第三話 女神
「お姉ちゃん、女神様と同じ名前なのね!」
——その言葉が、頭に残っていた。
目を閉じても、なぜか消えない。
柔らかい寝具に身体が沈んでいる。
昨日までの地面とは違う、温かさ。
……なのに、落ち着かない。
目を閉じても、意識が沈んでいかない。
身体は休もうとしているのに、どこかそれを拒んでいるようだった。
——ここにいていいのだろうか。
そんな考えが、何度も浮かんでは消える。
どれくらいそうしていただろうか。
気がつくと、意識が途切れていた。
*
「お姉ちゃん、おはよう!」
娘はまた、私の手を引いた。
その手は、温かかった。
香ばしい香りが、部屋いっぱいに広がっている。
「お、起きたかい」
「朝飯、食べられそうなら食べな」
テーブルには、こんがり焼かれたパンと目玉焼きが並んでいた。
「少しは、ゆっくりできたかい?」
母親は椅子に腰をかけながら聞く。
私は、少しだけ間を置いて頷いた。
目が覚めた時、身体が軽かった。
どこも痛くない。
「お姉ちゃん、昨日より元気な顔してるね!」
娘は、嬉しそうに笑った。
母親はパンをかじりながら言った。
「今日はあんたの服でも買いに行こうかね」
「着ていた服はボロボロだしさ、あたしの服じゃ少し大きいだろう」
「そのままじゃまともに動けやしない」
その言葉に、すぐには頷けなかった。
そこまでしてもらっていいのか、わからない。
けれど——
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
そんな私の様子を見て、母親は呆れたように笑った。
「遠慮なんかしなくていいんだよ」
「助けちまったんだ、今更だろう」
そう言って、
ガッハッハ、と遠慮のない声で笑った。
そう言われて、少し肩の力が抜けた。
パンに手を伸ばす。
気づけば、ぱくぱくと食べ進めていた。
いつのまにか、皿の上は空になっていた。
「いい食べっぷりだね」
「よし、それじゃ出る準備をしようか」
椅子を引く音がして、母親は立ち上がった。
*
母親は棚から一枚の布を取り出した。
「その髪じゃ目立つからね」
「ほら、これを被りな」
差し出されたそれは、薄手のマントだった。
言われるままに羽織る。
視界が、少しだけ狭くなる。
……けれど、不思議と落ち着いた。
「わぁ!」
娘が目を輝かせる。
「いいなー!アンも着たい!」
娘はぴょんぴょん跳ねながら言う。
「……まったく」
母親は小さくため息をついた。
「仕方ないね」
棚の奥から、もう一枚布を取り出す。
「ほら、これでいいだろう」
「やったー!」
娘は嬉しそうに受け取ると、ぎこちなくそれを羽織った。
「お姉ちゃん、お揃いだね!」
深くフードを被って満足そうにしている。
その様子を、少しだけ眺める。
気づけば、口元がわずかに緩んでいた。
「それじゃ、出かけようか」
母親がそう言って、玄関の扉を開ける。
外の光が、差し込んできた。
思わず目を細める。
眩しい。
そして、温かい。
*
外に出ると、広大な放牧場が広がっていた。
風に揺れる草の中で、羊たちが静かに草を食んでいる。
「ねぇ見て!」
娘は草の中を駆け回りながら振り返る。
「この子たちね、アンたちの羊なんだよ!」
そんな様子を、母親と並んで眺めながら歩く。
この位置にいることが、少しだけ不思議だった。
「早く早く!」
すっかり遠くまで行ってしまった娘が、振り返って手を振る。
そのまま、また駆け出して行った。
思わず、その背中を目で追った。
「まったく、元気なもんだね」
母親は呆れたように言う。
*
しばらく歩くと、石造りの建物が並ぶ町が見えてきた。
煙が、ゆっくりと空にのぼっている。
「ほら、ここ!」
娘は振り返って言う。
「いつもここにお買い物しに来るんだ!」
「こっちこっち!」
娘は迷いなく進んでいく。
人の間をすり抜けていくように走っていくその姿は、
この場所に慣れているのがすぐにわかった。
人の声がする。
笑い声がする。
それが、不思議だった。
「この辺りでいいだろう」
母親が立ち止まる。
布や服が並んだ、小さな店だった。
「ほら、好きなの選びな」
母親はそう言った。
けれど——
何を選べばいいのか、わからなかった。
並べられた布も服も、
どれも同じように見える。
選ぶ、と言うこと自体が
よくわからなかった。
「……まったく」
母親は呆れたように息をつくと、
近くの服をひとつ手に取った。
「これなんかどうだい?」
差し出される。
言われるままに、マントを外す。
袖を通す。
布が、身体に触れる。
——視線を感じた。
店主が、こちらを見ている。
ほんの一瞬、目があう。
「お姉ちゃん、これすごく似合ってる!」
娘が、ぱっと笑った。
「……これにする」
自然と、そう口にしていた。
母親は、満足そうに笑みを浮かべた。
「店主さん、これいただくよ」
包まれた服を、両手で抱える。
落とさないように、
大事に持った。
「じゃあ、用事も済んだことだし——」
母親は軽く伸びをして言った。
「女神様に挨拶してから帰ろうかね」
*
道すがら昨日の言葉が、ふと頭をよぎる。
女神様——
「あの」
思わず、口を開いていた。
「女神様って……どんな存在なの?」
母親は、少しだけ目を細めた。
「なんだい、急に」
「……気になって」
少しの間のあと、母親は少し肩をすくめた。
「そうさねぇ」
「この国で一番偉い神様ってところかね」
「女神教の主神様さ」
それ以上は続かなかった。
「詳しいことは、あたしもよく知らないよ」
「難しい話は、教会の連中の仕事だ」
そう言って、母親は軽く笑った。
そんな話をしているうちに、教会が見えてきた。
町の中でもひときわ目立つ、大きな建物だった。
すると、教会の中から一人の男が出てきた。
「やあ、エマさんにアン。変わりはないかい?」
気さくな声で、そう声をかけてくる。
男は、柔らかな笑みを浮かべている。
「変わりないよ」
母親は気楽に答える。
「ねー!」
娘が元気よく声を上げた。
男は、ふとこちらに視線を向けた。
「……そちらは?」
母親が口を開こうとした、そのとき——
「お姉ちゃんはね、サラお姉ちゃんだよ!」
娘が、嬉しそうに割って入る。
「……サラ、か」
ほんのわずかに間があった。
けれど次の瞬間には、何事もなかったように微笑む。
「そうか。よろしくね」
*
男は、どうやらこの教会の牧師らしい。
母親と娘は、慣れた様子で祭壇の前に立つ。
二人は静かに手を組み、目を閉じた。
私は、その少し後ろで立ち尽くしていた。
どうすればいいのか、わからない。
「……女神様に祈るのは初めてかい?」
不意に、隣から声がした。
振り向くと、先ほどの牧師が穏やかにこちらを見ている。
私は、小さく頷いた。
「そうか」
男は静かに頷く。
「無理に真似をする必要はないよ」
「ここでは、ただ静かにしていればいい」
少しだけ、間があく。
「……女神様って、どんな存在なの?」
男は、ほんの一瞬だけこちらを見つめる。
「この国を見守る、唯一の神だよ」
静かな声だった。
「人々の営みを照らし、導く存在だ」
「難しく考えなくていい」
「ただ、そこに在るものとして受け入れればいい」
その言葉は、どこか曖昧で——
けれど、不思議と否定できなかった。
「名前は——」
「女神サラ」
その名前に、心がわずかにざわついた。




