穢れの告発
大聖堂「至聖所」の天蓋から降り注ぐ光は、無慈悲なまでに白く、眩かった。
ステンドグラスに彫られた極彩色の聖人たちが、大理石の床に歪んだ影を落としている。
パイプオルガンの荘厳な重低音が堂内を震わせ、何百本もの白蝋燭から立ち上る甘い乳香の煙が、息苦しいほどに立ち込めていた。
本日は、新聖女カテリーナの民への御披露目と、十日後に迫った「北方結界への全魔力奉納」を神へ言祝ぐための合同祈祷会。
大聖堂の左右の会衆席は、金銀の糸を惜しみなく縫い込んだ豪奢な礼服や豪壮なドレスを纏った貴族たち、そして最高位の純白の法衣をまとった神官団で埋め尽くされていた。
祭壇の中央、豪奢な金糸の天蓋の下に、エレナは跪いていた。
(身体が……重い……)
五日間にわたる断食祈祷は、エレナの華奢な肉体から確実に生命力を削ぎ落としていた。
胃は引きつるように空虚で、大理石の冷たさが膝の骨を芯から凍らせる。
白銀の聖衣の長袖の下、左腕の肌に刻まれた紫黒の侵食斑が、まるで生き物のように皮膚の下で蠢き、鈍い疼きを放っていた。
――今夜、連れ出す。
二日前の夜、冷たい回廊の壁際でレオンハルトが吐き捨てた、あの狂おしい言葉が耳の奥で何度も蘇る。
手袋越しに首筋へ迫った熱。神をも恐れぬ、破滅的な執着の眼差し。
(本当に……逃げていいのだろうか)
神の妻として死ぬことだけが、己の存在意義だと信じ込んできた。
けれど、レオンハルトの瞳を見た瞬間から、エレナの胸の奥底で消えかけていた「生きたい」という醜くも甘美な我欲が、泥の中から芽吹くように疼き始めていたのだ。
彼の手を取れば、神聖誓約に背き、全世界を敵に回す逃亡者となる。
彼を泥沼の反逆へと引きずり落とすことになる。
それでも――彼と共に生きたいと願ってしまう己の罪深さに、エレナは胸元を掻きむしりたかった。
ふと視線を落とすと、祭壇の下段、会衆席との境界に立つ黒い影が視界に入った。
漆黒の甲冑を纏い、片刃剣の柄に黒革の手袋を置いたまま微動だにしない男――レオンハルト。
大聖堂の警備責任者として立つ彼の横顔は、彫刻のように冷たく無機質だった。
だが、エレナが視線を向けたその一瞬、彼の氷藍の瞳がわずかに動き、エレナの顔を鋭く射抜いた。
「持ち堪えろ」
声には出さず、視線だけで放たれた無言の命令。
その瞳の奥に宿る揺るぎない覚悟に触れ、エレナは震える指先を聖衣の中でギュッと握りしめた。
あと半日。この祈祷会を耐え抜き、夜を迎えさえすれば――。
だが、その儚い希望は、甘美な毒を含んだ鈴のような笑い声によって打ち砕かれた。
「――皆様、これより、二人の聖女による『光の調和の儀』を執り行いますわ」
祭壇の反対側から、カテリーナ・フォン・ベルリッツが優雅に進み出た。
陽光を浴びて黄金に輝く巻き髪。
幾重にも重ねられた最高級の絹とレース、胸元には拳ほどもある大粒のエメラルドが揺れている。
健康的な薔薇色の頬に完璧な淑女の笑みを浮かべたその姿は、憔悴しきったエレナとはあまりにも対照的な「現世の栄華」そのものだった。
会衆席の貴族たちから、吐息のような賛美が漏れる。
「おお、なんと眩い……」
「これぞ我らが仰ぐべき真の光だ」
カテリーナは満足げに目を細めると、跪くエレナの前へと歩み寄ってきた。
その青い瞳の底に潜む、冷酷な嗜虐の光を、エレナは見逃さなかった。
「エレナ様。新旧の聖女が手を携え、祭壇の聖火へ祈りを捧げることこそ、神がお望みになる調和の形。……さあ、御手をお取りになって」
カテリーナが、純白のレースの手袋に包まれた両手を差し伸べてくる。
エレナの背筋に、冷たい悪寒が走った。
胸の奥で、神聖誓約とは異なる、生存本能の警鐘が乱打される。
何かがある。
この女の笑顔の裏に、底知れぬ悪意が仕組まれている。
「……恐れながら、カテリーナ様。私は現在、断食祈祷の途上にある身。穢れなき貴女の光を損なわぬよう、接触を伴う儀式は控えるべきかと存じます」
エレナは慎重に言葉を選び、頭を垂れて辞退を申し出た。
だが、会衆席の最前列に座る王太子ユリシーズが、低く通る声で厳かに言葉を挟んだ。
「遠慮はいらぬ、エレナ。民と神官たちに、新旧の聖女の絆を示すことは、王家の安寧にとっても不可欠な儀礼だ。カテリーナの手を取り、共に祈りを捧げよ」
絶対の命令だった。
逆らえば、その場で儀礼冒涜の咎を受ける。
エレナは唇を噛み、ゆっくりと立ち上がった。
ふらつく足元を必死に踏みしめ、白い絹の手袋を嵌めた自らの右手を、カテリーナの手へと伸ばす。
その時だった。
カテリーナの口端が、誰にも見えない角度で、三日月のように歪んだ。
「――お可哀想に。そんなに震えて……私が支えてさしあげますわ!」
甘ったるい叫び声とともに、カテリーナが故意に足をもつれさせ、エレナの懐へと倒れ込んできたのだ。
「え……っ!?」
咄嗟に身を引こうとしたエレナの左腕を、カテリーナの手が蛇のように絡め取った。
痛烈な力だった。
華奢な令嬢のそれとは思えない、明確な殺意を込めた握力。
そして――ジャッ、と。
耳障りな金属の擦過音が、静まり返った大聖堂に小さく響いた。
カテリーナの指輪の裏に仕込まれていた、極薄の剃刀の刃。
それが、エレナの左腕の聖衣を、肩口から手首にかけて一気に切り裂いたのだ。
「何を――っ!」
「きゃあああっ! な、何ですの、これは――っ!?」
エレナの叫びを、カテリーナの計算され尽くした悲鳴が掻き消した。
カテリーナは大袈裟に祭壇の床へと転がり、震える指でエレナの左腕を指差した。
ビリリ、と音を立てて裂けた聖衣の袖が、無残に床へと滑り落ちる。
隠されていたもの。
十年もの間、エレナが命を削って他者から引き受け、一人で耐え続けてきた「代償治癒」のすべてが――陽光の下に、白日の下に晒された。
「……あ……っ」
エレナの血の気が、完全に引いた。
透き通るような白い肌を、醜悪に侵食する紫黒の斑紋。
二の腕から肘、そして手首の近くまで、まるで毒蜘蛛の巣のように血管が黒く膨れ上がり、皮膚の下でドクドクと禍々しい脈動を打っている。
そこから立ち上る、かすかな魔獣の瘴気と腐敗の匂い。
大聖堂を埋め尽くしていた数千人の群衆が、一瞬にして凍りついた。
静寂。
息を呑む音すら聞こえない、死のような沈黙。
そして、その沈黙を切り裂いたのは、カテリーナの狂気じみた絶叫だった。
「魔女……! 聖女の皮を被った、穢れの魔女ですわ――っ!!」
悲鳴が、ドーム状の大聖堂の天井に反響する。
「見なさい、あの忌まわしい腕を! 魔獣の呪毒をその身に宿し、神聖なる大聖堂を汚していたのです! 神の妻などというのは真っ赤な嘘……あの女は、神聖力を失い、魔獣の瘴気に魂を売り渡した異端者ですわ!」
ざわめきが、一瞬で狂乱の怒号へと変わった。
「な、なんだあの腕は……!」
「あんな禍々しいものが、聖女であるはずがない!」
「魔女だ! 我らを騙していたのか!」
「穢れを祓え! 神殿から叩き出せ!」
会衆席の貴族たちが立ち上がり、恐怖と嫌悪に顔を歪めて罵声を浴びせかけてくる。
つい数日前まで、エレナの奇跡に涙を流し、足元に平伏していた者たちが、今は汚物を見るような目でエレナを指弾していた。
「ち、違います……!」
エレナは剥き出しになった左腕を右腕で必死に抱きかかえ、震える声で叫んだ。
「これは、魔術などではありません! 代償なのです! 国境で魔獣の毒に倒れた兵士たちを救うため、私が引き受けた……!」
「見苦しい言い訳をおやめなさい!」
大司教が立ち上がり、黄金の杖を床に激しく叩きつけた。
「神聖なる奇跡に、そのような醜悪な穢れが生じる道理がない! 神の恩寵は無垢にして清浄! そのような呪われた肉体を持つ者を、神の妻と認めるわけにはいかぬ!」
神官長も、長老たちも、冷酷な瞳でエレナを見下ろしていた。
彼らは知っているのだ。
代償治癒の真実を。
エレナが彼らの権威と保身のために、泥をすすり、毒を引き受け続けてきたことを、最初から知っていたのだ。
だが、今ここで真実を認めれば、神殿の欺瞞が暴かれる。
だからこそ彼らは、エレナ一人にすべての罪を着せ、切り捨てることを選んだ。
(ああ……最初から、仕組まれていた……)
エレナの膝から、力が抜けていく。
助けを求めるように視線を巡らせた先、玉座の前で腕を組む王太子ユリシーズの姿があった。
彼の琥珀色の瞳には、冷徹な勝利の光が宿っていた。
口端に浮かぶ薄笑いが、すべてが彼の描いた筋書き通りであることを物語っていた。
ユリシーズはゆっくりと立ち上がり、右手を高く掲げた。
その厳かな所作に、大聖堂の怒号が静まり返る。
「静粛に」
氷のように冷たい声が、堂内を支配した。
「信じがたいことだが……事実は明白である。初代聖女の再来と謳われたエレナは、神聖力を喪失し、あまつさえ魔獣の瘴気を体内に匿う異端へと堕ちていた。このような穢れた肉体を、北方結界の神聖なる核へ捧げることなど、神への冒涜に他ならぬ」
ユリシーズは冷酷な宣告を下した。
「エレナ・アルスティア。貴様から聖女の位を剥奪し、異端審問にかけることをここに宣言する。……即刻、捕縛せよ!」
異端審問。
それは、神殿の地下深くで生きたまま肉を削がれ、爪を剥がれ、最後は火刑台で灰にされる、絶対の死を意味する言葉だった。
「神よ……」
エレナの瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
十年の献身。
身を削り、痛みに耐え、誰にも愛されず、誰も愛さず、ただ神と民のために生きてきた日々の結末が、この魔女としての断罪だったのか。
絶望の淵で、エレナの脳裏をよぎったのは、たった一つの漆黒の影だった。
(レオン……逃げて……)
今夜の脱出計画など、もう成立しない。
ここにいる衛兵のすべて、神殿のすべての刃が、エレナを標的として動いている。
もし彼がここで自分を庇えば、確実に反逆者としてその場で八つ裂きにされる。
祈るような思いで、エレナは群衆の向こう、黒曜の甲冑を纏う男へと視線を向けた。
レオンハルトは、立っていた。
微動だにせず、ただ真っ直ぐにエレナを見つめていた。
その彫刻のような美貌は、完璧な無表情だった。
だが、その氷藍の瞳の奥底で――地獄の底よりも昏く、恐ろしい業火が、音を立てて燃え盛っているのを、エレナは見た。
彼の黒革の手袋に包まれた右手が、腰の片刃剣の柄へと伸びていく。
親指が、銀の鍔をミリ単位で弾いた。
カチリ、と。
怒号に満ちた大聖堂の中で、その微かな抜刀の予兆音だけが、エレナの鼓膜に信じられないほど鮮明に響いた。
(だめ……抜いてはだめ、レオン……!)
エレナは絶望に顔を歪め、群衆に隠れるように小さく首を横に振った。
私を庇えば、あなたが死ぬ。
あなたの十年が、すべて灰になってしまう。
ユリシーズの冷酷な声が、再び大聖堂に響き渡った。
「――黒曜騎士団長、レオンハルト・ヴァルク!」
指名されたレオンハルトの長身が、微かに揺れた。
「貴様の手で、その薄汚れた魔女を捕縛せよ。抵抗するならば……手足を斬り落としても構わん!」
王太子の非情な命令が、二人の間に横たわる運命の断絶を告げるように、大聖堂の静寂を叩き割った。




