阻まれた脱出
地下の湿った空気の奥から、無数の松明の火の粉が爆ぜる音が響いていた。
赤黒い光が、第七独房の前に立ち込める霧を血の色に染め上げていく。
細い通路を埋め尽くすように展開したのは、神殿親衛隊の精鋭たち。
白銀の甲冑に身を包み、手には先端に魔導刻印が施された長槍と漆黒の大盾を構え、一切の隙もなく二重三重の陣を敷いている。
その中央で、王太子ユリシーズ・エドヴァルドは、薄汚れた地下牢にはあまりにも不釣り合いな黄金の軍服の襟元を撫でながら、心底楽しげに目を細めていた。
「どうした、ヴァルク? 自慢の剣を抜かぬのか。愛しい聖女様を連れて、夜風を浴びに行くところだったのだろう?」
蔑むような嘲笑が、湿った石壁に反響する。
ユリシーズの琥珀色の瞳は、獲物を蜘蛛の巣へと完全に追い込んだ冷酷な愉悦に濡れていた。
「……ユリシーズ殿下」
レオンハルトの声は、地獄の底から響くように低く、冷たかった。
彼は一歩も動かず、エレナの前に鉄壁の巨躯を立ちはだかせている。
腰の鞘から、漆黒の片刃剣が音もなく引き抜かれた。
闇の中で、冷徹な刃の切先が青白い燐光を放つ。
「貴様がこれほど浅はかな男だとは思わなかったぞ」
ユリシーズは芝居がかった仕草で肩をすくめ、吐き捨てるように言葉を継いだ。
「北方の裏市場で代償毒の緩和薬を買い漁り、黒曜騎士団の部下数名に都の裏門の警備をすり替えさせていたこと……すべて余の耳に入っていないとでも思っていたのか? スラムのネズミ風情が、どれほど爪を研ごうと、王家の手のひらの上で踊る塵に過ぎんのだよ」
「……っ!」
レオンハルトの背後で、エレナの息が止まった。
最初から、すべて読まれていた。
レオンハルトが十年間かけて築き上げ、張り巡らせてきた脱出の手筈は、ユリシーズによって最初から監視され、泳がされていたのだ。
「貴様がただの優秀な猟犬であれば、まだ生かして使ってやる道もあった」
ユリシーズの瞳から嘲笑が消え、冷酷な光が射す。
「だが、神の妻に私情を抱き、あまつさえ魔女となった罪人を奪おうとする狂犬など、生かしておく価値もない。……貴様をここで現行犯の反逆者として始末することで、黒曜騎士団の指揮権は完全に我が親衛隊が掌握する。ベルリッツ公爵家との結束も、より強固なものとなろう」
すべては、ユリシーズが王権と神殿の実権を完全に掌握するための布石だったのだ。
エレナを魔女として生贄にし、レオンハルトを反逆者として処刑する――二人の命と長年の苦悶は、ただ一人の男の野望の糧として弄ばれていたに過ぎなかった。
「殿下、もうやめてください……!」
エレナはレオンハルトのマントを握りしめ、震える足で身を乗り出した。
「ヴァルク団長は……私に脅迫されてここへ来ただけです! すべては私が、神聖力で彼を惑わし……!」
「嘘をつくな、エレナ」
レオンハルトが遮った。
振り返ることもなく、ただ低く、断ち切るような声。
「言い訳など、この男には通じん。……下がっていろ」
「でも、レオン……!」
「俺の背中から離れるな」
男の背中が、わずかに沈み込んだ。
筋肉が極限まで緊張し、黒曜の甲冑が軋む。
レオンハルトは左手を素早く翻し、腰の革袋から取り出した解呪針を、エレナの両足首に嵌められた鉄枷の鍵穴へと叩き込んだ。
ガチリ、と硬質な音が響き、重い鉄輪が外れて石床に転がる。
「走れるか」
「え……?」
「俺が前を切り開く。奴らの包囲の右翼、上層へと続く排気坑の扉がある。そこへ駆け込め」
「そんな……あなたを置いて一人でなんて、行けるわけがないわ!」
「行け!」
レオンハルトの怒号が轟いた。
その瞬間、黒い疾風が巻き起こった。
「――逆賊レオンハルト、および魔女エレナを捕縛せよ! 抵抗するならば、肉片一つ残さず切り刻め!」
ユリシーズの号令とともに、最前列の親衛隊十数名が一斉に長槍を突き出し、狭い地下通路を雪崩れ込んできた。
死の切っ先が、雨のように降り注ぐ。
だが、レオンハルトの動きは、人の領域を遥かに凌駕していた。
「――邪魔だッ!!」
漆黒の片刃剣が一閃した。
金属が砕け散る甲高い轟音とともに、先頭の親衛隊員三名の長槍が根元からへし折られる。
返す刃で、レオンハルトは黒曜の盾を構えた兵の胸当てを、甲冑ごと袈裟懸けに両断した。
血飛沫が、地下牢の湿った石壁に激しく飛び散る。
「ぎゃあああっ!?」
「ひ、怯むな! 槍衾を作れ! 数の力で圧し潰せ!」
親衛隊の怒号と悲鳴が入り乱れる中、レオンハルトはまさに漆黒の狂獣と化していた。
黒革の手袋を血に染めながら、彼はエレナの前に一歩も敵を踏み込ませない。
突き出される槍を素手の手袋で掴んでへし折り、踏み込んでくる兵の喉笛を剣の柄頭で叩き潰す。
一対十。
一対二十。
狭い回廊は、レオンハルトの圧倒的な個の武勇によって、瞬く間に血の海へと変貌していった。
けれど――。
(数があまりにも多すぎる……!)
エレナは壁に背を押し付け、恐怖と悲痛に喉を詰まらせていた。
倒しても、倒しても、暗がりの奥から新たな親衛隊員が湧き出してくる。
いくら王国最強の騎士といえど、狭隘な地下道で、エレナという守るべき対象を背後に抱えたままでは、回避の動きは極端に制限されていた。
ザシュッ――ッ。
肉を裂く鈍い音が、耳障りに響いた。
「ぐっ……!」
レオンハルトの口から、押し殺した苦悶が漏れた。
隙を突いた槍の穂先が、彼の漆黒の甲冑の継ぎ目――右の脇腹を深く抉り抜いていた。
「レオン――ッ!!」
エレナの叫びが木霊する。
鮮血が、レオンハルトの脇腹からドッと溢れ出し、冷たい石床を赤く染めた。
だが、彼は眉一つ動かさず、自らの肉を貫く槍の柄を黒革の手袋で掴むと、力任せに引き寄せて槍兵の首を跳ね飛ばした。
「下がっていろと……言ったはずだ……!」
レオンハルトは肩で激しく息をしながら、血煙の中で振り返ることなく叫んだ。
その全身からは、夥しい血が流れ落ちていた。
肩に受けた浅い斬撃、太ももを掠めた矢、そして脇腹の深手。
滴る血が、彼の黒い甲冑を赤黒い塗料のように濡らしていく。
それでも、男の背中は微動だにしなかった。
エレナを守る、ただその一念のためだけに、死線を超えた肉体が奇跡のように踏みとどまり続けている。
「やめて……もうやめて、レオン……!」
エレナの瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ出た。
痛かった。
自分の身体を刻まれるよりも、目の前で幼なじみの血が流れる光景が、エレナの心を千々に引き裂いていた。
(私が……治さなければ……!)
エレナは震える両手を伸ばし、祈りの魔力を練り上げようとした。
代償治癒。
彼の痛みを、すべての血を、傷を、己の肉体へと引き受けようと――。
だが、五日間におよぶ絶食と神聖銀の枷による衰弱は、エレナの体内から霊力の残滓すら奪い去っていた。
指先から立ち上った白銀の光は、蛍の光のように弱々しく明滅し、すぐにぷつりと消え失せてしまう。
「あ……神様……なぜ……! 今ここで奇跡を起こせないなら、私の命に何の意味があるというの……!」
己の無力さに、エレナは冷たい石壁を爪が剥がれるほど掻きむしった。
人を救うためだけに生きてきたはずの手が、世界で最も大切な男の傷一つ癒すことができない。
その無慈悲な現実を嘲笑うように、後方から冷徹な声が響いた。
「――そこまでだ」
ユリシーズだった。
彼の手には、王家にのみ伝わる古代魔導具――『断罪の光球』が握られていた。
高密度に圧縮された神聖光が、親衛隊の背後から、レオンハルトの足元へと音もなく転がされる。
「退けッ!」
ユリシーズの鋭い命令に、親衛隊が一斉に左右へと飛び退いた。
剥き出しになった空間。
球体が、目も眩むような閃光とともに、指向性の衝撃波を放った。
――ドゴォォォンッ!!
「ぐああっ……!!」
閃光と衝撃のすべてを、レオンハルトは正面からその身に受け止めた。
背後のエレナを爆風から守るため、彼は自らの肉体を肉の盾として差し出し、衝撃を一身に受け止めたのだ。
バキバキと音を立てて、黒曜の胸当てが粉々に砕け散る。
衝撃波に吹き飛ばされ、レオンハルトの巨躯が、エレナの足元へと激しく叩きつけられた。
「レオン――ッ!!」
エレナは我を忘れて床へと膝をつき、倒れ伏す男の身体を抱き起こそうとした。
「レオン、目を開けて! レオン……ッ!」
血の海。
甲冑は砕け、露わになった胸元からは夥しい鮮血が溢れ出していた。
浅い呼吸とともに、男の唇から赤黒い血泡が零れ落ちる。
それでも――薄く開けられた彼の氷藍の瞳は、朦朧とした意識の中で、狂おしいほど必死にエレナの姿を捉えていた。
「……に……げ……ろ……」
掠れた、音にならない吐息。
震える右手が、エレナへと伸ばされる。
黒革の手袋。
血と泥に塗れたその手は、決してエレナの素肌には触れず、彼女の羽織るマントの裾を、力なく握りしめようとして――そして、力尽きたように床へと落ちた。
「動くな、魔女!」
無慈悲な怒号とともに、十数本の長槍の切先が、エレナとレオンハルトの首元を隙間なく取り囲んだ。
冷たい鉄の刃が、二人の逃路を永遠に断ち切る。
煙と血の匂いが立ち込める中、ユリシーズが革靴を鳴らしながら、ゆっくりと歩み寄ってきた。
彼は倒れ伏すレオンハルトを見下ろすと、その無残な姿を爪先で小突き、侮蔑の笑みを深く刻んだ。
「神殿の黒曜石ともあろう者が、たかが女一人のために無様なことだ。……だが、見事な反逆の証拠が揃ったよ」
「殿下……!」
エレナは血まみれのレオンハルトを自らの身体で覆い隠すように庇い、涙で濡れた瞳でユリシーズを睨みつけた。
「彼を……彼を助けてください! 処罰なら、私がすべて受けます! 火刑でも、八つ裂きでも、何でも受けますから……どうか、レオンハルト様の手当てを……!」
「黙れ、罪人風情が」
ユリシーズは冷酷に言い放ち、親衛隊長へと視線を向けた。
「反逆者レオンハルト・ヴァルク、および魔女エレナを拘束せよ。……二人を、大聖堂北の『処刑塔』へ送るのだ」
処刑塔――。
その名を聞いた瞬間、周囲の親衛隊員たちでさえ、微かに息を呑んだ。
神殿の北西、吹き晒しの絶壁の上にそびえ立つ、国家最高反逆者のみが送られる断罪の檻。
生きてその門を出た者は、建国以来一人として存在しない。
「ヴァルクには最低限の止血だけを施しておけ。処刑台の上で死なれては、余の晴れ舞台の興が削がれるからな」
ユリシーズは冷ややかに踵を返し、暗い回廊の奥へと歩み去っていった。
「新月の断罪の日まで、隣り合う独房で、己の無力さをせいぜい噛み締めるが良い」
「レオン……! レオンハルト……ッ!」
引き裂かれる。
親衛隊の屈強な腕が、エレナの身体を強引に抱え上げ、血まみれのレオンハルトから引き離していく。
床を引きずられていく男の指先から、エレナのマントの端が、ハラリと滑り落ちた。
重い鉄の鎖が、再びエレナの手首と足首に巻きつけられる。
血の海に倒れたまま、虚ろな瞳でエレナを見送るレオンハルトの姿が、暗転していく視界の奥へと遠ざかっていった。
地下牢の冷たい闇が、二人の絶望を完全に飲み込もうとしていた。




