地下牢の月光
死者の眠る墓所よりも、その地下牢は深く、冷え切っていた。
神殿の最下層「忘却の奈落」
何百年もの間、神の戒律を破った異端者や、王家の秘密に触れた不敬の者たちが送られ、二度と生きて外の土を踏むことのなかった処刑待機所である。
湿り気を帯びた石壁には青黒い苔が這い、空気はカビと冷たい埃の匂いに満ちていた。
天井の遥か上方、分厚い石板の隙間に穿たれたわずか数寸の通気孔から、細い糸のような月光が一条だけ差し込んでいる。
その青白い光の帯が、冷たい石床に横たわるエレナの姿を、孤独な彫像のように浮かび上がらせていた。
(寒い……手足の感覚が、もうない……)
エレナは擦り切れた聖衣の裾を抱え、小さく身を縮めた。
手首に嵌められた神聖銀の枷が、体内の残存魔力を容赦なく吸い上げ、熱を奪い去っていく。
左腕の二の腕まで広がった紫黒の侵食斑は、魔力を奪われたことで浄化の均衡を失い、皮膚の下で氷の針のようにチクチクと鈍い痛みを放っていた。
五日以上にわたる絶食と、昼間の断罪の衝撃。
肉体の限界はとうに超えていた。
吐き出す息は白く、浅く、途切れがちで、耳の奥では激流のような耳鳴りが絶え間なく鳴り響いている。
けれど、衰弱した身体の苦痛以上に、エレナの魂を苛んでいたのは、あの大聖堂の祭壇で突きつけられた刃の記憶だった。
――抵抗は無駄です、罪人エレナ。
切先が喉元に触れた瞬間の、身を切るような冷気。
そして、路傍の石ころを見るかのように感情を消し去っていた、レオンハルトの氷藍の瞳。
(信じたかった……。あの人は、あの頃のレオンのままだと……)
嘲笑うような現実が、胸を鋭く切り刻む。
彼は神殿の忠実な刃となり、王太子の命に従って自らの手でエレナを捕縛した。
かつての幼なじみを罪人として引き立てることで、彼は自らの忠誠を証明し、騎士としての絶対的な地位を確固たるものにしたのだ。
なのに。
なぜ、床に崩れ落ちそうになった自分を、あの男はあんなにも強く抱きとめたのか。
甲冑越しに伝わってきた、狂おしいほど激しい心臓の早鐘。
布地越しに触れてきた黒革の手袋の、壊れ物を恐れるような微かな震え。
『待っていろ。今夜、必ず戻る』
去り際に落とされたあの掠れた言葉は、何だったのか。
ただの気まぐれか。
それとも、絶望の底にいる自分をさらに弄ぶための、残酷な嘘なのか。
「……もう、嫌……」
乾いた唇から、掠れた嗚咽が零れ落ちた。
いっそ、このまま凍えて意識を手放してしまいたい。
誰も信じられず、誰の体温も知らぬまま、この冷たい石の底で息絶えることができるなら、どんなに楽だろう。
その時だった。
カサリ、と。
静寂に沈んでいた地下牢の回廊から、衣擦れの音が微かに響いた。
看守の重々しい鉄靴の音ではない。
音もなく忍び寄る、夜獣のような研ぎ澄まされた足音。
エレナは強張る身体を微かに起こし、薄暗い格子の向こうへと視線を向けた。
回廊の壁に掲げられた松明の炎が、不自然に揺らめいている。
普段なら詰所にいるはずの看守たちの声は一切聞こえない。
死のような静寂の中、足音は一直線に第七独房の前へと近づいてきた。
闇の帳を割り、青白い月光の帯へと足を踏み入れたのは――。
漆黒の甲冑を纏った、長身の影だった。
濡れ羽色のマントを翻し、彫刻のように整った美貌に夜の陰影を落とした男。
レオンハルト・ヴァルク。
「……あ……」
エレナの喉が小さく痙攣した。
幻ではない。
現実の男が、そこに立っていた。
彼の手には、見張りから奪い取ったのであろう巨大な鉄の鍵束が握られていた。
黒革の手袋に包まれた指先が鍵を選び出し、独房の重厚な鍵穴へと差し込まれる。
ギィ……と、錆びついた鉄が悲鳴を上げ、重い格子扉がゆっくりと内側へ押し開かれた。
男は無言のまま牢内へと踏み込み、エレナの三歩手前で足を止めた。
松明の赤黒い光と、細い月光が交差する薄闇の中で、彼の氷藍の瞳がエレナの姿を捉える。
床に倒れ伏し、唇を紫色に変色させ、震えを止めることのできない聖女の哀れな姿を。
「……なぜ」
エレナは床に手をつき、冷たい石壁に背中を擦りつけながら、絞り出すような声で問いかけた。
「なぜ、ここへ来たのですか……ヴァルク団長」
憎しみを込めようとした声は、あまりの寒さと疲労で無様に震えていた。
エレナは顔を背け、彼を見上げようとはしなかった。
「私をあざ笑いに来たのですか? 大聖堂で魔女として断罪され、冷たい地下牢に転がされた哀れな元聖女の姿を……出世の祝杯の肴として、検分しに来たというのですか」
突き刺すような拒絶の言葉。
だが、レオンハルトは何も言い返さなかった。
彼は無表情のまま、甲冑を擦り合わせる金属音を響かせてエレナの前へと跪いた。
「立て、エレナ」
低く、硬質な声だった。
彼は腰の革袋から、細い銀の針のような器具――魔導具の鍵を取り出すと、エレナの手首に嵌められた神聖銀の枷へと手を伸ばした。
「触らないで……!」
エレナは激しく身をよじり、両手を胸元へと引き寄せた。
手首の銀鎖がジャラリと耳障りな音を立てる。
「何の真似ですか! 私をどうするつもりなの! 今度は別の審問所へ連れて行って、爪でも剥がす気ですか!? 殿下の忠実な猟犬として、私の口を封じるために……ッ!」
「黙れ!」
レオンハルトの低い怒号が、狭い石牢の壁を打った。
エレナの息が呑まれる。
男の顔には、大聖堂で見せた冷徹な仮面はどこにもなかった。
氷藍の瞳は、激しい怒りと焦燥、そして引き裂かれるような苦痛によって激しく揺れ動いていた。
額には冷汗が滲み、引き結ばれた唇からは荒い熱い息が漏れている。
「看守は調合香で眠らせた。だが、交代の見回りが来るまで半刻もない。無駄口を叩いている時間はないんだ」
レオンハルトは躊躇することなく、エレナの細い手首を掴んだ。
黒。
上質な仔牛の革で作られた長手袋が、エレナの冷え切った皮膚を布地越しに強く圧迫する。
「嫌……放して! 私はどこへも行かない!」
「エレナ!」
「なぜあなたに従わなければならないの!? 昼間、あんなにも冷たい刃を私の首に突きつけておいて! 抵抗すれば手足を斬り落とすと、大勢の前で私を脅したあなたが……今さら、何の用だというのよ!!」
感情の堤防が、音を立てて決壊した。
十年間、神の妻として押し殺してきたすべての理性が吹き飛び、エレナは涙をボロボロと溢れさせながら叫んでいた。
「出世のために私を売ったのでしょう!? スラムの孤児が騎士団長へ登り詰めるための、都合のいい踏み台にしたのでしょう!? それなら最後まで冷酷に貫きなさいよ! なぜ今さら、そんな……そんな眼をして私を見るのよ……ッ!」
涙が頬を濡らし、顎をつたって冷たい石床へと落ちていく。
信じたかったからこそ、痛かった。
誰よりも信じたかった幼なじみに刃を向けられた絶望が、エレナの心を千々に引き裂いていたのだ。
エレナの叫びを聞いた瞬間、レオンハルトの全身が、殴りつけられたかのように硬直した。
「……売った、だと?」
掠れた、地を這うような呟きが男の喉から漏れた。
彼の手袋を嵌めた指先が、ギリ、と音を立ててエレナの手首を締め上げる。
「俺が……貴女を出世のために売っただと?」
「そうでしょう!? 殿下に忠誠を誓い、私を捕縛して……!」
「ふざけるなッ!!」
怒声とともに、レオンハルトの屈強な身体がエレナを押し包むように迫った。
ドスン、とエレナの背中が再び石壁に押し付けられる。
逃げ場のない狭隘な空間。
レオンハルトはエレナの両手首を纏めて自らの左手で壁に縫い止め、空いた右手をエレナの顔の真横の壁へと叩きつけた。
激しい振動。
目の前にある男の顔は、あまりの激昂に蒼白になっていた。
「俺が、貴女以外の誰のために、この泥水をすすってきたと思っている!!」
魂を絞り出すような咆哮だった。
男の瞳から、大粒の熱いものが零れ落ち、エレナの頬へと落ちた。
涙――。
あの冷酷無比と恐れられた黒曜騎士団長の目から、透明な雫が零れ落ちていた。
エレナの思考が、真っ白に染まった。
「あの祭壇で……親衛隊の豚どもが貴女に手を伸ばそうとしていたのが見えなかったのか!」
レオンハルトは歯の根をガチガチと震わせながら、エレナの顔のわずか数寸の距離で叫んだ。
「あいつらは最初から、貴女をその場で衣服ごと切り裂き、辱め、魔力を強制抽出して廃人にする腹積もりだったんだ! 神殿の裏工作を嗅ぎ回っていた俺が、それを知らなかったとでも思うか!?」
「え……」
「俺が抜刀するしかなかったんだよ……! 俺が執行者として貴女を捕縛しなければ、貴女はあの場で殺されていた! 抵抗の余地を奪い、俺の権限でこの地下牢へ隔離するしか、貴女の命を今夜まで繋ぎ止める術がなかったんだ!!」
痛烈な真実が、雷鳴のようにエレナの胸を撃ち抜いた。
あの切先。
喉元を狙った、寸分の狂いもない冷徹な間合い。
それはエレナを脅迫するためではなく、周囲の親衛隊や神官たちに「黒曜騎士団長が完全に支配下に置いた」と信じ込ませ、誰も手出しをさせないための、絶対の結界だったのだ。
「……レオン……」
「十年前から……俺の中には、貴女しかいなかった」
レオンハルトの声が、急激に掠れ、震えを帯びて崩れていく。
彼は額を、エレナの肩口――冷え切った聖衣の布地へと押し当てた。
巨躯を小さく丸め、まるで幼子の泣きじゃくるように、男の背中が激しく波打っていた。
「神殿の馬車に貴女が連れ去られたあの日から……俺の時間は止まったままだ。貴女を奪い返す力欲しさに、剣を握り、人を殺し、貴族の靴の裏を舐め、どんな泥水も飲み干してきた。……騎士団長の地位など、神殿の奥深くにいる貴女へ近づくための鍵に過ぎない。そんなもの、貴女の命の爪の垢ほどの価値もないんだよ……ッ!」
「あ……ああ……」
胸が、張り裂けそうだった。
どれほどの孤独の中で、この男は生きてきたのか。
出世欲と蔑まれ、神殿の冷酷な猟犬と恐れられ、全世界から忌み嫌われながら――ただ一人、十年前のスラムで別れた少女を救い出すためだけに、命を削り続けてきたのだ。
エレナの心臓の奥底で、神聖誓約がチリチリと熱を帯びていた。
だが、その呪縛の痛みを遥かに超える激しい愛おしさと悔恨が、エレナの胸を灼き尽くしていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい、レオン……! 私、何も知らずに……あなたに酷いことを……!」
拘束されたままの手を震わせ、エレナは彼の手袋に包まれた指先へと自らの指を重ねようとした。
けれど、レオンハルトはハッと我に返ったように顔を上げ、自ら身を引いた。
「……触れるな」
掠れた声で拒絶しながらも、その瞳には狂おしいほどの慈しみが宿っていた。
彼は黒革の手袋を噛み締め、荒い呼吸を整えると、素早く解呪の銀針をエレナの手首の枷へと差し込んだ。
カチリ、と硬質な音が響く。
魔力を吸い上げ続けていた神聖銀の枷が、左右へと弾け飛び、重い音を立てて床へと転がった。
「っ……あ……」
魔力の逆流と、解放された血流の熱さに、エレナは小さく息を呑んだ。
露わになったエレナの手首には、分厚い枷によって擦り切れた赤い鬱血の痕が生々しく刻まれていた。
レオンハルトの瞳に、激しい痛罵の色が走る。
彼は黒革の手袋を嵌めた指先で、壊れ物を慈しむように、その痛々しい手首の傷の周囲をそっと撫でた。
革の冷たい感触の奥から、男の狂おしいほどの熱が伝わってくる。
「……すまない。痛かっただろう」
「ううん……痛く、ないわ……」
エレナは首を振った。涙で滲んだ視界の中で、かつて泥だらけの手で黒パンを分けてくれた少年の面影が、目の前の騎士の姿と完全に重なり合っていた。
レオンハルトは自らの漆黒のマントを外すと、冷え切ったエレナの華奢な肩を包み込むように羽織らせた。
彼の体温と、かすかな煙草と鉄の匂いがエレナを包み込み、凍りついていた感覚が急速に温められていく。
「立てるか」
「ええ……あなたとなら、どこへでも」
エレナは迷うことなく頷いた。
神の妻としての戒律も、聖女の誇りも、もうどうでもよかった。
この男の手を取り、地獄の果てまで逃げ延びる――それが、エレナが十年の檻の果てに見出した、唯一の真実だった。
レオンハルトが力強く頷き、エレナの腰を抱き寄せて立ち上がらせた。
足枷を外すため、彼が再び身をかがめた、その瞬間だった。
――ドォォォンッ!!
雷鳴のような轟音が、地下牢の回廊全体を揺るがした。
「なっ……!?」
レオンハルトが即座に身を翻し、エレナを自らの背後へと庇いながら腰の剣の柄に手をかけた。
地下の静寂は、一瞬にして無数の足音と怒号によって叩き割られた。
回廊の奥から、壁を照らす赤黒い松明の光が、数十、数百と急速に増殖しながら押し寄せてくる。
重厚な甲冑が擦れ合う凄まじい金属音。そして、冷徹な拍手の音が、狭い回廊にパチパチと響き渡った。
「――実に見事な茶番劇だったよ、ヴァルク団長」
闇の向こうから現れたのは、黄金の刺繍を施した豪奢な軍服を纏った男――王太子ユリシーズだった。
その背後には、抜き身の長槍を構えた神殿親衛隊の精鋭たちが、二重三重に回廊を隙間なく埋め尽くしている。
ユリシーズの琥珀色の瞳は、獲物を罠に追い詰めた蜘蛛のように、残酷な歓喜に細められていた。
「忠実な猟犬を装いながら、夜陰に乗じて魔女の手引きとはね。……貴様がネズミのように動くことは、最初からすべてお見通しだったのだよ」
絶望の包囲網が、二人の逃路を完全に塞いでいた。




