新たな「光」の影
午前六時を告げる神殿の鐘が、重苦しく霧深い空に鳴り響いた。
白銀宮の寝室の鏡の前で、エレナは長袖の聖衣の袖口を、銀糸の飾り紐で硬く結び留めていた。
昨夜の狂乱のような激痛と灼熱は、嘘のように引いていた。
レオンハルトが強引に口移し同然で流し込んできたあの苦い薬液が、体内の魔獣毒を一時的に凍りつかせるように鎮めたのだ。
だが、代償が消え去ったわけではない。
鏡に映る自身の顔は、白蝋のように生気がなく、唇の色は薄い。
左腕の二の腕まで這い上がった紫黒の侵食斑は、皮膚の下で冷たい石のように沈殿し、重い倦怠感となって全身を苛んでいた。
(……昨夜のことは、幻だったのだろうか)
指先で自らの唇に触れる。
黒革の手袋越しに押し当てられた彼の親指の感触。
乱暴でありながら、壊れ物を扱うように慎重だった腕の力。
そして、耳元で掠れた『エレナ』という声。
思い出すだけで、胸の奥がきしりと痛み、心臓の誓約が微かな熱を発する。
コン、コン。
静寂を破り、規則正しく二度、扉が叩かれた。
感情の交じらない、硬質で正確な音。
「聖女様。定刻でございます」
扉越しに届いた声に、エレナは小さく息を吸い込み、背筋を伸ばした。
聖女としての、感情を殺した無表情の仮面を顔に張り付ける。
「……お入りなさい」
重い扉が開かれ、朝の冷気とともにレオンハルトが姿を現した。
磨き上げられた黒曜の甲冑、濡れ羽色の漆黒のマント。
その佇まいは、昨夜乱れた息を漏らしていた男と同一人物とは信じられないほど、完全な「神殿の執行者」に戻っていた。
氷藍の瞳が、鏡の前に立つエレナを一瞥する。
その視線には一片の揺らぎも、昨夜の密やかな熱も宿っていなかった。
「王宮への馬車の用意が整いました。歩行に支障は?」
「……問題ありません。お気遣いなく、ヴァルク団長」
他人のように冷ややかな声で返すと、レオンハルトは小さく顎を引くだけで、それ以上の言葉を継ごうとはしなかった。
両手には、寸分の隙もなく黒革の長手袋がはめられている。
昨夜、エレナの唇をこじ開けたあの親指の感触を、彼はまるで最初から存在しなかったかのように振る舞っていた。
胸の奥に、冷たい針が刺さる。
(そう……これでいいの。あれはただの、任務のための応急処置。彼が気にかける筋合いなどないのだから)
エレナは歩き出し、レオンハルトの横を通り過ぎた。
すれ違いざま、微かに漂った彼の鉄と革の匂いが、昨夜の記憶を鮮烈に呼び起こして鼻腔をくすぐる。
エレナは小さく唇を噛み、決して彼を振り返ることなく回廊へと踏み出した。
*
王宮「白亜の大広間」は、朝から異様な熱気に包まれていた。
天井には巨大な硝子のシャンデリアが連なり、壁一面には歴代国王と大司教を讃える黄金のレリーフが施されている。
大広間の左右には、豪奢な礼服やドレスに身を包んだ貴族たちが隙間なく立ち並び、扇の陰からひそひそと品定めのような視線を投げ交わしていた。
「見ろ、白銀の聖女のお出ましだ」
「ずいぶんと顔色が悪いではないか。まるで幽霊のようだ」
「昨夜も国境の兵の治療に当たったそうだが……十年も経てば、いかに聖女とて霊力の衰えは隠せぬと見える」
「身分の卑しい平民出の娘だ。もはや限界なのであろう」
さざ波のような嘲弄と冷笑が、エレナの耳朶を打つ。
貴族たちにとって、身寄りのない平民でありながら「初代聖女の再来」と祭り上げられたエレナは、敬意の対象であると同時に、常に侮蔑と嫉妬の対象でもあった。
エレナは俯くことなく、毅然とした足取りで赤い絨毯の上を進む。
その斜め後方、わずか二歩の間隔を保ち、レオンハルトが音もなく随行していた。
腰の片刃剣の柄に黒革の手袋を添えたまま、威圧的な視線で周囲の貴族たちを射すくめる。
その冷酷な佇まいに気圧され、エレナに無遠慮な視線を向けていた貴族たちが、次々と口を噤んで後ずさりした。
玉座の一段下、豪奢な天幕の前に、一人の男が優雅な笑みを浮かべて立っていた。
第一王子にして、神殿最高評議会議長を務める王太子、ユリシーズ・エドヴァルド。
黄金色の髪を完璧に撫でつけ、彫刻のように整った顔立ちには、見る者を惑わす貴公子然とした笑みが貼り付けられている。
だがその琥珀色の瞳の奥には、計算高く冷酷な光が淀んでいた。
「よく参られた、エレナ。昨夜は国境の兵たちのために尽力してくれたと神官長から聞いている。その献身、まことに頭が下がる思いだよ」
ユリシーズが歩み寄り、エレナの手を取ろうと腕を伸ばした。
だが、その手がエレナの指先に触れる寸前――音もなく割り込んだ黒い影が、その間隙を遮った。
「失礼ながら、殿下。聖女様は神聖誓約の身。王太子殿下といえど、儀礼外での直接のお手触れは神殿法に抵触いたします」
低く、有無を言わせぬ声。
レオンハルトだった。
彼は抜刀こそしないものの、自らの鋼の体躯を巧みに滑り込ませ、ユリシーズの手とエレナの間に黒革の手袋を嵌めた手を差し入れていた。
周囲の空気が凍りつく。
王太子の行動を遮るなど、騎士としては不敬罪に問われかねない暴挙だ。
ユリシーズの眉がピクリと跳ね、琥珀色の瞳に不快な陰りが走った。
「……相変わらず融通の利かない男だな、ヴァルク団長。警護の忠義は認めるが、身の程を弁えよ。スラムの孤児を引き上げてやった恩を忘れたわけではあるまい」
冷ややかな棘を含んだ言葉。
だが、レオンハルトは氷藍の瞳を微動だにさせず、無機質な礼を返しただけだった。
「私の命は殿下と神殿のためにございます。なればこそ、殿下が法を違え、瑕疵を負われることなきようお諌めするのが臣下の務めと存じます」
完璧な建前。
反論を許さない鉄壁の論理に、ユリシーズは鼻を鳴らして手を引いた。
エレナは心臓を冷たい手で握られたような心地で、レオンハルトの広い背中を見つめた。
彼が庇ってくれたのだと信じたい心が、すぐに「いや、彼はただ任務としての法を守っただけだ」という疑念にかき消される。
「まあ、堅苦しい話はここまでとしよう」
ユリシーズはわざとらしく笑みを深め、大広間の中央へと手を広げた。
「本日は皆に、喜ばしい知らせがある。我が国の未来を照らす、新たな奇跡の訪れを神が告げられたのだ。――入りなさい、カテリーナ」
ユリシーズの合図とともに、大広間の扉が再び開かれた。
差し込んできたのは、眩惑的なほどの黄金の輝きだった。
波打つ豪奢な金髪を揺らし、純白のシルクに無数の真珠とダイヤモンドを縫い付けた贅沢極まりないドレスを纏った少女が、淑やかに歩み出てくる。
公爵令嬢、カテリーナ・フォン・ベルリッツ。二十歳。
王国有数の大貴族の息女であり、今、社交界で最も持て囃されている「新たな光」。
「神の御導きに従い、参上いたしましたわ、ユリシーズ殿下」
鈴を転がすような甘い声。
カテリーナが胸の前で手を組むと、その指先から、目も眩むような黄金の燐光がふわりと立ち上った。
大広間の貴族たちから、感嘆の吐息と拍手が湧き起こる。
「おお……なんと神々しい……!」
「まるで太陽の化身のようだ!」
「これぞ真の聖女。平民上がりのあの陰気な娘とは、生まれも輝きもまるで違う!」
カテリーナは満足げに紅潮した頬を緩め、傲慢な優越感を隠そうともせずに、エレナの前へと進み出た。
「ごきげんよう、エレナ様。十年もの間、その身に余る大役、さぞお疲れでしたでしょう?」
カテリーナの青い瞳が、エレナの青白い顔と質素な聖衣を、頭のてっぺんから足の先まで品定めするように舐め回す。
「国境の兵たちの治療で、もう霊力がすっからかんのようですわね。お可哀想に……ですが、もうご安心なさって。これからはベルリッツ公爵家の血を引くこの私、カテリーナが、神の光となって皆様を導きますわ。あなたのような、いつ穢れを溜め込んで倒れるかも知れぬ偽りの聖女に、これ以上国を預けるわけにはまいりませんもの」
偽りの聖女――その侮辱の言葉に、大広間がざわめいた。
エレナの喉の奥が苦く引き攣る。
カテリーナの放つ光。
それは確かに美しく、人を陶酔させる魔力を持っていた。
だが、代償治癒という過酷な真実を知るエレナには、カテリーナの「奇跡」の欺瞞が痛いほど見抜けていた。
カテリーナの治癒は、傷を消しているのではない。
強い光の魔力で患部を覆い、一時的に感覚を麻痺させ、痛みを忘れさせているだけに過ぎないのだ。
表面の皮膚だけを薄く繕い、体内の毒や病巣はそのまま放置される。
やがて効果が切れたとき、患者はより悪化した激痛に襲われることになる。
(けれど、今の貴族たちには……あの眩しい光しか見えない)
「……カテリーナ様が新たな聖女として立たれること、慶賀に存じます」
エレナは感情を押し殺し、静かに頭を下げた。
「ですが、代償なき奇跡など存在いたしません。どうか、御身の力過信なされず、苦しむ民の痛みの根源を……」
「黙りなさいな、身の程知らずが!」
カテリーナが扇子を鋭く打ち鳴らし、嘲笑を浴びせかけた。
「代償だの苦痛だのと、薄汚い言い訳ばかり。それはあなたの信仰が足りず、血が卑しいから神のお怒りを買っているだけですわ! 私の光は無垢にして純潔。神に愛された選ばれし貴種にのみ与えられる、本物の恩寵なのです!」
大広間に、同調する貴族たちの冷笑が響き渡る。
誰もエレナの十年の献身を見ようとはしない。
血筋と、目に見える華やかさだけがすべてだった。
その時、エレナのすぐ後ろで、僅かに空気が震えた。
殺気――。
針のように研ぎ澄まされた冷酷な圧力が、レオンハルトの全身から放たれたのだ。
彼の左手の指先が、柄にかけた鞘をわずかにミリ単位で押し開き、刃の銀色が覗く。
(レオン……!?)
エレナは息を呑んだ。
ここで彼がカテリーナを害すれば、その瞬間に反逆罪で処刑される。
「……やめて」と、声に出さず唇だけで乞うように、エレナは微かに背後の彼へ視線を送った。
レオンハルトの氷藍の瞳は、カテリーナとその背後のユリシーズを、今すぐにでも喉笛を食いちぎる獣のような冷徹な残虐さで見据えていた。
だが、エレナの視線に気づくと、彼は忌々しそうに奥歯を噛み締め、剣を鞘へと戻した。
「ふふ、まあ良いではないか、カテリーナ」
ユリシーズが割って入り、カテリーナの肩を親密に抱き寄せた。
その所作は、二人がすでに王宮と神殿を牛耳るための盟約――いずれ正妃と国王として並び立つ密約を結んでいることを如実に示していた。
ユリシーズはエレナへと向き直り、冷酷な光を宿した瞳で微笑みかけた。
「エレナ。カテリーナの言う通り、君の長年の労苦は我が国にとってかけがえのないものだった。だが、君の身体がすでに限界を迎えていることも、余は重々承知している」
「……殿下?」
「君のような尊い存在を、これ以上すり減らすのは忍びない。そこでだ、エレナ。君には、その比類なき霊力を捧げるにふさわしい、最後の『大いなる名誉』を用意した」
大広間の空気が、不穏な緊張感に張り詰める。
ユリシーズは懐から、紫紺の封蝋が施された羊皮紙を取り出し、朗々と告げた。
「来月、北方結界の霊脈が百年ぶりの衰退期を迎える。このままでは結界が霧散し、数十万の魔獣が王都へ雪崩れ込むだろう。これを防ぐには、聖女たる者の全霊力を霊脈の核へと流し込み、結界を永久固定せねばならぬ」
エレナの血の気が、一瞬で引いた。
結界の永久固定。
それは、魔力をすべて吸い尽くされるまで祭壇に縛り付けられる、事実上の「生贄の儀礼」だった。
生きて戻った者は過去に一人もいない。
「……全霊力の、奉納……でございますか」
「そうだ。初代聖女の再来と謳われた君にしか成し得ぬ、神聖なる大業だ。君が国境の礎となって眠りにつくことで、この国は永遠の安寧を得る。そして新任のカテリーナが、光の聖女として君の遺志を継ぎ、王都を照らし続けるのだ」
完璧な筋書きだった。
限界を迎えて壊れかけた道具であるエレナを英雄として体よく生贄に捧げて処分し、功績をすべてカテリーナと自らのものにする。
神殿の暗部である「代償治癒の真実」も、エレナの死とともに永遠に闇へと葬ることができるのだ。
「名誉なことでしょう、エレナ様? 平民の出でありながら、国の礎として死ねるのですから!」
カテリーナが勝ち誇った笑みを浮かべる。
断ることなど許されない。
王太子と神殿最高評議会の決定は、神の託宣と同義だった。
拒否すれば即座に異端として断罪されるだけだ。
(ああ……最初から、決まっていたのだ)
エレナの視界が、暗く揺らめいた。
十年。
民のために、痛みに耐え、己の肉体を差し出し続けてきた結末が、これだった。
使い古された雑巾のように、最後の一滴まで絞り取られて捨てられる。
「謹んで……」
エレナが絶望を受け入れ、頭を垂れようとした、その瞬間だった。
「――お待ちいただきたい、王太子殿下」
重々しく、底冷えのする声が大広間を切り裂いた。
レオンハルトが、一歩前へ踏み出したのだ。
彼はユリシーズの前に立ちはだかり、無礼極まりない真正面からの視線で王太子を射抜いた。
「北方結界の核への魔力奉納は、霊脈の過負荷を招く危険性が神殿古文書に記録されております。白銀の聖女様の霊力損耗が激しい今、儀式を強行することは結界の崩壊を早めかねません。……再考を願いたい」
「レオン……ハルト様……」
エレナの息が止まった。
彼が、公の場で王太子の決定に異を唱えた。
それは騎士団長としての地位を、命を危険に晒す行為に他ならなかった。
ユリシーズの目が、すっと細められた。
侮蔑と警戒が入り混じった冷ややかな視線が、レオンハルトに注がれる。
「……ほう。黒曜騎士団長が、神殿の儀礼に口を挟むか。貴様はいつから軍師気取りになったのだ、ヴァルク?」
「私は聖女警護の責を負う者。その任を果たす上での懸念を進言したまでです」
「戯言を」
ユリシーズは冷笑を浮かべ、吐き捨てるように言った。
「貴様の意見など求めておらん。犬は犬らしく、命じられた獲物の番だけをしていれば良いのだ。……それとも何か? スラム出の卑しい騎士風情が、神の妻に色目でも使っているとでも言うのか?」
大広間の空気が、張り詰めた糸のように軋んだ。
神の妻への私情。
それは、口にしただけで火刑に処される禁忌の言葉だった。
エレナの心臓が激しく跳ね上がり、胸の奥で神聖誓約が警告の疼きを走らせる。
レオンハルトの身が危ない。
エレナを庇ったせいで、彼が処刑されてしまう――。
「違います、殿下!」
エレナは必死に声を張り上げ、レオンハルトの前に出た。
「ヴァルク団長は、ただ騎士としての職務に忠実なだけでございます! 私のような者に、私情など抱くはずもございません! ……殿下の仰せの通りにいたします。北方結界への全魔力奉納の儀……謹んで、拝命いたします」
震える声で、自らの死刑宣告を受け入れた。
レオンハルトを、あの幼い日の約束をくれた少年を、これ以上自分の巻き添えにするわけにはいかなかった。
ユリシーズは満足げに目を細め、「殊勝な心がけだ」と頷いた。
「儀式は来月の新月の夜だ。それまで白銀宮にて、身を清めておくが良い」
儀礼の終了が告げられ、貴族たちがカテリーナを取り囲んで賛辞を叫びながら広間を去っていく。
華やかな喧騒が遠ざかり、大広間には冷たい静寂が残された。
*
神殿へと戻る馬車の中。
対面に座る二人の間に、重苦しい沈黙が横たわっていた。
車輪が石畳を軋ませる音だけが、耳障りに響く。
エレナは窓の外を見つめたまま、膝の上で握りしめた拳を震わせていた。
死が決まった恐怖よりも、彼を巻き込んでしまった後悔が胸を塞いでいた。
「……なぜ、あのようなことをなさったのですか」
エレナは掠れた声で問いかけた。
レオンハルトを見つめる瞳には、悲痛な色が滲んでいた。
「殿下に逆らえば、あなたがどうなるか……お分かりだったはずです。私のために、あなたの命を危険に晒すような真似は、二度としないでください」
彼が出世のために神殿に仕えているのなら、あんな無謀な真似をするはずがなかった。
昨夜の投薬といい、先ほどの進言といい、彼の行動はあまりにも歪で、理解が追いつかない。
レオンハルトは腕を組み、黒革の手袋を嵌めた指先をかすかに動かした。
その瞳は、凍りついたように冷徹だった。
「勘違いするな」
氷の刃のような声が、狭い馬車の中に落ちる。
「俺は貴女のために言ったのではない。結界が崩壊し、都に魔獣が雪崩れ込めば、防衛の最前線に立たされるのは黒曜騎士団だ。無能な神官どもの杜撰な儀式で、俺の部下を犬死にさせたくないだけだ」
「……っ」
「貴女が生贄になろうが、干からびて死のうが、俺の知ったことではない」
レオンハルトは見下すような冷たい視線をエレナに向け、残酷な言葉を重ねた。
「だが、儀式までは死ぬな。途中でくたばれば、余計な混乱が起きる。……俺の視界の中で、勝手に消えることだけは許さん」
その言葉の奥に隠された、悲痛なまでの叫びを、エレナは読み取ることができなかった。
突き放された言葉だけが、胸の奥深くに突き刺さり、血を流させる。
(ああ……やはり、そうなのね)
彼は自分を心配したのではない。
ただ、騎士団の利害と、自らの任務のために動いているだけなのだ。
昨夜の手袋越しの体温も、あの震える呼び名も、すべては自分の都合の良い妄想に過ぎなかったのだと、エレナは項垂れた。
「……ええ。承知いたしました、ヴァルク団長」
エレナは窓の外へと視線を戻し、二度と口を開かなかった。
頬を一筋伝い落ちそうになる涙を、誰にも見られないよう、そっと指先で拭い去りながら。
対面に座るレオンハルトが、膝の上で黒革の手袋を嵌めた拳を、血が滲むほど強く握りしめていることにも気づかずに。
馬車は、死へのカウントダウンが始まった白銀宮へと、冷たい雨の降る中を走り続けていた。




