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背徳の檻に咲く白銀 ~神の妻となった聖女は、冷酷な守護騎士の偽りの刃に抱かれる~  作者: 白狸
【第1章】欺瞞の黒革と背徳の誓約 ~神の檻を灼く白銀の夜明け~
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届かぬ警告

王宮謁見から三日が過ぎ、大神殿の空気は完全に変貌していた。


昼間の中庭は、新任の「光の聖女」カテリーナを讃える貴族や豪商たちからの献上品と薔薇の花束で埋め尽くされていた。


金色の髪を靡かせ、宝石を散りばめたドレスで微笑むカテリーナの周囲には、媚びへつらう神官たちが群がり、その贅沢な笑い声が白銀宮の回廊にまで響いてくる。


一方で、エレナに与えられたのは「浄化の檻」だった。


新月の夜に行われる北方結界への全魔力奉納――その儀礼を前に、神殿長老会はエレナに対し、一切の食事を絶ち、冷たい礼拝堂で神への祈りを捧げ続ける『清めの断食祈祷』を命じたのだ。


「神の礎となる身を清めるため」という美名のもと、実態はエレナの抵抗力を奪い、都合よく祭壇で息絶えさせるための軟禁に他ならなかった。


(冷たい……)


深夜の回廊を、エレナは壁に指先を這わせながら歩いていた。


礼拝堂の冷たい石床に半日以上跪かされ、感覚のなくなった膝が震える。


三日間の絶食で胃はひきつるように痛み、立ちくらみで視界の端が黒く明滅していた。


左腕の聖衣をたくし上げると、肌に沈殿した紫黒の侵食斑が、静まり返った月光の下で青白く透けて見えた。


毒を中和する力さえ、今の衰弱した肉体には残されていない。


それでも、エレナの胸の奥底には、どこか冷え切った安堵が広がっていた。


(あと少し……あと二十日余りで、すべてが終わる)


自分が北方結界の核へと魔力を吸い尽くされ、冷たい石となれば、これ以上誰かが傷つくこともない。


そして何より――あの謁見の場で、王太子の怒りを買いかけたレオンハルトを、自らの従順な死によって庇うことができる。


彼がこれ以上、神殿や王家に睨まれる理由を失くしてやれるのだ。


「誰だ」


不意に、背後から闇を引き裂くような硬質な足音が響いた。


踵を鳴らす拍車、擦れ合う漆黒の甲冑。


振り返る間もなかった。


背後から伸びてきた強靭な腕が、エレナの細い肩を背後から乱暴に掴み、強引に真横へと引き寄せた。


「きゃっ……!?」


視界が激しく回転し、背中に硬く冷たい大理石の壁が打ちつけられる。


逃げ場を塞ぐように、エレナの顔のすぐ真横の壁に、ドスッ、と重い鈍音が叩きつけられた。


黒。


上質な革に包まれた、男の拳。


そして、エレナの全身を覆い隠すように覆いかぶさってきたのは、見紛うはずもない漆黒の甲冑と、濡れ羽色のマントだった。


「……ヴァルク、団長……」


息を呑んだエレナの瞳に、至近距離から見下ろしてくる氷藍の光が突き刺さった。


レオンハルトだった。


その整った美貌は、夜の氷壁のように冷たく引き攣り、顎の輪郭が怒りで硬く強張っている。


乱れた黒髪の隙間から覗く瞳には、隠しようもない苛立ちと、昏い情念が渦巻いていた。


「……何の真似ですか。無礼な……!」


「無礼だと?」


レオンハルトの声は、地を這う獣の唸り声のように低かった。


彼はもう片方の手――黒革の長手袋を嵌めた手を伸ばし、エレナの細い手首を壁に縫い付けるように押さえつけた。骨がきしむほどの強い力。


だが、手袋の革を隔てているため、肌と肌の直接の接触ではない。


神聖誓約の致命的な発動をギリギリのところで回避しながら、彼はエレナを物理的に完全に支配していた。


「無礼なのはどちらだ、エレナ」


低く吐き出された名前に、エレナの心臓が激しく跳ねた。


神聖誓約の刻印が、胸の奥でチリチリと微かな警告音を立てる。


男の荒い呼気が、エレナの白い首筋に直接降りかかり、肌の産毛が総毛立った。


「清めの祈祷だと? 三日も水だけで冷たい礼拝堂に座り込み、神官どもの言いなりになって餓死するのを待つつもりか。貴女の頭の中には、神への従属という名の空洞しか詰まっていないのか」


容赦のない侮蔑の言葉。


だが、その瞳の奥にある激しい揺らぎを、エレナは見た。


彼は怒っている。


だがそれは、任務の邪魔をされたことへの苛立ちにしては、あまりにも激しく、切迫していた。


「放してください……! これは神殿の掟です。神の妻たる私が、儀礼の前に身を清めるのは当然の務め……」


「務めだと? 笑わせるな!」


レオンハルトは壁に手をついた腕にさらに体重をかけ、エレナを完全に逃げ場のない隙間へと押し込めた。


彼の甲冑の冷たさと、その奥にある男の熱い体温が、聖衣の薄い布地を通して生々しく伝わってくる。


近すぎる。


顔を少し動かせば、唇が触れ合ってしまいそうな距離。


「あの謁見の場での話を聞いていなかったのか。全魔力の奉納など、ただの処刑だ。貴女を英雄として祭り上げ、用済みとなった代償治癒の欠陥を闇に葬るための、ユリシーズの謀略だぞ。なぜそれが分からん!」


「分かっています!」


エレナは叫んでいた。


掠れた、しかしこれ以上なく明確な声が、薄暗い回廊に木霊する。


「分かっています……! 私が死ぬことくらい、最初から分かっています!」


「ならば、なぜ受け入れた!」


レオンハルトの氷藍の瞳が見開かれ、手首を拘束する指の力がさらに強まった。


痛いほどの圧迫感。


だが、それ以上にエレナの胸を引き裂いていたのは、彼に対する悲痛なまでの感情だった。


「受け入れなければ、どうなるというのですか!」


エレナは涙で潤む瞳で、目の前の男を真正面から睨み返した。


「あの場で私が拒絶すれば、殿下はお怒りになり、私を異端として即座に処刑したでしょう! それだけではありません……私を庇って殿下に楯突いたあなたまで、反逆者として首を刎ねられていたのですよ!」


「…………」


「あなたを巻き込みたくなかった……! なぜ分からないのですか、レオンハルト様! あなたが平民の出でありながら、どれほどの血を流してその黒曜騎士団長の地位を掴み取ったのか、私に分からないとでも思っているのですか!?」


エレナの胸から、堰を切ったように言葉が溢れ出た。


十年間、ずっと心の奥底に閉じ込めていた叫び。


「あなたは神殿の剣として、生き残らなければならない人です。私のような、いつ穢れに呑まれて死ぬか分からない壊れかけの聖女のために、あなたの未来を捨てるような真似はしないで……! 私が大人しく礎になれば、すべて丸く収まるのです!」


回廊が、シンと静まり返った。


ただ二人の、激しく乱れた呼吸の音だけが重なり合っている。


エレナは肩で息をしながら、レオンハルトの顔を見つめた。


これで分かってくれるはずだ、とエレナは思った。


自分は彼の出世の邪魔をしたくないのだと。


彼がこれ以上、自分を監視し、無駄なリスクを背負う必要はないのだと。


だが――。


レオンハルトの反応は、エレナの予想を完全に裏切るものだった。


彼の美貌に浮かんだのは、納得でも安堵でもなかった。


それは、信じられないものを見るような、絶望と――底知れぬ激怒だった。


「……丸く収まる、だと?」


低く、絞り出すような声だった。


レオンハルトの口端が、自嘲とも殺意ともつかない歪な笑みへと吊り上がる。


「貴女が干からびて死に、腐った王家と神殿が安泰を得て、俺がその手先として栄達を極める……それが、貴女の言う『丸く収まる』ということか?」


「っ……」


「ふざけるな」


ゴリ、と壁の石材が軋む音がした。


レオンハルトの拳が、壁にめり込まんばかりに握りしめられている。


「俺の未来だと? 騎士団長の地位だと? ……エレナ、貴女は本当に、何も見えていないな」


冷徹だった男の仮面が、音を立てて崩れ落ちていく。


氷蓝の瞳の奥で、業火のような情念が剥き出しになっていた。


その狂気じみた眼差しに射抜かれ、エレナの背筋に冷たい粟が走る。


「俺がなぜ、この泥水をすすってきたと思っている」


「え……?」


「平民の孤児が、騎士団の頂点に立つために、どれだけの人間を斬り捨て、どれだけの汚れ仕事を引き受けてきたか……貴女は出世欲だと侮蔑したな」


レオンハルトの顔が、さらに近づいた。


触れ合う寸前。


互いの吐息が混ざり合い、熱い気配がエレナの唇を撫でる。


彼の手袋の革が、エレナの手首を締め上げ、拘束を解こうとしない。


「貴女を奪うためだ」


耳元に落とされた囁きは、甘美で、そして呪いのように重かった。


「……な……にを……」


「白銀の檻に閉じ込められ、聖女などという生贄に祭り上げられた貴女を、あの腐った祭壇から引きずり降ろし、奪い去るためだけに――俺はこの十年、生きてきた」


「っ――!?」


エレナの思考が、完全に停止した。


何を言っているのか、理解が追いつかない。


奪う? 彼が? 自分を?


神の妻となった聖女を奪うなど、この大陸全土において最大の反逆であり、神聖冒涜の極致だ。


正気の騎士が口にしていい言葉ではない。


「ば、かな……何を、言って……あなたは、神殿の……」


「神など知ったことか」


レオンハルトは躊躇なく吐き捨てた。


神殿直属の騎士団長でありながら、一片の信仰心すら持ち合わせていないことを、平然と告げる。


「俺にとっての信仰は、十年前のスラムの路地裏で終わっている。神が貴女を搾取し、殺そうとするなら、俺は神殿を焼き払ってでも貴女を連れ出す」


「やめて……! そんなことを口にしては、あなたが……!」


「俺を案じるなと言ったのは貴女だ」


冷たく、しかし狂おしい響きを帯びた声がエレナを遮る。


レオンハルトは拘束していたエレナの手首を放すと、その手を滑らせ、彼女の首筋――長袖の襟元のすぐ上、素肌の境界線すれすれの場所へと黒革の手袋を這わせた。


手袋の冷たい感触と、その奥から滲み出るような熱。


心臓の神聖誓約が、ドクン、と大きく跳ね上がり、胸の奥で鋭い熱痛を走らせた。


異性の激しい執着を向けられたことへの、魂の拒絶反応。


エレナの喉から「あ……っ」と掠れた苦悶が漏れる。


レオンハルトは眉を微かに顰め、それ以上肌へ近づけるのを留めた。


だが、その瞳は決してエレナを逃がさなかった。


「新月の夜までに、脱出の手筈を整える。俺の配下の黒曜騎士団の一部はすでに動かしてある」


「脱出……? 逃げるというのですか!? この国から!?」


「そうだ。北の国境を抜け、神殿の力も及ばぬ帝国領へ逃れる。二度と、この国に足を踏み入れるな」


あまりにも現実離れした、しかし冷徹なまでに計算された計画。


エレナは目を見張り、首を横に振った。


「無理です……! 聖女が逃亡などすれば、国中が追っ手で埋め尽くされます! それに、私の身体はもう……代償の毒で、長くは保ちません! そんな無駄な賭けのために、あなたの命を捨てるなんて……!」


「無駄かどうかは俺が決める」


レオンハルトは冷酷に言い放った。


「貴女の意志など関係ない。首に縄をつけてでも、引きずって連れて行く」


「レオンハルト様!」


「拒絶するなら、あの新聖女――カテリーナの喉笛を今夜にでも裂いてやる。そうなれば、生贄の身代わりがいなくなり、貴女の儀式も中止せざるを得なくなるだろうからな」


「っ……狂っているわ……!」


エレナの唇が震えた。


目の前にいる男は、かつて泥だらけの手で黒パンを分けてくれた、優しい少年ではない。


目的のためなら主君すら欺き、国を裏切り、殺戮をも厭わない――冷酷で、恐ろしい反逆者そのものだった。


けれど。


なぜ、これほどまでに恐ろしい男の言葉が、死を待つだけだったエレナの凍てついた心を、激しく揺さぶるのか。


(どうして……どうしてそんな眼をするの……?)


冷酷な言葉を吐きながら、彼の手袋の指先は、エレナの髪の毛一筋にさえ触れることを恐れるように、微かに震えていたのだ。


彼が選ぼうとしているのは、栄達の道などではない。


全世界を敵に回す、破滅への一本道だ。


それを、ただ自分一人の命のために選ぼうとしている。


「……足手まといになるだけです」


エレナは涙を零しながら、か細い声で呟いた。


「私はもう……人を癒すことしかできない、壊れかけの器なのですから……」


レオンハルトはフッと短く息を吐き、壁から身を起こした。


覆いかぶさっていた巨大な影が退き、回廊の冷たい外気が二人の間に滑り込む。


彼は漆黒のマントを無造作に翻し、エレナに背を向けた。


「器などではない。……俺にとっては、ただのエレナだ」


背中越しに落とされたその言葉に、エレナの息が止まる。


振り返ることなく、彼は冷然とした騎士団長の歩調で回廊を歩み出した。


カツン、カツンと響く規則正しい足音。


「明後日の夜、再び白銀宮へ来る。体力を戻しておけ。……飢え死になどしていたら、叩き起こしてでも連れて行くぞ」


暗がりの中へと消えていく漆黒の後ろ姿を、エレナは壁に背を預けたまま、呆然と見送ることしかできなかった。


手首に残る革の冷たい圧迫感。


そして、胸の奥で鐘のように激しく鳴り響く、神聖誓約の疼きと――それを遥かに上回る、甘く痛烈な熱情。


神の妻として、生涯を閉じるはずだった。


それが自分の運命であり、誇りであるはずだった。


けれど、闇へと消えていった反逆の騎士の瞳を思い出すたび、エレナの心は、決して許されぬ背徳の光へと激しく傾いていくのを止められなかった。

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