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背徳の檻に咲く白銀 ~神の妻となった聖女は、冷酷な守護騎士の偽りの刃に抱かれる~  作者: 白狸
【第1章】欺瞞の黒革と背徳の誓約 ~神の檻を灼く白銀の夜明け~
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手袋越しの体温

骨の髄が、灼けた鉄串で掻き回されているようだった。


自室の重い扉が閉ざされた直後、エレナは敷き詰められた豪奢な絨毯の上へと崩れ落ちたまま、指一本動かすことができずにいた。


呼吸を吸い込むたび、喉の奥が引き裂かれるように熱い。


気管から肺へ、そして心臓へと、先ほど三十人余りの兵士たちから引き受けた魔獣の毒が、黒く濁った濁流となって全身の血管を巡っていた。


(あ……あ、ぁ……っ)


声にならない呻きが、噛み締めた唇の隙間から漏れ出る。


指先が冷たく強張る一方で、内臓は業火で炙られているかのように熱い。


額から流れる脂汗が床の羊毛を濡らし、白銀の髪が無様に頬へと張り付いていた。


これが、代償治癒の現実だった。


神殿の長老たちや王族は、これを「主の御業」「聖女の奇跡」と称賛し、清らかな祈りの結果として民衆に見せつける。


だがその実態は、他者の肉体を蝕む病魔と毒素を、ただエレナという生きた器へと移し替えているに過ぎない。


エレナの強大な聖気は、それらを体内で無理やり押し包み、何時間も、時には何日もかけて少しずつ浄化し、中和する。


その間、エレナは毒に侵された兵士たち全員分の苦痛を、たった一人で引き受け続けなければならなかった。


(痛い……苦しい……誰か……)


弱音など吐いてはならないと知っていながら、混濁していく意識の中で、子供のような泣き言が胸を満たす。


誰も助けには来ない。


神官たちにとって、役目を終えた聖女は「次の奇跡」まで静かに横たわっていればいい使い捨ての道具だ。


侍女たちでさえ、エレナの身体から漏れ出る瘴気に当てられることを恐れ、夜間は決してこの白銀宮の寝所には近寄らない。


左腕が、脈打つように熱を持っていた。


震える手で聖衣の袖を引き裂くように捲り上げると、月光に照らされた白い肌の上で、あの紫黒の侵食斑が蠢くように赤黒く発熱していた。


肘の上――二の腕の中ほどまで達した禍々しい紋様。毒を吸収するたびに、この斑点は確実にその領域を広げている。


――あと、どれくらい保つのだろう。


この斑紋が首筋を這い上がり、心臓へと達したとき、自分はどうなるのか。


異端の魔女として神殿の地下深くで秘密裏に処分されるか、あるいは意識を失い、人の形を保てなくなって討伐されるのか。


(……それでも、いい……)


朦朧とした頭の片隅で、諦念に似た暗い安らぎがよぎる。


もう疲れてしまった。


十年間、誰の体温も知らず、ただ痛みを引き受けるためだけに生きてきた。


かつて自分を慈しんでくれた人々はもういない。


そして、今夜再会した唯一の光であったはずの幼なじみ――レオンハルトの瞳には、かつての温もりなど微塵も残っていなかった。


『死にたければ勝手に死ねばいい』


『俺の任務記録に汚点をつけるような死に方だけは許さん』


冷酷に切り捨てられた言葉が、胸の奥で鋭い氷柱となって突き刺さっている。


彼は自分を救いに来たのではない。


神殿の忠実な猟犬として、壊れかけの道具を監視するために配置されたのだ。


「……レオン……っ」


かすれる吐息とともに、口にしてはならない名を呼んだ、その時だった。


カチャリ、と。


静寂に包まれていた部屋に、場違いな金属音が小さく響いた。


重厚な樫木の扉の鍵穴に、鍵が差し込まれ、ゆっくりと回転する音。


エレナの身体が恐怖に強張った。


(……誰……? 鍵を……かけていたはずなのに……)


神殿の掟により、聖女の寝室へ夜間に立ち入ることは何者であっても固く禁じられている。


侵入者は即座に死罪、聖女側も貞潔を疑われ審問にかけられる重罪だ。


扉が音もなく、わずかに開いた。


回廊の冷たい外気が、室内の淀んだ熱気を押し流すように吹き込んでくる。


逆光の中に浮かび上がったのは、長身の黒い影だった。


光を反射しない漆黒の甲冑。


肩から掛けられた濡れ羽色のマント。


そして、闇の中で夜獣のように冷酷に光る、氷藍の瞳。


「――なぜ、ベッドにすら辿り着いていない」


低く、押し殺した男の声が、床に倒れ伏すエレナの頭上へと降ってきた。


「……ぁ……」


エレナの喉から、掠れた息が漏れた。


レオンハルト。


なぜ彼がここにいるのか。


警護の騎士が、鍵を開けて聖女の寝室へ踏み込むなど、正気の沙汰ではない。


見つかれば彼自身が首を刎ねられる。


「ヴァル……ク、団長……な、ぜ……」


「言ったはずだ。醜態を晒すなと」


レオンハルトは音もなく足を踏み入れ、背後で静かに扉を閉めた。


内鍵を滑らかに掛けるその指先には、一片の迷いも躊躇もない。


彼は倒れ伏すエレナの前まで歩み寄ると、冷徹な視線で見下ろした。


床に散乱する白銀の髪。


汗に濡れて透けた薄い寝衣。


肩口まで捲り上げられ、赤黒く発熱して脈打つ禍々しい侵食斑。


その異様な光景を目にした瞬間、レオンハルトの顎の筋肉が微かに強張ったのを、霞む視界のエレナは捉えきれなかった。


「……下がって……ください……」


エレナは必死に床を這い、彼から距離を取ろうとした。


「ここは……男子禁制の、領域です……。あなたも……ただでは、済まない……ッ!」


「神殿の法など、俺には何の意味も成さん」


吐き捨てるような声音とともに、レオンハルトが膝をついた。


重厚な甲冑の擦れ合う金属音が、静かな寝室に無機質に響く。


「なっ……」


抗う間もなかった。


レオンハルトの屈強な両腕が、床に倒れていたエレナの華奢な身体を、容赦のない力で掬い上げたのだ。


「ひ……っ、放し……!」


「暴れるな。舌を噛むぞ」


冷淡な命令。


だが、エレナを抱き上げるその腕の動きには、乱暴な言葉とは裏腹に、驚くほどの慎重さが宿っていた。


ふわりと浮遊感が走り、エレナは豪奢な天蓋付きのベッドへと横たえられる。


だが、安心する暇などなかった。


レオンハルトはベッドの端に片膝を乗せ、エレナの逃げ場を塞ぐように覆い被さってきたのだ。


近すぎる。


彼の纏う夜の冷気と、かすかな鉄の匂い、そして研ぎ澄まされた雄の気配が、エレナの肌を直接刺すように迫ってくる。


(だめ……触れては、いけない……!)


心臓の奥底で、神聖誓約ギアスが警告の熱を発し始めていた。


神の妻たる身で、異性の熱を身近に受けることへの拒絶反応。


胸の奥に小さな針を刺されたような痛みが走り、エレナは浅い呼吸を繰り返しながら身をよじった。


「やめ……て……! 神聖誓約が……私に、触れないで……!」


「肌など合わせていない」


レオンハルトは眉一つ動かさず、自身の両手をエレナの眼前へと突き出した。


黒。


上質な仔牛の革で作られた、漆黒の長手袋。


指先から肘の近くまでを隙間なく覆うそれは、一片の素肌も露出させていなかった。


彼が触れているのは、手袋の革越し、あるいはエレナの衣服越しだけだった。


神聖誓約の魔術的検知を、極限の境界線上で回避しているのだ。


「これなら貴女の神とやらも文句はあるまい。……それとも、革越しですら男に触れられれば狂乱するほど、貴女の信仰は脆弱なのか?」


「そんな……言い方……っ」


侮辱に涙が滲む。


だが、反論する気力すら毒の熱に奪われていく。


エレナの全身の震えは止まらず、歯の根がガチガチと鳴り響いた。


視界が急速に暗転しかけ、息が吸えずに胸を掻きむしる。


その時、レオンハルトが胸元の甲冑の隙間から、細い銀の小瓶を取り出した。


封蝋を親指で乱暴に弾き飛ばすと、中から鼻腔を突くような、苦く刺激的な薬草の香りが立ち込める。


「飲め」


「……それ、は……?」


「神殿の連中がひた隠しにしている、代償毒を散らすための調合薬だ。北方の裏市場で買い取った。死にたくなければ飲み干せ」


エレナの目が微かに見開かれた。


代償毒の緩和薬。


そんなものが実在するなど聞いたこともなかった。


神殿では「聖女の苦痛は神への祈りと純潔によってのみ昇華される」と教え込まれてきたのだ。


もしそんな薬を隠し持っていたと知れれば、騎士団長といえど反逆罪に問われかねない。


「なぜ……そんな危険なものを……あなたが……」


「言ったはずだ。明日、使い物にならなくなっては困ると」


レオンハルトは表情を一切崩さず、小瓶をエレナの唇へと押し当てようとした。


だが、高熱と呼吸困難に喘ぐエレナの喉は痙攣しており、唇に触れた液体を受け入れることができない。


喉が拒絶し、黒ずんだ薬液が口端から一筋、白い顎をつたって零れ落ちた。


「ごほっ……、げほっ……っ! む、り……飲め、ない……」


「ちっ……」


短く舌打ちする音が聞こえた。


見捨てられる、とエレナは思った。


役に立たない道具として、ここで見切りをつけられるのだと。


だが――次の瞬間、起きた出来事に、エレナの思考は完全に凍りついた。


レオンハルトが、自らの口に小瓶の残りを一気に含んだのだ。


「え……?」


呆然とするエレナの顎を、黒革の手袋に包まれた強靭な指先が強引に掴む。


頭部を固定され、逃げる術を奪われた。


「ん……っ!?」


彼の顔が、視界を埋め尽くすほど間近に迫る。


触れ合う寸前。


彼の吐息が、エレナの唇に直接降りかかった。


薬草の苦い匂いと、レオンハルト自身の熱い息遣い。


あまりの至近距離に、心臓が跳ね上がる。唇と唇が触れ合うまで、わずか数ミリの隙間。


(まさか……口移しで……!?)


そんなことをすれば、手袋の欺瞞など通用しない。


唇の接触は間違いなく神聖誓約の逆鱗に触れ、エレナの心臓は激痛で焼き尽くされる。


だが、レオンハルトは唇を重ねることはしなかった。


彼は自らの親指――厚い黒革で覆われた親指の腹を、エレナの唇の間に強引に割り込ませ、わずかにこじ開けたのだ。


そして、自らの唇をその親指の背へと押し当てた。


「――っ、ん……!」


革の手袋を介して、レオンハルトの口から吐き出された苦い薬液が、エレナの口腔内へと流し込まれていく。


直接肌は触れ合っていない。


けれど、革一枚を隔てただけの、彼の唇の形、吐息の激しさ、そして男の力強い体温が、生々しいほどの熱量を持ってエレナの口元を支配していた。


「……飲め、エレナ。吐き出すな」


至近距離で囁かれた低い声。


その響きの中に混ざった、微かな震え。


そして――「エレナ」と、十年間一度も呼ばれなかった、幼き日の呼び名。


その響きに魂を撃ち抜かれたように、エレナは反射的に喉を鳴らし、苦い液体を飲み下した。


胃の奥へと落ちていった薬は、まるで氷水のように、全身を苛んでいた灼熱の毒を急速に鎮めていく。


「……っ、ふ……、あ……」


呼吸が少しずつ通り、荒れ狂っていた血管の痛みが引いていく。


薬効の速さに驚く間もなく、レオンハルトはゆっくりと顔を離した。


二人の間に、乱れた呼気の白さだけが漂う。


エレナの唇の端には、手袋越しに押し込まれた際の摩擦で、かすかな赤みが差していた。


「……無駄骨を折らせるな」


レオンハルトは立ち上がり、背を向けた。


その声は相変わらず低く、冷淡さを装っていた。だが、エレナは見逃さなかった。


彼が口元を拭った右手の、黒革の手袋――その指先が、先ほどよりも激しく、微かに震えているのを。


そして、マントの下の背中が、息を整えるように深く上下しているのを。


(どうして……?)


胸の奥が、毒の痛みとは全く違う理由で激しく疼いた。


神聖誓約の罰ではない。


もっと甘く、胸を締め付けるような、切ない痛み。


冷酷な神殿の猟犬。


出世のために自分を監視する騎士。


本当にそうなら、なぜ危険を冒してまで禁忌の薬を手に入れ、こんな夜更けに一人で部屋へ踏み込んできたのか。


なぜ、神聖誓約に触れないよう細心の注意を払いながら、あんなにも必死な瞳で自分を見つめたのか。


「……ヴァルク、団長……」


シーツを握りしめ、エレナは掠れた声で呼びかけた。


「あなたは……私を、どうするつもりなのですか……」


道具として使い潰すのか。


それとも――。


レオンハルトは扉の前で足を止め、振り返ることなく答えた。


「生き延びろ」


短く、切り捨てるような一言。


だが、その声の底には、地獄の業火のように暗く、重い感情が渦巻いていた。


「他人の傷を背負って満足するな。神に祈って救われる命など、この世にはない。……俺の前で死ぬことだけは、絶対に許さん」


カチャリ、と静かに内鍵が外される。


「夜明けに迎えに来る。身支度を整えておけ」


扉が開き、そして閉まった。


冷たい回廊の足音が遠ざかり、部屋には再び静寂が戻る。


エレナは一人、ベッドの上で自らの唇にそっと指を当てた。


そこにはもう、彼の革手袋の冷たさも、その奥にあった狂おしいほどの熱も残っていない。


けれど、部屋の空気の中に微かに残る彼の匂いと、急速に引いていく体内の毒熱が、いま起きたことが夢ではないと告げていた。


(レオン……)


唇の奥に残る苦い薬の味を噛み締めながら、エレナは胸元を強く抱きしめた。


薄い衣服の下、心臓の神聖誓約が、静かに、けれど確かに、熱い脈動を打っていた。

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