第四話 家族
教会を出たあとも、
あの言葉が、頭から離れなかった。
——女神サラ。
名前を聞いただけなのに、
胸の奥が、わずかにざわつく。
理由はわからない。
ただ、触れてはいけないものに触れたような——
そんな感覚だけが、残っていた。
*
前から、楽しそうな声が聞こえてくる。
娘が何かを見つけてははしゃぎ、
母親がそれに応えている。
二人は並んで歩いていた。
その少し後ろを、私は歩く。
その距離が、ちょうどよかった。
「ほら」
不意に、母親が振り返る。
「あんたもこっち来な」
一瞬だけ、足が止まる。
それでも、
私は前に出た。
隣に並ぶ。
それだけのことなのに、
少しだけ、距離が近くなった気がした。
温かさが、届く。
*
家に帰ると、母親が夕飯の支度をし始める。
「お姉ちゃん、さっきのお洋服着てみて!」
娘にそう促されて、
私は言われるまま着替える。
布が身体に触れる。
「わぁ!やっぱりとても似合ってるね!」
娘は自分のことのように喜ぶ。
その姿を見ると、私も嬉しくなった。
——こんな感情は初めてだった。
「……ありがとう」
自然と口から溢れた。
「……お姉ちゃんが笑った!」
「お母さん、お姉ちゃんが笑ったよ!」
私の顔を覗き込んだかと思えば、
そのまま、部屋中をぱたぱたと駆け回り始める。
その様子を、ただ見ていた。
胸の奥が、少しだけ温かい。
「そりゃ、人間誰だって笑うさ」
「サラは、少し不器用なだけだよ」
「あまりいじわるするんじゃないよ」
母親はそう言って、
娘の頭を軽く小突いた。
「さ、夕飯にするよ」
母親がそう言って、台所へ向かう。
娘はまだ興奮した様子で、
私の手を引いた。
*
食事が終わり、母親が片付けを始める。
私は、その横に立った。
「手伝いたい」
そう言うと、母親は少しだけ目を丸くして——
ふっと、笑った。
「そうかい、じゃあこっちを頼むよ」
何をすればいいのかは、すぐにわかった。
「ねぇねぇ!」
ぱたぱたと足音が近づいてくる。
「アンも手伝う!」
母親はため息をついた。
「いいからあんたは座ってな」
「えー!」
アンは頬を膨らませて、
そのまま私の袖を引っ張る。
「お姉ちゃんはいいのに!」
少しだけ間があって——
「……終わったら、一緒に遊ぼう?」
目を潤ませながら、娘が私の顔を覗き込む。
「悪いけどさ」
少しため息をつきながら、母親が言う。
「これが終わったら、アンの相手してやってくれるかい?」
私は、小さく頷いた。
頼られることが、少しだけ嬉しかった。
*
片付けが終わる頃には、
外はすっかり暗くなっていた。
「終わった!」
娘が、待ちきれない様子で駆け寄ってくる。
「約束だよ!」
私は、頷いた。
「じゃあ、これ!」
娘は嬉しそうに、本を抱えてくる。
椅子に座ると、
娘は当然のように膝の上に乗ってきた。
ページをめくる。
指で絵をなぞりながら、
娘は楽しそうに声を上げる。
私は、それをただ見ていた。
温かい。
ページをめくるたびに、
その温もりが、少しずつ広がっていく。
「ねぇ、ここ!」
娘が笑う。
それにつられて、
私も、少しだけ笑った。
——ここにいたい。
娘は、いつの間にか静かになっていた。
膝の上で、小さく呼吸を繰り返している。
眠っているのだと、気づく。
その重みが、心地よかった。
「まるで、本当の姉妹みたいだね」
向かいに座るエマが、穏やかにそう言った。
「……エマ」
名前を呼ぶ。
それだけで、胸の奥が少しだけ熱くなる。
エマは、目を丸くした。
「私——」
少しだけ、言葉に迷う。
「たくさん仕事手伝うからさ」
「ずっとここにいたい」
エマは、少しだけ目を細めた。
それから、ふっと笑う。
「なに言ってんだい」
軽く肩をすくめる。
「あんたはまだ子供じゃないか」
そう言って、私のそばに寄る。
「仕事のことなんて気にするな」
「好きなだけいればいいさ」
エマは、少し乱暴に私の頭を撫でる。
「アンも喜ぶしさ」
「——それに」
エマは、少しだけ言葉を探すようにして、
「もう、家族みたいなもんだろ」
そう言って、
私とアンの頭を、まとめて撫でた。
「……ありがとう」
言葉と同時に、
涙が、溢れた。
止めようとしても、止まらない。
「お姉ちゃん、泣いてるの?」
アンが、眠い目をこすりながら
私の顔を覗き込む。
私は、アンの頭を撫でた。
すると、アンは安心したように向き直り、
私に抱きついたまま、眠りについた。
私は、顔を上げると、
エマと目が合った。
二人で静かに笑い合った。
*
穏やかな時間が流れていた。
——コンコンコン。
玄関の扉が、叩かれる。
「なんだい、こんな夜更けに」
エマは小さく不満をこぼしながら、
玄関へ向かった。
「はーい、今行くよ」
「ちょっと待ちな」
その声で、アンが身じろぎする。
「……お客さん?」
眠たげな声だった。
私は、じっと玄関の方を見た。
なぜか、嫌な予感がした。
「どちらさま?」
エマが玄関の扉を開けた。
——ゴトッ。
何かが、落ちた音がした。
それが何を理解するまでに、
わずかな間があった。
足元に転がっていたのは、
エマの頭だった。




