断罪の日、反旗の狼煙
新月の空は、まるで不吉な予兆を孕んだ鉛のように重く淀んでいた。
朝の八時を告げる神殿の鐘が、王都の空に低く重く鳴り響く。
普段ならば陽光を弾いて白銀に輝く大聖堂前の「審判の処刑広場」は、今や黒山の人だかりで埋め尽くされていた。
着飾った貴族たち、純白の法衣をまとった高位神官たち、そして神殿の煽動によって憎悪を植え付けられた数千の民衆が、狂気じみた興奮を瞳に宿して処刑台を取り囲んでいる。
「魔女を殺せ!」
「穢れた生贄を捧げ、国境の結界を固めよ!」
「反逆者に死を!」
飛び交う罵声と怒号が、冷たい風に乗って処刑台の上へと吹き上がってくる。
その中央に設えられていたのは、北方結界の霊脈核と直接繋がれた、黒曜石の巨大な祭壇だった。
エレナは、その祭壇の上に背中から押し倒され、両手両足を幾重もの神聖銀の鎖で縫い止められていた。
(息が……吸えない……)
七日間に及ぶ絶食と、昨夜レオンハルトから引き受けた致命傷の毒。
エレナの肉体は、すでに自力で呼吸を維持することすら危うい限界に達していた。
引き裂かれた聖衣の胸元から覗く肌――左の二の腕から肩を越え、鎖骨の下、心臓のすぐ上まで這い寄った紫黒の侵食斑が、氷のような鈍痛とともにドクドクと禍々しい脈動を打っている。
祭壇の四方に配置された魔導水晶が、キリキリと耳障りな共鳴音を立て始めた。
結界核への接続。
この儀礼が始まれば、エレナの体内に残るわずかな魂の欠片まで、一滴も余さず北方結界の維持のために吸い尽くされ、最後はミイラのように干からびて息絶える。
けれど、エレナの紫水晶の瞳は、自らの死の恐怖など見つめていなかった。
祭壇から十歩ほど離れた場所。
粗末な木製の断頭台の前に、鎖で手足を縛られて跪かされている男――レオンハルトの姿を、ただじっと見つめ続けていた。
(レオン……)
彼は、力なく首を垂れていた。
砕かれた甲冑は剥ぎ取られ、泥と血に汚れた麻の襦袢を纏った背中は、痛々しいほど小さく丸まっているように見える。
処刑執行人が背後に立ち、巨大な両刃の首切り斧を冷ややかに構えていた。
昨夜、処刑塔の格子越しに命を賭して癒した彼の傷。
エレナには分かっていた。
彼がいま、全身の力を抜き、死に体の演技を完璧にこなしていることを。
その証拠に、項垂れた彼の両手――あの擦り切れた黒革の手袋を嵌めた指先が、石床の隙間に爪を立てるように、微かに神経を尖らせているのが見えた。
『絶対に死なせない。狼煙は、必ず上がる』
昨夜、男が吐き出した狂気じみた誓い。
エレナは心臓の奥でチリチリと疼く神聖誓約の痛みを抱きしめながら、その時を信じて祈り続けていた。
処刑台の正面、豪奢な天幕が張られた貴賓席から、拍手の音が優雅に響いた。
「皆の者、静粛に!」
立ち上がったのは、黄金の軍服に身を包んだ王太子ユリシーズだった。
その隣には、純白のシルクに無数の真珠を散りばめたドレスを纏い、黄金の巻き髪を誇らしげに揺らすカテリーナ・フォン・ベルリッツが、勝ち誇った笑みを浮かべて寄り添っている。
ユリシーズは腰の儀礼剣をすらりと抜き放ち、広場の群衆に向けて高く掲げた。
「長きにわたり神殿の恩寵を貪り、あまつさえ魔獣の穢れに魂を売り渡した偽聖女エレナ! そして、その魔女に惑わされ、王家に刃を向けた反逆者レオンハルト! 神の裁きは下された! これより、新聖女カテリーナの清らかな祈りのもと、反逆者を斬首し、魔女の魂を結界の礎として神へ奉納する!」
広場を揺るがす大歓声。
カテリーナが進み出て、胸の前で淑やかに手を組むと、その指先から目も眩むような黄金の燐光がふわりと立ち上った。
「神よ、穢れた者どもの魂を憐れみ、我が光によって国に永遠の安寧を賜らんことを!」
鈴を転がすような甘い声。
民衆は「聖女様!」「カテリーナ様万歳!」と熱狂し、涙を流して地に平伏する。
カテリーナは優越感に紅潮した頬を歪め、祭壇の上に縛られたエレナを見下ろして、嘲笑を投げかけた。
(見なさい、エレナ。あなたがどれほど泥をすすろうと、最後に民を導くのは、神に選ばれたこの私なのよ!)
その傲慢な視線を受け止めながら、エレナは冷たい悪寒を覚えていた。
カテリーナの指先から放たれる黄金の光。
それは相変わらず美しく見えたが、エレナの研ぎ澄まされた霊感には、その光の奥にある「空洞」がはっきりと視えていた。
ただ眩しいだけで、何の浄化の重みもない、薄っぺらな目眩まし。
痛みから目を背けさせるだけの、欺瞞の光。
「執行せよ!」
ユリシーズが冷酷に剣を振り下ろした。
「まずは反逆者レオンハルトの首を刎ねよ!」
執行人が巨斧を高く振り上げる。
刃が朝の光を鈍く反射し、レオンハルトの首筋めがけて振り下ろされようとした――まさにその刹那だった。
――ギギギギギッッッッ!!
空間そのものが軋むような、耳を劈く怪音が、天蓋の彼方から轟き渡った。
「なっ……何事だ!?」
ユリシーズが眉を跳ね上げ、空を仰ぐ。
処刑広場の全方位を取り囲む空――北方結界の彼方の空に、突如として巨大な紫黒の亀裂が走ったのだ。
まるで硝子にヒビが入るように、青空が砕け散っていく。
ドォォォォォンッ!!
爆音が大地を揺るがした。
結界の崩壊だった。
エレナの魔力奉納を待つまでもなく、霊脈の限界を迎えた北方結界が、カテリーナの杜撰な魔力干渉によって完全に瓦解したのだ。
「ギィィィヤアアアアッッ!!」
「グルルルルルッッ!!」
裂けた空の彼方から雪崩れ込んできたのは、無数の黒い影だった。
翼を広げた有翼の魔獣、黒紫の瘴気を纏った双頭の狼、骨を剥き出しにした巨大な魔導獣の群れ――数千、数万の魔獣が、結界を失った王都の上空へと濁流のように雪崩れ込んできたのだ。
「ひ、魔獣だぁぁぁっ!?」
「結界が破れたぞ! 逃げろ、逃げろぉぉぉっ!!」
狂喜に沸いていた広場は、一瞬にして地獄の阿鼻叫喚へと転落した。
民衆は我先にと出口へ殺到し、折り重なって倒れ、貴族たちは豪奢な礼服を泥に汚しながら悲鳴を上げて逃げ惑う。
「落ち着け! 陣を崩すな!」
ユリシーズが顔色を変えて怒鳴り散らすが、親衛隊の兵たちも空を埋め尽くす魔獣の数に恐慌をきたしていた。
頭上から急降下してきた一体の魔獣が、逃げ遅れた神官の喉笛を一撃で食いちぎり、鮮血が石畳に派手に飛び散る。
「カテリーナ!」
ユリシーズがすがりつくように新聖女の肩を掴んだ。
「奇跡を使え! 貴様の光の魔力で、あの魔獣どもを祓うのだ! 早くしろ!!」
「え……? あ、は、はい……っ!」
カテリーナは蒼白になりながら、震える両手を空へと突き出した。
「光よ……神の光よ、魔を打ち払えぇぇぇっ!!」
彼女の放てる最大の魔力が解放され、処刑広場全体を真昼のような黄金の閃光が包み込んだ。
誰もが息を呑み、奇跡の成就を祈った。
だが――。
光を浴びた魔獣たちは、灰になるどころか、ピクリとも怯まなかった。
カテリーナの「光」は、ただの光熱に過ぎない。
瘴気を引き受ける覚悟も、毒を中和する浄化の代償も持たない偽りの奇跡は、高位の魔獣にとってただの眩しい篝火にすら劣っていた。
「グルルルァッ!!」
光に刺激された巨大な魔導獣が、怒り狂った咆哮を上げ、貴賓席へと向かって一直線に突進してきたのだ。
振り下ろされた巨大な鉤爪が、豪奢な天幕を一撃で引き裂く。
「いやあああああっ!?」
カテリーナの喉から、淑女の気品など微塵もない、無様な豚のような悲鳴が上がった。
吹き飛んだ天幕の下で、カテリーナは尻餅をつき、泥水の中にドレスを汚しながら腰を抜かしていた。
王冠は転がり落ち、金髪は乱れ、恐怖に引き攣った顔からは鼻水と涙が垂れ流されている。
「う、嘘よ……私の光が、効かない……? 助けて、誰か助けてぇぇぇっ!!」
偽聖女のメッキが、無残に剥がれ落ちた瞬間だった。
彼女が誇っていた「無垢なる奇跡」の正体は、痛みを麻痺させるだけの紛い物。
本物の悪意と瘴気の前には、指一本動かせない無力な見世物に過ぎなかったのだ。
「ええい、役立たずの女が!」
ユリシーズはカテリーナを足蹴にして突き飛ばし、自らは親衛隊の盾の陰へと逃げ込もうとした。
その大混乱の極致の中。
ヒュオオオオッ――パァァァンッ!!
けたたましい炸裂音とともに、処刑広場の時計塔の頂から、一本の黒い狼煙が天高く打ち上げられた。
漆黒の煙。空に広がる黒曜の印章。
(あ……!)
祭壇の上で、エレナの目が瞠られた。
狼煙だ。
レオンハルトが言っていた、反撃の合図。
その瞬間、処刑広場の外周を警備していた黒曜騎士団の兵たち――百名を超える漆黒の甲冑を纏った騎士たちが、一斉に親衛隊へと武器を向けた。
「――黒曜騎士団、総員抜刀ッ!!」
「殿下への不敬を赦すな! 我らの団長を奪還せよ!!」
怒号とともに、黒曜騎士たちが親衛隊の背後を強襲した。
混乱の極みにあった親衛隊は挟み撃ちとなり、一瞬にして指揮系統が崩壊する。
そして――処刑台の上で、怪物が目を覚ました。
「死に損ないが……貴様から片付けてやる!」
取り乱した処刑執行人が、断頭台の前で項垂れるレオンハルトへ向けて、ヤケクソのように巨斧を振り下ろした。
だが。
ガキィィィィンッッ!!
鈍い金属音が広場に響き渡った。
斧は、レオンハルトの首を断つことはできなかった。
男の右手――血塗れの黒革の手袋に包まれた掌が、振り下ろされた白刃の峰を、真正面から素手でガッシリと受け止めていたのだ。
「な……っ!?」
執行人が息を呑む。
ゆっくりと、男が顔を上げた。
項垂れていたはずの黒髪の隙間から覗く、氷藍の瞳。
そこに宿っていたのは、瀕死の罪人の色などではない。
地獄の底から這い上がってきた修羅の、凍てつくような殺気だった。
「――貴様の鈍刀で、誰の首を刎ねる気だ?」
低く響いた声とともに、レオンハルトの手袋に凄まじい膂力が込められた。
メキメキと音を立てて巨斧の鋼がひび割れ、粉々に砕け散る。
「バ、バケモノ……っ!?」
恐怖に腰を抜かした執行人の胸倉を、レオンハルトは左手で掴み上げ、そのまま処刑台の下へと投げ飛ばした。
ジャラララッッ!!
レオンハルトが腕を広げると、彼を縛り付けていた神聖銀の鎖が、内側からの凄まじい筋力と闘気によって一瞬で引きちぎられ、金属の破片となって四散した。
昨夜、エレナが命を削って注ぎ込んだ代償治癒。
彼の肉体は、傷一つないどころか、全盛期を遥かに超える力を取り戻していたのだ。
「レオンハルトッ! 貴様、なぜ動ける……!?」
逃げ惑うユリシーズが、信じられないものを見る目で絶叫した。
レオンハルトは王太子など一瞥もくれなかった。
足元に転がっていた執行人の剣を蹴り上げ、空中で黒革の手袋の右手で柄を掴み取ると、彼は一直線に祭壇へと身を翻した。
襲いかかってくる親衛隊の残党、そして空から降下してきた三体の魔導獣。
レオンハルトは疾風のように駆け抜け、すれ違いざまに三振りの刃を閃かせた。
ズバッ、ズバァッ!!
甲冑ごと兵を斬り伏せ、魔導獣の首を一瞬で刎ね飛ばす。
返り血の雨を浴びながら、彼は処刑台の階段を二段、三段と跳び越え、黒曜石の祭壇の上へと舞い降りた。
「レオン……ッ!」
祭壇の上、鎖に縛られたエレナが叫んだ。
レオンハルトの氷藍の瞳が、エレナを捉える。
その瞳には、先ほどまでの冷酷な殺気は消え去り、痛切なまでの焦燥と執着だけが宿っていた。
「エレナ!」
レオンハルトは躊躇なく剣を振り下ろした。
ギィィンッ! と甲高い火花が散り、エレナの四肢を縛り付けていた神聖銀の鎖が、次々と両断されて床に落ちる。
さらに、祭壇からエレナの魔力を強制抽出していた四方の魔導水晶を、回し蹴りと剣の柄頭でことごとく粉砕した。
拘束から解き放たれ、崩れ落ちそうになるエレナの身体。
ガシャン、と重厚な音を立てて、レオンハルトが片膝をつき、彼女を受け止めた。
「……あ……」
彼の腕の中。
血の匂いと、鉄の匂い。
そして、世界で一番恋焦がれた男の体温が、聖衣越しにエレナを強く抱きしめていた。
レオンハルトの右手――黒革の手袋に包まれた指先が、エレナの華奢な手首を力強く握りしめる。
革の冷たい感触の奥から、ドクドクと脈打つ彼の生命の熱が、痛いほどに流れ込んでくる。
「約束通り……迎えに来た」
乱れた息の中で、男が低く囁いた。
その声は微かに震えていたが、握りしめられた手袋の力は、二度と彼女を離さないと誓うように強固だった。
「レオン……ああ、レオン……!」
エレナは涙を零しながら、彼の胸元にすがりついた。
周囲では、結界を失った王都に魔獣の群れが雪崩れ込み、逃げ惑う人々の絶叫と建物の崩壊音が響き渡っている。
神殿の権威も、王太子の野望も、偽聖女の虚飾も、すべてが業火と混沌の中に崩れ去ろうとしていた。
破滅の風が吹き荒れる処刑台の上で、幼なじみの二人は、十年の断絶を越えて今、手を取り合っていた。




