにした。
それでも、通知音が鳴るたびに、指先が少しだけ止まる。
約束の日が近づいている。
楽しみなはずなのに、胸の奥が少しだけ忙しい。
あの日、バスの中で感じていた「ただそこにいるだけでいい」という穏やかな感覚。
それが、言葉を交わし約束を交わしたことで、もっと輪郭のはっきりした「願い」に変わろうとしている。
――あまり、期待しすぎないようにしよう。
彼が見せてくれる「ちょうどいい距離」に甘えすぎないように。
けれど、クローゼットを開けて、当日着ていく服をあれこれと鏡の前で合わせている自分を、否定することもできなかった。
彼に会ったら、何を話そう。
映画のあとの「徹底的な解説」は、どんな顔をして聞けばいいんだろう。
想像するだけで、口元が緩むのを抑えられない。
もう一度だけ、彼から届いた不器用な一文を眺める。
『分からなければ、後で説明しますので(^_^)b』
真面目すぎて少しだけズレている、彼の優しさ。
指先でそっと画面をなぞる。
約束の日は、もうすぐだ。
――――
そして迎えた約束の日。指定された時間より、少しだけ早く着いた。
彼女の住むマンションの前に、ゆっくりと車を停める。
エンジンを切ると、慣れ親しんだ自分の車内は、途端に外の世界から切り離された静寂に包まれた。
――いや、静寂とは言い切れない。
止まったはずのエンジンの余韻なのか、それとも自分の内側からくるものなのか。
シートを通じて、わずかな振動がいつまでも指先に残っている気がした。
フロントガラス越しに見える建物は、どこにでもあるような造りで特別なものは何もない。
それでも、今日は少しだけ違って見えた。
時計を確認する。まだ、約束の数分前だ。
だが、待つことに不満はなかった。
むしろ、こうして独りでいる短い時間さえ、どこか浮足立った落ち着かないものに変わっている。
携帯電話を取り出し、短く電話をかける。数回の呼び出し音のあと、柔らかな声が返ってくる。
「はい」
「着きました。マンションの前にいます」
「分かりました。今、降りますね」
短く通話が切れる。耳元に残った残響を振り払うように、一度だけ大きく息を吐き出した。
それから、ほんの少しの時間。
視線をエントランスの方へ向けると自動ドアが開いた。
人影が、一つ。外の光を反射して、吸い込まれるようにこちらへ向かってくる。
淡い色の外套に身を包み、早歩きで駆け寄ってくる彼女の姿が見えた。
普段の作業着とは違う柔らかな色合い。
その違いに、一瞬だけ目が留まる。
見慣れていたはずの輪郭が、今日に限ってはどこか別のものに見えた。
車の前まで来て足を止めると、彼女はフロントガラス越しにこちらを見つけて、少しだけ照れたように笑った。
「おまたせ」
開けられたドアから流れ込んできたその一言が、思っていたよりも自然に胸に落ちた。
助手席のドアが開き、彼女が乗り込む。わずかに遅れて、ふわりと柔らかな香りが飾り気がない車内に広がった。
あの夕暮れのバスの車内とよく似た空気だったけれど、あのときと今とで決定的に違うことが一つだけある。
この時間は、目的地に着けば終わる一過性の送り迎えではない、どこで終わりにするかを、自分たちの意志で決められる「続き」のある時間だということだ。
――――
助手席に座り、ドアを閉めた瞬間、あの送迎バスの夕暮れを思い出した。
あのときと決定的に違うのは、視線の先に広がる景色だ。
窓の外にはオレンジ色の終わりゆく光ではなく、どこまでも透明で、これから何かが始まる予感に満ちた光が溢れている。
「目的地」に着けば終わってしまう一過性の送り迎えではない。
降りる場所だけは決まっているけれど、そのあとの時間や、さよならの言い方は、まだ白紙のままだ。
それが、不慣れな道を進むときのような不安を連れてくる。
でも、それ以上に、隣にいる彼の横顔がもたらす安定感が、私の心に柔らかな波を立てていた。
少しだけ、怖い。
この心地よさを知ってしまうことが、どこか取り返しのつかない一歩のような気がして。
けれど、シートベルトを引く指先は、自分でも驚くほど穏やかだった。
隣に座る彼が、いつも通り「急かさない沈黙」を纏っていてくれたから。
――それで、いいんだ。
理由なんて、後から探せばいい。
今はただ、この少しだけ速い鼓動を誰にも知られないようにコートの下に隠して。
私は窓の外を見つめ、彼が静かに車を走らせるのを待った。
――――
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、第二章の本格的な始まりとして、約束の日までのやり取りと、初めて二人で出かける朝を書きました。
静かなメッセージの積み重ねが、やがて「会うこと」への期待に変わっていく。
蒼汰にとっても結衣にとっても、この日はただの映画の約束ではなく、あの夕暮れの続きを自分たちで選び直す一日になります。
次回からは車内での会話、音楽、年齢の話などを通して、二人の距離がさらに近づいていきます。
引き続き、蒼汰と結衣の“最適解ではない時間”を見届けていただけると嬉しいです。




