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背徳の檻に咲く白銀 ~神の妻となった聖女は、冷酷な守護騎士の偽りの刃に抱かれる~  作者: 白狸
【第1章】欺瞞の黒革と背徳の誓約 ~神の檻を灼く白銀の夜明け~
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処刑塔の真実

夜風が、石の隙間を抜けて低く獣のように鳴いていた。


神殿の北西、荒涼たる断崖絶壁の頂に突き立つ「処刑塔」


下界を見下ろせば、砕ける白波が断崖を削り、落ちれば肉片すら残らない漆黒の海が広がっている。


最上層に位置する独房には窓硝子などなく、吹き込む氷のような夜風が、骨の髄まで冷え切った囚人たちの体温を容赦なく奪い去っていく。


夜明けとともに、新月の断罪が執行される。


王都の民衆と全神官が見守る処刑広場にて、魔女エレナは北方結界の霊脈核へと接続され、全霊力を最後の一滴まで吸い尽くされて絶命する。


そして国家反逆者レオンハルトは、その生贄の儀式の前座として、王太子ユリシーズ自らの手によって公開斬首に処される手筈となっていた。


二つの独房を隔てているのは、大人の手首ほどの太さがある黒鉄の格子壁、ただ一枚だった。


(寒い……。でも、私の寒さなんて……)


エレナは擦り切れた聖衣の裾を抱え、冷たい石床を這うようにして格子壁へとすり寄った。


手足に巻きついた鉄鎖がジャラリと重い悲鳴を上げる。


六日半を超える断食により、頬は削げ落ち、唇は血の気を失ってひび割れていた。


左腕の二の腕まで広がった紫黒の侵食斑は、冷気によって凍りつくように鈍く疼いている。


だが、エレナは自らの飢餓や苦痛など、一片も気に留めていなかった。


紫水晶の瞳が必死に見つめていたのは、格子の向こう側――冷たい床の上に横たわる、痛々しい漆黒の影だった。


「……レオン……、レオン……っ」


かすれた声で、何度もその名を呼ぶ。


格子のすぐ向こう、わずか数寸の距離に、レオンハルトが倒れ伏していた。


昨夜の激闘で砕け散った黒曜の甲冑はすべて剥ぎ取られ、身に纏っているのは血と泥に汚れた薄い襦袢一枚だけだった。


右の脇腹には、処刑台まで生かしておくための粗末な止血用の麻布が雑に巻きつけられているが、そこからは今もじわりと赤黒い血が滲み出し、石床に小さな血溜まりを作っている。


浅く、途切れ途切れの呼吸。


彫刻のような美貌は死人のように青白く、額には高熱による冷汗が玉となって浮かんでいた。


唇は渇ききり、吐き出される息は痛々しいほど熱い。


それでも――彼の両手には、ボロボロに裂け、返り血に染まりながらも、あの漆黒の革手袋が頑なに嵌められたままだった。


意識を失い、死線の上を彷徨いながらも、彼は己の戒めを解こうとはしていなかったのだ。


「レオン……お願い、目を開けて……!」


エレナは鉄格子の隙間から、震える両手を差し伸べた。


届かない。あと数寸、指先が届かない。


鉄鎖を力任せに引くと、擦り切れた手首の皮膚から鮮血が滲んだ。


痛みを無視して腕を伸ばし、エレナの指先が、床に力なく投げ出されていたレオンハルトの手へと触れた。


手袋の、擦り切れた黒革の感触。


その奥から伝わってきたのは、凍える夜風を焼き尽くすような、尋常ではない高熱だった。


「っ……あ……!」


レオンハルトの長い睫毛がかすかに震え、氷藍の瞳が薄く開かれた。


焦点の定まらない瞳が、格子の隙間から自らの手を必死に握りしめるエレナの姿を捉える。


「……エ……レ、ナ……?」


掠れた、今にも消え入りそうな声だった。


彼は激痛に顔を歪めながら、折れた肋骨を庇うようにわずかに身じろぎした。


吐瀉するように血の混じった息を吐き出す。


「なぜ……そこに……いる……。逃げろと……言った、はずだ……」


「馬鹿な人……。逃げられるわけがないでしょう。こんな高い塔の上から、あなたを置いてどこへ行けというの……!」


涙が、エレナの大きな瞳から溢れ出し、格子の鉄棒をつたって落ちていく。


「ごめんなさい……私のせいで……。あなたが十年間積み上げてきたすべてを、私のせいで壊してしまった……! 私のために、どうしてここまで……!」


エレナの慟哭を聞きながら、レオンハルトは力なく唇の端を持ち上げた。


それは、自嘲のようでもあり、世界で最も愛しいものを見つめる男の、痛ましいほど柔らかな笑みだった。


「壊れてなど……いない……」


男は震える指先を微かに動かし、手袋越しにエレナの指を弱々しく握り返した。


「最初から……俺のすべては、貴女のものだったんだ……。失うものなど、何もない……」


その時だった。


レオンハルトが呼吸のために胸を上下させた拍子に、乱れた襦袢の襟元から、チリンと小さな金属音が零れ落ちた。


血で汚れた石床の上へと転がり出たのは、細い銀の鎖に繋がれた、小さな平たい金属の塊。


手のひらに収まるほどの、古びた真鍮の小箱――ロケットだった。


激しい衝撃によって留め金が壊れていたのか、蓋がパカリと開き、月光の下にその中身が晒された。


「……あ……」


それを見た瞬間、エレナの喉が完全に凍りついた。


時が止まったかのように、呼吸を忘れてそのロケットを見つめた。


ロケットの内側に収められていたのは、宝石でも、高価な魔石でもなかった。


硝子の向こうで押し花にされ、十年という歳月によって色素を失い、薄茶色に枯れ果てた――小さな野の花。


リンドウの花弁。


(嘘……でしょう……?)


鮮烈な記憶が、濁流のようにエレナの脳裏へと蘇る。


十年前。


スラム街の路地裏。


飢えと寒さに震えながら、泥水に咲いていた一輪の青い花。


聖女として神殿の馬車に連れ去られる前日、エレナがガラクタ市で見つけた十ピンドの安物の真鍮細工に、その花を押し花にして詰め、少年に手渡したのだ。


『これ、レオンにあげる。私のお守り。……いつか離れ離れになっても、この花を見たら、私を思い出してね』


幼い少女の、他愛もない約束。


翌日には神殿の騎士たちに泥の中へ踏みにじられ、永遠に失われたと思っていた、あの安物のロケット。


「……ずっと……持っていたの……?」


エレナの声が震えた。


見れば、真鍮の表面は数え切れないほどの傷が刻まれ、角は丸く削り取られていた。


どれほどの修羅場をくぐり抜けてきたのか。


どれほどの血の海の中で、この冷酷な騎士は、胸元にこの安物のガラクタを抱きしめ続けてきたのか。


貴族たちから「スラムの野良犬」と嘲笑われ、同胞の騎士たちから「冷酷な処刑人」と忌み嫌われ、汚れ仕事を一身に引き受けながら――彼は、この枯れ果てた花だけを心の拠り所にして、生き抜いてきたのだ。


「……捨てられる、はずがないだろう……」


レオンハルトは息も絶え絶えに、力なく目を伏せた。


「貴女がくれた……唯一の光だった……。神殿の奥底で、白銀の衣を着せられ、神の妻などという虚飾で縛られた貴女を見るたび……胸が張り裂けそうだった……。あの腐った祭壇から、貴女を連れ戻すことだけが……俺が呼吸をする理由だったんだ……」


「レオン……ああ、レオン……っ!」


エレナの胸の奥で、激しい嗚咽が爆発した。


なんという愛の深さだろうか。


言葉にすることすら許されず、触れ合うことすら禁じられた十年間。


彼は一度もエレナを諦めたことなどなかった。


冷酷な言葉で突き放し、任務の仮面を被り続けたその裏側で、この男はただ一途に、狂おしいほど純粋に、エレナ一人のためだけに魂を削り続けていたのだ。


(神など……神殿の戒律など、何の意味があるというの)


神の妻としての誇り? 


民のための生贄?


そんなものは、この男の十年の血と涙の前に、塵芥に等しかった。


「死なせない……」


エレナの瞳に、宿ったことのない強固な光が灯った。


「絶対に、あなたを死なせたりしない……!」


エレナは格子に額を押し付け、残された全身全霊の意識を胸の奥へと沈めた。


空っぽの胃腑、擦り切れた筋肉、枯れ果てた魔力回路――その最奥の澱から、自らの命そのものを燃料にして、白銀の霊力を強引に絞り出す。


パチパチと、エレナの指先から白銀の燐光が立ち上り始めた。


「エレナ……? やめろ……何を……!」


レオンハルトの瞳に、恐怖の色が走った。


「治すわ。あなたのその傷を……すべて、私が引き受ける!」


「やめろッ! 貴女の身体はもう限界だ……! そんな傷を引き受けたら、侵食斑が心臓に届いて死ぬぞ!」


「あなたが死ぬくらいなら、私が死んだ方が何千倍もいい!!」


エレナは叫び、格子の隙間から手を伸ばした。


レオンハルトは咄嗟に逃れようと身を引こうとしたが、重傷の身体はピクリとも動かない。


エレナの両手――白い絹の手袋を失った素手が、レオンハルトの右手へと重ねられた。


肌と肌ではない。


レオンハルトが嵌めている、ボロボロの黒革の手袋の上から。


手袋越しに、エレナは彼の手を、骨がきしむほど強く握りしめた。


「主よ……我が祈りを聞き届けたまえ……!」


眩い白銀の奔流が、処刑塔の暗闇を白昼のように照らし出した。


ドクンッ――!!


その瞬間、エレナの全身を、かつて経験したことのない衝撃が貫いた。


レオンハルトの体内を蝕んでいた致命傷――砕けた肋骨の激痛、裂けた内臓の出血、そして古代魔導具の呪詛の残滓が、奔流となってエレナの手のひらを通じて逆流してくる。


「――っ、ぐ、あああああああっ……!!」


エレナの喉から、悲鳴が引き裂かれた。


血を吐きそうになるほどの激痛。


まるで体内で刃の嵐が吹き荒れているかのように、五臓六腑が切り刻まれる。


バチバチと音を立てて、エレナの左腕の聖衣が内側から吹き飛んだ。


露わになった左腕。


二の腕中ほどで止まっていた紫黒の侵食斑が、猛烈な勢いで黒い毒蛇のように肌を這い上がり、肩を越え、鎖骨のすぐ下まで一気にその領域を拡大していく。


「エレナ――ッ!!」


レオンハルトが絶叫した。


彼の手袋越しに伝わってくる傷と痛みが、急速に消えていく。


止まらなかった右脇腹の血が凝固し、砕けていた骨が軋みを上げて結合し、荒れ狂っていた呼吸が正常なリズムを取り戻していく。


彼が蘇生していくのと完全に反比例して、エレナの顔色は死人のように土気色へと変わり、目、鼻、そして口端から、タラリと赤い血が伝い落ちた。


「やめろ……! 手を離せ、エレナッ!!」


レオンハルトは回復した左腕で、エレナの手を引き剥がそうとした。


だが、エレナの指は、まるで魂を縫い合わせたかのように固く、決して彼の手袋を離さなかった。


(痛い……苦しい……)


けれど。


十年間、他人のために引き受け続けてきた数千、数万の傷の中で――この痛みだけは、エレナにとって至上の幸福だった。


誰かの身代わりの生贄ではない。


神殿の権威のための奇跡でもない。


ただ、自分が心から愛する、世界でたった一人の男を生かすために、自らの意志で選んだ痛み。


「……あ……、ふ……っ」


治癒の光が、ふっと霧散した。


エレナの力が尽き、格子越しに繋がれていた手が、力なく離れた。


ドサリ、と。


エレナの華奢な肉体が、自室の冷たい石床の上へと崩れ落ちる。


肩口まで真っ黒に染まり、血管がドクドクと不気味に脈打つ左半身。


呼吸は浅く、紫水晶の瞳は半ば焦点を失っていた。


「エレナ……! エレナッ!」


完全に傷を癒されたレオンハルトは跳ね起き、格子の鉄棒を両手で掴んで激しく揺らした。


ガシャン、ガシャンと狂乱の音が処刑塔に響き渡る。


だが、神聖銀を練り込んだ処刑塔の格子は、いかに剛力無双の騎士といえど、素手で曲げられるものではなかった。


エレナは血に濡れた口元を微かに緩め、霞む視界の中で、格子にすがりつくレオンハルトを見上げた。


「……よかった……。傷……塞がったわね……」


「馬鹿野郎……! なぜこんな……なぜ俺なんかのために命を捨てるんだ……ッ!」


レオンハルトの瞳から、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちる。


彼は格子の隙間に腕を差し入れ、床に倒れるエレナの頬へと手を伸ばした。


あと数寸。


黒革の手袋の指先が、エレナの濡れた銀の髪を、かすかに掠める。


直接肌には触れていない。


けれど、その指先から伝わってくる男の慟哭と絶望が、エレナの冷え切った心を温かく満たしていた。


「泣かないで……レオン……」


エレナは途切れ途切れの声で、優しく微笑んだ。


「明日の朝……処刑台の上で……あなたと並んで死ねるなら……私、ちっとも怖くないわ……。神の妻なんかじゃない……あなたの、エレナとして死ねるのだから……」


「死なせない……」


レオンハルトは額を鉄格子に叩きつけ、血を滲ませながら唸った。


その氷藍の瞳の奥で、絶望を突き抜けた漆黒の猛炎が、恐ろしいほどの輝きを放ち始めていた。


「絶対に死なせない……! 貴女をこんなところで終わらせてたまるか……!」


彼は自らの胸元から零れ落ちた、真鍮の押し花ロケットを拾い上げ、砕けんばかりの力で握りしめた。


「俺の部下たちは……まだ死んではいない。狼煙は、必ず上がる……」


夜風が、吹き荒れていた。


東の空の彼方、群青色の夜の帳の向こうで、禍々しい新月の闇が、ゆっくりと王国を覆い尽くそうとしていた。


運命の夜明けまで、あと三時間。

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