騎士の切断
「手足を斬り落としても構わん」
王太子ユリシーズが吐き捨てたその冷酷な宣告は、高いドーム天井に反響し、大聖堂の隅々まで染み渡っていった。
群衆のざわめきが、歓声に近い熱狂へと変わる。
「やれ!」
「薄汚れた魔女を捕らえろ!」
「神殿から穢れを叩き出せ!」
貴族たちや下級神官たちの罵詈雑言が、まるで実体を持った石の雨のように、祭壇の上に跪くエレナへと降り注ぐ。
つい先刻まで「聖女様」と拝んでいた者たちの顔は、醜悪な恐怖と優越感に歪みきっていた。
エレナは、裂けた左腕の聖衣の袖を握りしめたまま、微動だにできなかった。
二の腕から手首にかけて脈打つ、醜い紫黒の侵食斑。
毒の熱と、冷え切った大理石の床の寒暖差で、全身が激しく痙攣している。
(逃げられない……)
五日間の絶食で、立ち上がる力すら残されていない。
だが、肉体の衰弱以上に、エレナの胸を鋭い錐で穿っていたのは、群衆の向こうに立つ黒曜騎士団長の姿だった。
――黒曜騎士団長、レオンハルト・ヴァルク。
貴様の手で捕縛せよ。
ユリシーズの命令を受け、男の長身が、ゆっくりと動いた。
カツン、と。
磨き抜かれた黒鉄の拍車が、静まり返る祭壇の階段を一段、踏みしめる。
耳障りなほど規則正しい、鋼の擦れ合う音。
「……あ……」
エレナの喉から、かすれた息が漏れた。
歩み寄ってくる。
漆黒の甲冑、濡れ羽色のマントを冷ややかに翻し、感情の欠片も宿さない氷藍の瞳を真っ直ぐにこちらへ向けたまま。
(嘘でしょう、レオン……?)
二日前、夜の回廊で壁に押しつけられたときの熱。
『神が貴女を搾取し、殺そうとするなら、俺は神殿を焼き払ってでも貴女を連れ出す』
『貴女を奪うためだけに、この十年生きてきた』
狂おしいまでの執着を込め、耳元で囁いてくれたあの言葉は、すべて幻だったのか。
それとも――。
いざ自らの破滅が目の前に迫ったとき、彼は冷静に計算し直したのだろうか。
たかが壊れかけの聖女一人のために、血反吐を吐いて手に入れた騎士団長の地位を捨てるなど割に合わないと。
ここで自分を差し出し、王太子への絶対の忠誠を示せば、彼の地位はより盤石なものになるのだから。
「ヴァルク団長、何をグズグズしている!」
ユリシーズが嘲笑を交えて急き立てる。
「抵抗するようなら、まずはその穢れた左腕を切り落とせ。代償だの何だのと見苦しい言い訳を吐く舌を抜いても構わんぞ」
「……はっ」
レオンハルトは立ち止まり、王太子へ向けて微塵の乱れもない完璧な騎士の礼を執った。
その無機質な返答に、エレナの心臓が凍りつく。
彼は再び顔を上げ、祭壇の最上段、エレナのわずか三歩手前まで間合いを詰めた。
見上げるほど高い体躯が、大聖堂のステンドグラスの光を遮り、エレナの頭上に巨大な夜の影を落とす。
シュリン――ッ。
澄んだ、残酷な金属音が堂内に響き渡った。
レオンハルトが腰の鞘から、神殿直属の執行剣を引き抜いた音だった。
光を鈍く反射する漆黒の片刃剣。
数多の罪人を処刑台へと送ってきたその冷徹な切先が、空気を切り裂き、滑らかな軌道を描いて――。
ピタリと、エレナの白く細い喉仏の、わずか数ミリの皮一枚のところで静止した。
「ひっ……!」
周囲の侍女たちから短い悲鳴が上がる。
冷たい。
刃から放たれる凍てつくような殺気が、エレナの喉元の皮膚をチリチリと粟立たせる。
唾を飲み込めば、それだけで皮膚が裂けて血が滲みそうなほどの、完璧で容赦のない切先の間合い。
「……レオン……」
無意識に唇が動いた。
声にはならなかった。
ただ唇の形だけで、縋るように紡がれた幼き日の名。
だが、男の瞳は微動だにしなかった。
氷藍の瞳は、まるで路傍の石ころでも見るかのように冷徹で、底知れぬ暗闇に塗りつぶされていた。
感情の揺らぎなど、分子の隙間ほども見当たらない。
「――抵抗は無駄です、罪人エレナ」
鋼が擦れ合うような、低く硬質な声が喉元から降ってきた。
かつて泥だらけの手で黒パンを分けてくれた少年。
夜の寝室で手袋越しに薬を飲ませてくれた男。
その面影は、いま目の前で冷酷に切先を突きつける執行者の中に、一片たりとも見出すことはできなかった。
「身動き一つでもしてみろ。王太子殿下の仰せ通り、その四肢を切り刻んでから引きずって行くことになるぞ」
痛烈なまでの、刃の言葉。
エレナの瞳から、すっと光が消えた。
(ああ……そうか)
胸の奥で、何かがパリンと音を立てて砕け散った。
信じたかったのだ。
全世界が敵に回っても、神殿のすべてが欺瞞に満ちていても、彼だけは自分を見てくれていると。
あの幼い日の約束は、泥水の中で光る真実だったのだと。
けれど、現実はこれだ。
彼は神殿の忠実な猟犬。
王家の走狗。
自分は、ただ都合よく処分されるだけの生贄。
胸の奥の神聖誓約が、ズキリと鈍い熱痛を放った。
けれど、その呪いの痛みすら、裏切られた絶望の深さに比べれば、微風のようなものだった。
「……ふふ……」
乾いた、自嘲の笑いがエレナの唇から零れた。
恐怖は、もう消えていた。
ただ、果てしない虚無と冷気が、全身の血管を満たしていく。
「……ええ。お見事です、ヴァルク団長」
エレナは喉元の刃を恐れることもなく、ゆっくりと顎を上げた。
白銀の乱れた髪の隙間から、透き通るような紫水晶の瞳で、冷徹な騎士の目を真っ向から見据え返す。
その瞳には、一筋の涙も、命乞いの色もなかった。
「抵抗などいたしません。……連行なさい」
エレナは静かに、両の手首を揃えて前へと差し出した。
骨と皮ばかりに痩せ細った、痛々しい手首。
切り裂かれた左袖からは、紫黒の侵食斑が毒々しく覗いている。
レオンハルトの顎の筋肉が、ほんの一瞬、極限まで硬く引き攣った。
切先が、ミリ単位で微かに震えたように見えた。
だが、それはあまりにも微小で、固唾を呑んで見守る群衆の誰一人として気づく者はいなかった。
「……神聖銀の枷を」
レオンハルトは剣を鞘へと戻すことなく、左手だけで背後の配下へと命じた。
控えていた二人の黒曜騎士が駆け上がり、魔力を封じる重厚な銀の鎖と手枷を差し出す。
カチャリ、と重い金属音が鳴り、エレナの細い手首に冷たい銀の輪が嵌められた。
魔力を封じる呪詛が刻まれたその枷が閉じられた瞬間、エレナの体内に残っていたわずかな聖気が強引に遮断され、全身の力が抜け落ちた。
「きゃっ……」
支えを失った膝が崩れ、エレナの身体が前のめりに倒れ込む。
硬い大理石の床に顔面から激突する――そう直感した刹那。
ガシャン、と鈍い音が響いた。
倒れ込むエレナの身体を、黒曜の甲冑が正面から受け止めていた。
レオンハルトだった。
彼は抜刀した剣を持たない左腕を回し、床に倒れそうになったエレナの華奢な肩を、強引に抱きとめていたのだ。
(え……?)
息が止まった。
鼻腔を突く、彼特有の冷たい鉄と革の匂い。
彼の胸当ての冷酷な硬さと、その奥から伝わってくる、尋常ではない速度で激しく脈打つ心音。
トクン、トクン、トクン――と。
まるで、いまにも破裂しそうなほど狂おしく波打つ、男の心臓の音。
「立て」
耳元に吹き付けられた低音は、怒気に満ちているように聞こえた。
だが、エレナを抱き起こす黒革の手袋の指先は、決して素肌の侵食斑には触れず、布地の上から、壊れやすいガラス細工を扱うような異常なまでの慎重さで彼女の身体を支えていた。
「自力で歩け。床を這えば、それだけ貴女の尊厳が削られる」
囁かれた言葉の真意を計りかねて、エレナが瞠目した瞬間、レオンハルトは無情にもその腕を解き、エレナの枷の鎖を乱暴に引っ張った。
ジャラリ、と重い銀鎖が鳴る。
「連行する! 魔女エレナを地下審問所・最下層の独房へ収容せよ!」
レオンハルトの怒号が大聖堂に轟いた。
その毅然とした、無慈悲な執行者の態度に、会衆席の貴族たちから惜しみない拍手と喝采が湧き起こる。
「素晴らしいぞ、ヴァルク団長!」
「さすがは神殿の黒曜石! 情け容赦のない見事な手際だ!」
壇上のユリシーズが、満足げに口端を吊り上げ、扇子を優雅に揺らした。
「よくやった、ヴァルク。その魔女の身柄、貴様に一任する。神殿長老会による異端審問の開廷まで、決して逃がすことのないよう厳重に監視せよ」
「はっ。命に代えましても」
レオンハルトは冷徹に一礼し、鎖を引いてエレナを促した。
エレナはよろめきながら、重い足枷を引きずるように歩き出す。
通り過ぎる際、カテリーナが嘲笑を浮かべてエレナの耳元に身を寄せた。
香水の甘ったるい匂いが鼻を突く。
「さようなら、可哀想なエレナ様。地下牢のネズミたちと、せいぜい仲良くお祈りなさることね。ふふ……あなたの代わりの光は、この私が完璧に務めて差し上げますから」
エレナは何も答えなかった。
侮蔑の言葉など、もはや耳には届かなかった。
ただ、自らを引いていく漆黒の背中だけを、霞む視界で見つめ続けていた。
*
大聖堂を抜け、神殿の奥深くへと続く長い回廊。
外の喧騒が次第に遠ざかり、代わりに湿り気を帯びた冷気が肌を刺し始める。
案内役の神官たちを先頭に、エレナはレオンハルトの部下たちに前後を挟まれて歩かされていた。
階段を下りる。
一段、また一段と。
地上の光が届かなくなり、壁の松明の煤けた炎だけが、暗い石壁を赤黒く照らし出す。
神殿の地下牢。
過去に神の教義に背いた異端者、あるいは神殿の秘密を知りすぎた者が送られ、生きて二度と陽の光を見ることのなかった「忘却の奈落」。
「……開けろ」
最下層の鉄扉の前で、レオンハルトが低く命じた。
看守が震える手で巨大な真鍮の鍵を差し込み、軋んだ音を立てて重い格子扉が開け放たれる。
湿ったカビと埃の匂いが立ち込める、三畳ほどの狭い独房。
窓などどこにもない。
あるのは、冷たい石の床と、壁から生えた錆びついた鉄の鎖だけだった。
「入れ」
背中をドンと押され、エレナは冷たい石床の上へと倒れ込んだ。
擦りむけた膝の痛みに顔をしかめる間もなく、背後でガシャンと重々しい音を立てて鉄格子が閉ざされる。
看守たちが鍵を回し、神官たちがエレナを忌々しそうに見下ろしながら唾を吐き捨てて立ち去っていく。
「魔女めが」
「神の慈悲を無駄にしおって」
足音が遠ざかり、地下の静寂が再びその場を支配した。
だが――。
鉄格子の向こう側に、一人だけ残った影があった。
松明の赤黒い光に照らされた、黒曜の甲冑。
レオンハルトは、部下たちを回廊の待機所へと下がらせた後、一人きりで格子の前に立ち尽くしていた。
エレナは床に座り込んだまま、冷たい格子の隙間から彼を見上げた。
手首の銀の枷が、ずしりと重い。
「……満足なさったかしら、ヴァルク団長」
掠れた、刺々しい声がエレナの喉から絞り出された。
「殿下のお引き立てを受けて、さぞやご出世なさることでしょうね。……かつてスラムで共に飢えていた幼なじみを、自らの剣で捕らえて地下牢に叩き落とした功績は、神殿の歴史に永く刻まれることでしょう」
冷笑を浮かべ、彼を拒絶するように言葉をぶつける。
そうでもしなければ、胸の奥底で渦巻く絶望と悲しみに押し潰されてしまいそうだったからだ。
だが、レオンハルトは何も言い返さなかった。
侮蔑の笑みを浮かべることも、冷淡に罵ることもない。
彼はただ、鉄格子に黒革の手袋を嵌めた両手をかけた。
ギリッ、と革と錆びた鉄が軋む音が鳴る。
薄暗い松明の光が、鉄格子の影を彼の顔に落としていた。
その隙間から覗く氷藍の瞳は――先ほど大聖堂で見せた冷酷さなど微塵もなく、まるで心臓を素手で握り潰されているかのような、痛切な苦悶に歪んでいた。
「……レオン……?」
エレナの息が止まる。
その表情は、十年前、神殿の馬車に引き裂かれるエレナを前に、泥の中に組み伏せられていた少年の顔そのものだった。
「……あいつらに、触れさせるわけにはいかなかった」
掠れた、低く震える声が、格子の隙間から漏れ出た。
「あの場で、親衛隊の奴らに貴女を渡せば……あいつらは貴女の衣服を剥ぎ、その場で魔力摘出の激痛を加えていただろう。……俺の手で捕縛するしか、貴女を生かしてここへ運ぶ方法はなかった」
「え……?」
「待っていろ」
レオンハルトは額を冷たい鉄格子に押し当てるようにして、低く、切迫した息を吐き出した。
「今夜、必ず戻る。……この鍵を叩き折り、貴女を連れ出す。何があっても、俺の手で」
「レオンハルト様……待って、何を……!」
エレナの制止の声に答えることなく、レオンハルトは漆黒のマントを翻し、暗闇の奥へと足早に去っていった。
遠ざかる重厚な足音。
地下牢の絶対の暗闇の中、エレナは一人、冷たい床の上に残された。
首筋に残る、あの研ぎ澄まされた刃の冷たさと。
そして、倒れ込んだ一瞬に感じた、彼の狂おしいほど激しい心臓の鼓動を思い出しながら。




