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第十二話、不器用な誠実さ

第十二話です。

前回の『紅い祈り』を経て、今回は映画館へ向かう車内でのやり取りになります。


今日一日の“最適解”を探そうとする蒼汰と、そんな彼に別の形の答えを返す結衣。

二人の距離が、また少しだけ変わる回です。


 静まり返った車内。音楽は鳴り続けているが、もはやそれを情緒的に享受する余裕はなかった。

 無意識にクラッチを切り、ギアを落とす。前方の車間と速度だけは、機械的に確認し続けている。

 その一方で、思考だけが先へ先へと進んでいく。

 

 ――この調子なら、予定より少し早く到着できる。 

 上映スケジュールにはかなりの余裕がある。そこは問題ない。

 

 ――映画の前後はどうしたものか。

 視線は前方を射抜いたまま、脳内の仮想マップに最短導線をシミュレートする。

 今日の彼女の靴は、歩行に適したスニーカーではない。

 物理的な疲労は、心理的な満足度を著しく減退させる。

 無駄な歩数は一歩たりとも刻ませない。

 最短距離、最小負荷での時間調整が必須だ。

 

 上映前の時間つぶしは、映画館前にある台湾喫茶。

 立地、導線、滞在時間。どれも悪くない。

 そこで軽く話をして映画の予備知識も、そこで補足する。

 

 ――問題は、その後。

 終映後のレストラン選定。

 この選択が、今日という一日を決定づける。

 

 夕食の候補を順に消していく。 

 バイキング、ファストフードは論外。

 騒がしすぎて、落ち着いて話ができない。

 高級ステーキ店、懐石料理、フレンチも除外。

 初回からそんな場所へ連れて行けば、彼女を緊張させてしまう。

 同フロア内の多国籍料理店群は……

 個性が強く、味覚の好みが分かれる可能性を排除しきれない。

 初見ではリスクが高いので除外。

 

 ――となると、残る選択肢は二つ。 

 海側の洋食屋と山側のイタリアン。

 海側は景色が最高だ。でも、景色が良すぎると、つい外ばかり見てしまって会話が弾まないかもしれない。

 山側は、静かでプライベートな空間だ。邪魔な音も光もないから、じっくり話をするには最適だ。

 しかし、静かすぎて逆に沈黙が怖くなる可能性もある。

 どちらを優先すべきか――

 

 ――さらに、大きな不安がもう一つ。

 今回の映画選択。

 あれは明らかに“万人向けではない”。

 もし彼女が「つまらなかった」と感じてしまったらどうすればいい?

 その場合、どこかでリカバリーが必要だ。

 

 会話のしやすさか。

 体験としての満足度か。

 最適解を探して、思考が深く沈み込んでいく。

 選択肢は整理されている。だが、最後の一押しが決まらない。

 どうしたものやら……。

 

 ――そのとき。

「……今井さん?」 

 すぐ隣から、鈴の音を鳴らすかのような声がかかった。

 思考の深海まで沈み込んでいた意識が一瞬で海面へと引き戻され、不意に周囲の音が鼓膜に戻ってくる。

「眉間に皺、寄ってますけど……大丈夫ですか?」 

 視線を向けると、彼女が身を乗り出すようにして、少しだけ心配そうにこちらを覗き込んでいた。

 

 ――顔に出ていたか。

 指先に、わずかに力が入っていることにあらためて気づいてハンドルを握る手を、少しだけ緩める。 

「少し、考え事をしていただけです」

 そう言うと、彼女はほんの少しだけ首を傾げる。


「そんなに難しいことだったんですか?なんだか、世界平和の守り方でも考えているような顔でしたよ」

 冗談めかした彼女の言葉に、少しだけ迷ってから白旗を上げるように答えた。

「……今日のスケジュールの、最適解を探していました」

 一瞬の沈黙。

 彼女は一瞬、何を言われたのか分からないという風に、ぽかんとした顔になった。

 

 それから、こらえきれないといった様子で、小さく吐息を漏らすように笑った。

「そこまで難しく考えなくても、大丈夫ですよ。計算通りにいかないことがあっても、私は全然気にしませんから」

 彼女は前方を向き直し、少しだけ背伸びをするようにシートに背中を預けた。

「こうして一緒にいられれば、それだけで……もう十分、正解です」

 彼女の声は、先ほどよりもずっと柔らかく弾んでいた。

 

 助手席から流れてきたその言葉は、今まで必死に組み立てていたどんな緻密なチャートよりも、ずっと鮮やかに「答え」を示してくれた気がした。

 

 ――――

 本当に、それで十分だった。

 どこに行くのか?

 何を食べるのか?

 選んだ映画が難しいかどうか?

 そんな目に見える「正解」よりも、私の知らないところで彼がそこまで真剣に、私のために頭を悩ませてくれていた。

 その事実の方が、胸の奥にずっと温かく響いていた。

 

 けれど同時に、少しだけ困ってしまう。

 そんなに真っ直ぐで深刻な顔をされたら、自分が思っている以上に、私はこの人の中で、思っていたよりも丁寧に扱われているのだと、気づかされてしまうから。

 

 ――だめだよ、今井さん。

 そんなふうに、私の些細な一歩や数時間の過ごし方にまで心を砕かないで。

 そう言いたくなるほど、彼の不器用な誠実さは私の心の隙間に滑り込んでくる。

 

 大切にされることに慣れていないわけじゃない。

 けれど、彼のような「見返りを求めない真剣さ」に触れると、自分が脆いガラス細工にでもなったような錯覚に陥る。

 壊さないように、慎重に何度もシミュレーションを繰り返して守ろうとしてくれるその熱が、少しだけ怖かった。

 

 このまま甘えてしまったら、彼が用意してくれる「最適解」の中に、ずっと浸っていたいと思ってしまったら。

 そのとき、私はまた、同じ場所で立ち止まってしまうのではないか。

 ――それでも。

 前を見据えてハンドルを握る彼の横顔を見ていると、今はただ、その不器用な優しさに包まれていたいと思ってしまう。

 私は小さく首を振って、心の中に湧き上がった予感を打ち消した。 

 ――――

 

 そういうものか。

 思考のどこかで、張り詰めていた糸がふっとほどけた。

 さっきまで必死に組み立てていた「完璧な選択肢」たちが、急にその重みを失っていく。

 論理的な正しさとしては一分の隙もない。

 だが、そんなものはこの穏やかな空気の前では、取るに足らないものだと思い知らされる。

 

 彼女が、ふと思い出したように口を開いた。 

「今井さんって、もっと……口数が少なくて、素っ気ない人だとばかり思っていましたけど」

 彼女は窓から視線を戻し、悪戯っぽく、けれど優しそうな眼差しを向けてきた。

「なんだか意外でした。そんなに一生懸命になって、今日の予定を立てようとしてくれていたなんて」

 そう言って、彼女は明るく笑った。

  

 一瞬、言葉に詰まった。対人支援を学んで以降、相手の言葉にこれほど無防備に沈黙させられた経験はなかった。

「……よく言われます。第一印象は冷たくて、何を考えているのか分からない、と」

 ようやく絞り出すように短く返すと、彼女は少しだけ目を細めて、柔らかく笑った。 

「そうなんですか?でも、今は違いますよ」

 

 その一言が、静かに落ちる。

 ハンドルを握る手のひらが、急に熱を帯びたように意識される。

 何が違うのか。どこが、彼女の目にはそう映っているのか。聞こうと思えば、聞けた。

 

 ――けれど。

 それを確かめた瞬間、今のこの距離が別のものに変わる気がした。だから聞かなかった。

 代わりに、前を見る。

 視界の端で彼女の表情がわずかに緩むのが見えた。 

 たぶん、それは言葉にしない方がいい類のものだ。


 ――――

 彼は冷たい人ではない。たぶん、優しさの出し方が少しだけ不器用なのだと思う。

 さっき聴いた、あの『紅い祈り』の調べと、どこか似ている。

 

 鋭い棘を持っているようでいて、その実、誰よりも静かな優しさを抱え込んでいるあの音の輪郭。

 彼がハンドルを握り、真剣な眼差しで前を見据えるその横顔に、あの美しくも壊れた旋律の面影を見た気がした。

 ――言葉で説明されない方がいいこともある。

 「今は違います」と言ったときの私の真意を、彼が問い詰めずにいてくれたこと。


 その「踏み込まない優しさ」こそが、今の私には何よりも心地よかった。 

 そう思ったら、少しだけ胸の奥がやわらかくなった。

 ―――― 

 車は、そのまま速度を保ったまま走り続ける。 

 その中で、彼女の笑顔だけが少しだけ長く残っていた。

 流れていく景色は、さっきと同じはずなのに、どこかだけ、わずかに変わっていた。

 言葉にはならないまま、距離だけがほんの少しだけ近づいていた。


 

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、蒼汰が今日一日の予定を真剣に考えすぎてしまう回でした。


映画、食事、移動距離、歩きやすさ、会話のしやすさ。

すべてを整えようとする蒼汰ですが、結衣にとって大事だったのは、完璧な予定ではなく「一緒にいる時間」そのものだったのかもしれません。


蒼汰の不器用な誠実さと、結衣のやわらかい受け止め方。

二人の関係が少しずつ“正しさ”から外れていく感じを大事に書いています。


次回は、目的地に到着してからの場面へ進みます。

引き続き読んでいただけると嬉しいです。

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