神への反逆、触れ合う素肌
処刑広場は、この世の終わりのごとき業火と暗雲に呑み込まれていた。
北方結界の消失によって空から降り注ぐ魔獣の群れは、飢えた蝗の群れのように王都の家々を薙ぎ払い、逃げ惑う群衆へと襲いかかっていた。
逃げ遅れた子供の泣き叫ぶ声、肉を裂かれる兵士の悲鳴、建物の崩壊音――阿鼻叫喚の嵐が、冷たい突風とともに処刑台の上へと吹き荒れる。
「ひぎゃあああっ! 助けて、誰か、誰か助けてえええっ!」
広場の石畳の上で、泥に塗れたカテリーナが這いつくばりながら絶叫していた。
かつて眩い「神の光」を誇っていた公爵令嬢のドレスは無残に引き裂かれ、取り巻きの貴族たちも、彼女を正妃に据えようとしていた王太子ユリシーズも、彼女を一顧だにせず我先にと親衛隊の護衛の陰へ隠れて逃げ去っていた。
頭上から旋回してきた有翼の魔獣が、血に飢えた鉤爪を広げ、カテリーナの頭上めがけて急降下する。
「カテリーナ様ッ!」
祭壇の上、レオンハルトの腕の中で、エレナが息を呑んだ。
自分を陥れ、聖衣を引き裂き、魔女として断罪台へと追いやった女。
憎むべき相手のはずだった。
だが、無力に死を待つその姿を、エレナの魂は見捨てることができなかった。
「見るな、エレナ」
低く、硬質な声が耳元に降る。
レオンハルトは黒革の手袋を嵌めた左腕でエレナの腰を抱き寄せ、右手の剣で広場へ飛び込んできた魔導狼の頭蓋を断ち割りながら、冷徹に言い放った。
「自業自得だ。あの女も、貴女を罵倒した神官どもも、すべて己の浅ましさの報いを受けているに過ぎない。……黒曜騎士団の退路が開いた。この混乱に乗じ、王都を脱出するぞ」
彼の言う通りだった。
かつて自分を崇め、掌を返して石を投げつけた都の人々。
自分を使い潰そうとした神殿と王家。
彼らを見捨てて二人だけで逃げ出すことは、誰にも責められない正当な権利のはずだった。
けれど。
視界の隅で、母親の亡骸にすがりついて泣く幼子の姿が映った。
逃げ場を失い、手を取り合って震える老夫婦の姿があった。
罪のない市井の民たちが、神殿の欺瞞と権力闘争の犠牲となって、魔獣の爪に引き裂かれようとしている。
(私は……何のために、十年間痛みに耐えてきたの?)
神殿の操り人形として生きるためではなかった。
ただ、目の前で苦しむ人の涙を拭いたかったから。
あのスラムの路地裏で、レオンが分けてくれた黒パンの温もりを、世界に返したかったからだ。
「……レオン」
エレナはレオンハルトの胸元から、そっと身を引き離した。
よろめく膝に力を込め、祭壇の冷たい床を踏みしめて立ち上がる。
「エレナ……? 何を……」
レオンハルトが眉を跳ね上げ、黒革の手袋の手を伸ばそうとする。
エレナは振り返り、微笑んだ。
血の気の引いた青白い唇に、けれど、十年前の路地裏で見せたような、澄み切った無垢な光を宿して。
「逃げる前に……片付けなければならないことがあります」
「馬鹿を言うな! 貴女の身体が今どうなっているか分かっているのか!?」
レオンハルトの瞳に、激しい怒りと恐慌が走った。
彼の視線の先――エレナの引き裂かれた聖衣から覗く左半身。
二の腕から肩、鎖骨を越え、心臓のわずか数寸手前まで達した紫黒の侵食斑が、禍々しく脈打っていた。
すでに致死量の毒を抱えているのだ。
これ以上、魔力を行使すれば、確実に心臓が侵食され、命を落とす。
「これ以上、一握りの瘴気すら引き受けることは許さん! 貴女はもう聖女ではない! 国を救う義務など、どこにもないんだ!!」
「ええ、義務ではありません」
エレナは静かに首を横に振った。
紫水晶の瞳が、真っ直ぐにレオンハルトの氷藍の瞳を見据える。
「聖女だからじゃない。……私が、あなたと共に、光の下で生きたいからです」
「……何……?」
「このまま都を捨てて逃げても……私は一生、見殺しにした人々の悲鳴を背負って生きていくことになる。そんな魂の抜け殻で、あなたと生きていくことなんてできない」
エレナは一歩、祭壇の最前列へと進み出た。
頭上で渦巻く黒雲、空を埋め尽くす数千の魔獣たち。
「あなたの切り開いてくれた命です。だから……私のすべてを使って、この国の闇を祓います。……信じて、レオン。私は死なない。あなたの元へ、必ず戻るわ」
「エレナッ!!」
レオンハルトの制止の叫びを背に受けながら、エレナは両手を天へと高く掲げた。
(神よ……いいえ、我が魂よ!)
体内の全霊力回路が、軋みを上げて開き放たれる。
これまで神殿の教義によって「祈り」という狭い型に押し込められていたエレナの力。
他者の傷を引き受けるだけの「代償治癒」の真の姿が、いま、己の命の箍を外して解き放たれる。
「――大気満たす穢れよ、暗雲を編む怨嗟の毒よ! 我が身を器とし、我が魂を楔として……すべて、ここへ集えッ!!」
エレナの口から紡がれたのは、祝詞ではなく、魂の絶叫だった。
キィィィィン――ッ!!
大気が共鳴し、天と地が震動した。
処刑台の上、エレナの華奢な肉体を中心に、目も眩むような純白と銀の巨大な光の渦が巻き起こった。
それは光熱ではない。
圧倒的な「引力」――王都全域に拡散していた魔獣の瘴気、大気中の毒素、人々の傷口から立ち上る腐敗の気配を、巨大な竜巻のように一点へと吸い寄せる、規格外の代償の嵐。
「グギャアアアッ!?」
「グルルルルッ!?」
頭上を旋回していた魔獣たちが、狂乱の悲鳴を上げた。
魔獣の力の源である瘴気が、強引に体内から引きずり出され、エレナの光の渦へと吸い込まれていく。
瘴気を奪われた魔獣たちは次々と飛行能力を失い、石畳の上へと叩きつけられて無力化していく。
「見ろ……! 魔獣どもが落ちていくぞ!」
「聖女様だ……白銀の聖女様が、都を救ってくださっている!」
逃げ惑っていた民衆や騎士たちが足を止め、涙を流して処刑台を見上げた。
カテリーナの偽りの光とは違う。
人々の痛みを、毒を、災厄のすべてを、たった一人の肉体で引き受けようとする、身を切るような真の奇跡。
だが――その奇跡の代償は、あまりにも残酷だった。
(ぐ、……あ、あああああああっ……!!)
王都中の瘴気が、奔流となってエレナの小さな肉体へと雪崩れ込んでくる。
数千、数万の傷と毒が、神経を焼き、骨を軋ませ、血管を灼熱の鉄線のように膨張させる。
皮膚が裂け、毛穴から血煙が吹き出す。
バチバチと音を立てて、左半身の侵食斑が暴走した。
鎖骨の下で止まっていた紫黒の紋様が、トゲのように鋭く枝分かれしながら、胸の中央――心臓へと向かって急速に這い進んでいく。
あと三寸。あと二寸。
心臓が毒に呑まれれば、エレナの意識は永遠に消滅する。
「消えろぉぉぉぉッ!!」
エレナの最後の絶叫とともに、集められた瘴気の渦が一気に収束し、白銀の閃光となって天蓋の暗雲を吹き飛ばした。
鉛色の空が割れ、そこから眩い本物の陽光が、処刑広場へと降り注ぐ。
魔獣の群れは瘴気を失って砂のように崩壊し、地に伏した人々の傷口からは黒ずみが消え去っていた。
王都は、救われたのだ。
けれど――。
「……ぁ……」
光の収束とともに、エレナの身体からすべての力が抜け落ちた。
指先が冷たく凍りつき、視界が真っ黒に反転する。
胸の中央、心臓のすぐ表面まで真っ黒に染まり、口元からドッと鮮血が吐き出された。
支えを失った肉体が、崩れ落ちる。
祭壇の天辺から、冷たい石床の底へと、人形のように落下していく。
死の奈落へと落ちていくその刹那――。
「――エレナァァァァッッ!!」
引き裂かれた獣の咆哮が、広場を揺るがした。
黒い疾風が駆けた。
誰よりも速く、雷光すら置き去りにする速度で、男が跳んでいた。
そして、その跳躍の最中。
男は――十年間、己の魂を縛り付けていた絶対の戒めを、一片の躊躇もなく脱ぎ捨てた。
バッ、と。
引き裂かれるように宙を舞ったのは、二つの黒い影。
上質な仔牛の革で作られた、漆黒の長手袋。
少年が剣を握ったあの日から、エレナを傷つけぬよう、神聖誓約の刃から彼女を守るために頑なに嵌め続けてきた
「欺瞞の盾」
それを、レオンハルトは自らの手で、空中へと投げ捨てたのだ。
「レオン……だめ……っ!」
落下するエレナの掠れた唇から、恐怖の叫びが漏れた。
手袋を外して触れれば、どうなるか。
心臓の神聖誓約が、他者の素肌の熱を検知した瞬間、エレナの魂は業火で焼き尽くされる。
彼自身も、神聖冒涜の呪いに呑み込まれる。
だが、レオンハルトの瞳に、迷いなど微塵も存在しなかった。
素手。
無数の刀傷と胼胝に覆われた、無骨で、血塗れの、生身の男の手。
ガシィッ――ッ!!
落下するエレナの細い腰を、そして背中を、レオンハルトの両腕が真正面から受け止めた。
肌と肌が。
十年の歳月を越えて、ついに、直接に触れ合った。
ドクンッッッッ!!!!
世界が軋むような衝撃が、二人の魂を貫いた。
刹那、エレナの胸元――薄い聖衣の奥で、真紅の魔法陣が狂乱の輝きを放って浮かび上がった。
【純潔の神聖誓約】
神以外の男の熱を受け入れた不貞の聖女を、即座に抹殺するための処刑の呪縛。
「――っ、ぎ、ああああああっっ!!」
エレナの喉から、言語を絶した絶叫がほとばしった。
心臓が、生きたまま業火の中に放り込まれたような激痛。
胸骨の内側から、燃え盛る杭が心臓を貫き、魂を焼き尽くそうとする。
全身が弓なりに反り、エレナの口から夥しい血が溢れ出た。
「エレナッ!!」
レオンハルトの腕にも、誓約の余波である紅蓮の稲妻が激しく逆流し、彼の屈強な腕の皮膚を容赦なく焼き焦がしていく。
肉の焦げる嫌な臭いが立ち込める。
だが、男は腕を解くどころか、さらに強く、骨が砕けんばかりの力でエレナの身体を自らの胸へと抱きしめた。
「レオン……離れて……! 死んじゃう……あなたが、死んじゃう……ッ!」
エレナは血を吐きながら、残された力で彼の胸を押しのけようとした。
二人とも死ぬ。
神の呪いは、人間ごときが抗えるものではない。
「黙れッ!!」
レオンハルトの怒号が、エレナの耳朶を打った。
見上げる男の顔は、苦痛と、そして世界中の神々を皆殺しにするかのような凄絶な憤怒に満ちていた。
「神の妻だと? 呪いの刻印だと? ……ふざけるなッ!!」
レオンハルトは自らの右腕を持ち上げ、自らの歯で手首の動脈を乱暴に噛み破った。
ドッと溢れ出る、騎士の熱い鮮血。
「貴女を縛る神など、俺がこの手で噛み殺してやる!!」
「え……?」
抗う間もなかった。
レオンハルトの血塗れの素手が、エレナの後頭部を力強く引き寄せた。
そして――。
奪われた。
狂おしいほどの力で、唇を。
「――っ、ん……!?」
エレナの瞳が、限界まで見開かれた。
重なり合う唇。
生々しい熱、鉄と血の味、そして男の激しい呼気。
手袋越しでも、親指越しでもない。
十年の飢餓と、十年の執着と、十年の愛のすべてを叩きつけるような、激しく、痛烈で、情熱的な口づけ。
「ん……っ、ふ……あ……ッ!」
レオンハルトの噛み破った手首から、そして彼の唇から、男の生命そのものである濃厚な血と、王国最強の騎士が培ってきた莫大な闘気が、エレナの口腔内へと直接注ぎ込まれていく。
逆流する生命の濁流。
それは、代償の毒で枯れ果てていたエレナの魔力回路を、暴力的なまでの熱量で満たしていった。
そして、男の魂が、エレナの心臓の奥へと踏み込んできた。
『神聖誓約』――心臓に巣食い、エレナを焼き殺そうとしていた神の刻印。
その呪いの核に対し、レオンハルトの注ぎ込んだ血と魂の猛炎が、牙を剥いて喰らいついたのだ。
(神になど……貴女を渡さない!!)
頭の中に、レオンハルトの狂気じみた叫びが直接響き渡る。
神の戒律と、一人の男の狂おしい執着。
魂の深淵で行われる、神と人間の壮絶な激突。
ギリギリと、心臓の奥で何かが軋む音がした。
神聖誓約の紅蓮の光が、レオンハルトの漆黒の闘気に圧し折られ、悲鳴を上げるように歪んでいく。
そして――。
パキィィィィンッッッッ!!
硝子が粉々に砕け散るような、甲高い破滅の音が、エレナの胸の奥で鳴り響いた。
十年間、エレナを縛り、誰の体温も知ることを許さなかった「神の妻の刻印」が。
いま、男の血と唇によって、力づくで粉砕されたのだ。
「……っ、は……ぁ……!」
唇が離された瞬間、エレナの口から、純白の燐光を帯びた息が吐き出された。
心臓を苛んでいた灼熱の激痛が、嘘のように霧散していく。
それどころか、レオンハルトの血と生命力を受肉したことで、胸の中央まで迫っていた紫黒の侵食斑が、まるで朝日を浴びた夜露のように急速に色を失い、透き通るような白い肌へと戻っていく。
鎖骨の下、肩、そして二の腕――。
十年間、エレナを苛み続けてきた「代償の穢れ」が、男の生命力によって完全に中和され、洗い流されていく。
奇跡だった。
神の奇跡ではない。
神を否定し、運命をねじ伏せた、人間の愛が引き起こした奇跡。
「……あ……」
エレナは呆然と、己の白い手を見つめた。
侵食斑は、どこにもない。
心臓の重苦しい戒律の痛みも、完全に消え去っていた。
「……はぁ、……はぁ……」
目の前で、レオンハルトが荒い肩息をついていた。
手袋を失った彼の素手は、誓約の雷撃によって火傷を負い、赤く爛れていた。
唇は自らの血で赤く濡れ、乱れた黒髪の下から覗く氷藍の瞳は、熱病に浮かされたようにギラギラと輝いている。
彼は爛れた素手で、エレナの濡れた頬を、今度こそ直接、慈しむように包み込んだ。
無骨で、熱くて、少し痛いほどの、男の生身の掌。
「……レオン……」
エレナの瞳から、大粒の涙が零れ落ち、彼の掌を濡らした。
「手袋……捨てちゃったのね……」
「あんなもの……二度と嵌めるか」
レオンハルトは掠れた声で笑い、額をエレナの額へとコツンと押し当てた。
混ざり合う吐息。
素肌と素肌の触れ合う熱が、二人の魂を甘美に溶かしていく。
「言ったはずだ」
男の低く、狂おしい囁きが、エレナの唇をくすぐった。
「神になど、もう二度と貴女を渡さない。……貴女のすべては、俺が奪い取った」
広場を埋め尽くす群衆の歓声も、遠くで崩れ落ちる神殿の鐘の音も、もはや二人には届かなかった。
ただ、十年の断絶を越えて重ね合わされた素肌の体温だけが、新世界の夜明けの中で、確かに脈打っていた。




