白銀の檻と黒曜の刃
死と腐敗の匂いが、石造りの冷え切った地下治療室に満ちていた。
運ばれてきたのは、北の国境防壁で魔獣の毒爪に裂かれた兵士たちだ。
数十人が粗末な担架に横たえられ、荒い呼吸と苦悶の呻き声を上げている。
肉が焼けただれ、血管が紫黒に変色して浮き上がる様は、もはや通常の薬草や下級神官の祈祷でどうにかできる域をとうに超えていた。
「聖女様、どうか……! 我が息子の命を……!」
「下がっていなさい。聖女エレナ様の御手を煩わせるでない」
すがりつこうとした初老の従卒を、高位神官が冷たく杖で払い除ける。
神官たちの白い法衣には一片の汚れもなく、その瞳にあるのは同胞への憐憫ではなく、ただ自らの権威と、手駒である聖女の能力に対する冷淡な計算だけだった。
エレナ・アルスティアは、静かに両膝を床についた。
大理石の床から這い上がってくる冷気が、白銀の刺繍が施された豪奢な聖衣越しに膝頭を刺す。
彼女は深く息を吸い込み、胸元の銀の十字架にそっと指を添えた。
二十六歳。初代聖女の再来と国中に崇め奉られ、神にその身を捧げた「神の妻」。
「主の慈悲が、あなたの痛みを拭い去らんことを」
震える声で祈りを紡ぎながら、エレナは最初の兵士のただれた胸元に、白い絹の手袋を外した素手を重ねた。
刹那、眩い白銀の燐光が治療室を包み込む。
だが、それは奇跡などという甘美なものでは決してない。
エレナが持つ唯一無二の能力――「代償治癒」。
対象の傷、病、そして呪毒を、己の肉体へとそっくり引き受けることで成立する、緩やかな自傷行為に他ならなかった。
(――ぐっ、……っ!)
兵士の傷口から、ドス黒い瘴気がエレナの手のひらを通じて奔流のように逆流してくる。
焼けた鉄を血管に流し込まれたような激痛が、腕を駆け上がり、胸を灼いた。
心臓が早鐘を打ち、喉の奥に血の味が広がる。
激痛に意識が白濁しそうになるのを、奥歯を噛み締めて必死に堪えた。
目の前の兵士の肌から黒ずみが消え、裂けた肉が急速に塞がっていく。
荒かった呼吸が穏やかな寝息へと変わるのと引き換えに、エレナの視界は細かく揺れ、全身の毛穴から冷汗が噴き出した。
「おお……見よ、奇跡だ! 聖女様の御力により、毒が霧散したぞ!」
神官たちの歓声が頭上から降ってくる。
奇跡などではない。
毒は消えてなどいない。
いま、エレナの体内へと移し替えられただけなのだ。
彼女の強大な聖なる魔力が、毒を押し包んで少しずつ分解・浄化するまで、この激痛はエレナ一人の肉体を苛み続ける。
「次の方を……」
蒼白な唇を震わせ、エレナは立ち上がろうとして、よろめいた。
すかさず側に控えていた侍女が支えようとするが、エレナは微かに首を振ってそれを制した。
他人に触れられれば、漏れ出た瘴気で相手を傷つけかねない。
二人、三人、五人――。
運ばれた重傷者すべてに手をかざし終えたとき、地下室の時計は深夜の二時を回っていた。
最後の一人の呼吸が整ったのを見届けた瞬間、エレナの膝が音を立てて崩れ落ちた。
「本日の治癒はここまでですな。聖女様、明朝には王宮への拝謁が控えております。お清めを済ませ、速やかに自室へお戻りください」
神官長は倒れ伏すエレナの顔色を一瞥しただけで、労いの言葉一つかけることなく、満足げに踵を返した。
彼らにとってエレナは、神殿の権威を誇示し、貴族や王家から莫大な寄進を引き出すための「聖なる道具」でしかなかった。
エレナは壁に手をつき、脂汗で額に張り付いた白銀の髪を払うこともできず、重い足取りで地下室を後にした。
*
神殿の最奥に位置する離宮「白銀宮」
そこが、十年前からエレナに与えられた世界の一切だった。
天井が高く、豪奢なタペストリーと純白の大理石で彩られた回廊は、静まり返って墓場の底のように冷え切っている。
窓の外を見上げれば、雲間に冷ややかな月が浮かんでいた。
外の世界から隔絶された、美しく豪奢な鳥籠。
(痛い……身体中が、軋む……)
自室へと続く長廊下の途中で、エレナはたまらず立ち止まり、胸元を掻きむしった。
息が吸えない。
肺の奥まで冷たい毒が染み渡っていくようだ。
壁に肩を預け、ずるずるとその場に座り込みそうになる。
聖衣の袖を震える指でたくし上げると、月光の下、透き通るような白い二の腕に、禍々しい紫黒の斑紋が浮かび上がっていた。
数年前までは指先にとどまっていた「代償の侵食斑」は、いまや左腕の肘を越え、肩へと這い寄ろうとしている。
浄化の限界を超えて蓄積された穢れの残滓。
これが全身を覆い尽くしたとき、自らがどうなるのか――理性を失った魔獣と化すのか、それとも苦悶の果てに肉体が崩壊するのか、エレナ自身にも分からなかった。
誰にも言えない。
もし「聖女の肉体が穢れに侵されている」と知れれば、神殿は自らの欺瞞を隠蔽するため、即座にエレナを異端として秘密裏に処刑するだろう。
「……っ、ふ……」
過呼吸気味の息を吐き出しながら、エレナは胸元に手を当てた。
薄い布地の奥で、心臓が激しく脈打っている。
そこには、十六歳で「神の妻」となった日に刻まれた【純潔の神聖誓約】の焼印が眠っている。
神以外のいかなる男にも身を捧げてはならず、私情を抱いてはならぬ。破れば、心臓を灼く焔の罰が下る――。
厳格な戒律という名の鎖。
彼女は生涯、誰の手にも触れられず、誰の体温も知らぬまま、この冷たい石の床の上で磨り減って死んでいくのだ。
かつて、そうではない温もりを知っていたはずだった。
脳裏をよぎるのは、遠い過去の情景。
乾いた土の匂い。
スラム街の路地裏。
飢えに震えながら、泥のついた一切れの黒パンを半分に割って差し出してくれた、黒髪の少年。
『泣くなよ、エレナ。俺が強くなって、お前をこんな場所から出してやる。……絶対に、俺がお前を守るから』
無骨で、ひび割れていて、けれど暖炉の火のように温かかった、あの小さな手。
だが、その約束が果たされることはなかった。
十年前、稀代の魔力を見出されたエレナは神殿の騎士たちによって無理やり馬車に押し込められ、少年は泥の中に組み伏せられた。
それが、二人の世界の終わりだったはずだった。
(レオン……。あなたは今、どこで……)
呼ぶことすら許されない名を、心の中でだけ呟いたその時だった。
「――無様だな」
凍りつくような低い声が、静寂の回廊に鋭く響いた。
エレナの心臓が跳ね上がった。
咄嗟に聖衣の袖を引き下ろし、侵食斑を隠しながら顔を上げる。
月光が差し込む回廊の先、暗がりから一人の男が歩み出てくるところだった。
黒。すべてが漆黒だった。
光を吸い込むような黒曜石の甲冑。
漆黒のマントを翻し、腰には神殿直属の執行者たる証の片刃剣を佩いている。
隙のない足取りで近づいてくるその長身の騎士は、冷徹な死神の如き威圧感を纏っていた。
夜の闇を溶かしたような濡れ羽色の黒髪。
そして、彫りの深い美貌の中央で冷酷に光る、氷藍の瞳。
「……あ……」
声が掠れて出なかった。
十年。歳月は少年を、あまりにも峻厳で、近寄りがたい偉丈夫へと変貌させていた。
けれど、その眉の形、引き結ばれた唇の輪郭、そして何より魂を射抜くような鋭い眼光を、エレナが見間違うはずがなかった。
「レオン……?」
無意識に零れ落ちた幼き日の愛称。
しかし、男の眉は微動だにしなかった。
氷の瞳に侮蔑の色をわずかに滲ませ、男はエレナの三歩手前で足を止めると、儀礼的な、しかしこれ以上なく無機質な所作で右手を胸に当てた。
「黒曜騎士団長、レオンハルト・ヴァルクでございます。本日付で、聖女様の身辺警護の任を拝命いたしました」
冷たい声だった。
かつてエレナの涙を拭ってくれた少年の熱など、微塵も残っていない。
鋼の擦れ合うような硬質な響きが、二人の間の空間を断ち切るように落ちる。
「……レオンハルト、様……」
他人行儀な呼び方に言い直すと、胸の奥がきしりと痛んだ。
平民出の孤児が、名門貴族の巣窟である神殿直属騎士団の頂点に登り詰める
――それがどれほどの血を流し、泥水をすすり、他者を蹴落とす修羅の道であったか。
エレナには想像もつかなかった。
ただ、彼の放つ研ぎ澄まされた刃のような気配が、その壮絶な歳月を物語っていた。
「このような夜更けに、供回りも連れず回廊に座り込むとは。神の妻たる御身が、愚かにも自死を急ぐような真似はお慎みください」
「自死など……していません。私は、ただ……」
「言い訳は見苦しい」
レオンハルトは容赦なくエレナの言葉を遮った。
その歩み寄る足音に合わせ、黒革の長手袋がかすかに擦れる乾いた音が響く。
彼はエレナの前に影を落とすように立ちはだかり、見下ろした。
その視線は、まるで出来損ないの人形を検分するかのように冷淡だった。
「下級神官どもから報告は受けております。また分不相応な代償治癒を行い、自らの霊力を損耗させたとか。貴女の身体は、貴女一人のものではないはずだ。神殿の象徴が路傍でくたばっては、主上の計画に支障が出る」
「主上の……計画……」
「明日には王宮にて、王太子殿下との謁見がある。醜態を晒すことは許されません」
突き刺さる言葉の一つ一つが、代償の毒よりも深くエレナの心を抉った。
守る、とあのスラムの路地裏で誓ってくれた少年は、もうどこにもいない。
目の前にいるのは、王家と神殿の権力に忠誠を誓い、出世の階段を駆け上がった冷酷な騎士団長だ。
彼にとって自分は、かつて共にパンを分け合った幼なじみなどではなく、ただ監視し、管理すべき「神殿の所有物」に過ぎないのだ。
(分かっていたはずでしょう。私は神の妻。彼は神殿の剣……私たちが交わることなど、あってはならないのだから)
胸の奥を灼く痛みを、必死に信仰の仮面の下へと押し隠す。
ここで涙を見せることなど、誇りが許さなかった。
エレナは壁を支えに、震える脚に力を込めてゆっくりと立ち上がった。
「……ご忠告、感謝いたします、ヴァルク団長。ですが、私は神の恩寵を民に届けるのが役目。己の身を案じることなど、誓約に反します」
凛とした聖女の声音を取り繕い、真っ直ぐに彼の氷藍の瞳を見据え返した。
その瞬間、レオンハルトの瞳の奥で、微かに何かが揺らめいたように見えた。
だがそれはあまりにも一瞬で、すぐに底知れぬ冷淡さへと塗りつぶされた。
「……そうですか」
レオンハルトは低く呟き、無造作に左手を伸ばした。
漆黒の革手袋に包まれた指先が、エレナの顎へと伸びる。
(え――?)
避ける間もなかった。
革の冷たい感触が、エレナの顎を強引に上向かせる。
至近距離。
吐息がかかるほどの距離に、彼の整った顔が迫っていた。夜の冷気を孕んだ彼の匂いが、エレナの感覚を麻痺させる。
「なっ……何を……っ!」
聖女への無体な接触。
神聖冒涜罪に値する行為に、エレナの息が止まる。
心臓の奥の誓約の刻印が、微かな熱を帯びてチリチリと警告を発し始めた。
男の体温を感じてはならない、と。
だが、レオンハルトの手は厚い革手袋に覆われており、直接肌と肌が触れ合っているわけではなかった。
「顔色が紙のようだ。瞳の焦点も合っていない」
レオンハルトは冷徹な眼差しでエレナの顔を観察しながら、感情の籠もらない声で告げた。
その指先には、骨がきしむほどの力が込められている。
「神の恩寵だと? 欺瞞も甚だしい。貴女がやっていることは、ただの自己満足の浪費だ。己の命を削って他者に施し、聖女面をして悦に浸っているだけだ」
「っ……! 放して……ください!」
「死にたければ勝手に死ねばいい。だが、俺が警護を任された以上、俺の任務記録に汚点をつけるような死に方だけは許さん」
吐き捨てるように言うと、レオンハルトは乱暴に手を離した。
顎に残る革の冷たい感触と、彼が放った言葉の鋭利な毒に、エレナはよろめいて再び壁に背を預けた。
屈辱と悲哀で視界が滲みそうになるのを、唇を血が出るほど噛んで堪える。
「……下がってください。これ以上、私に触れることは許されません」
「言われずとも。貴女の寝室の扉の前までお送りするのが、俺の役目ですので」
レオンハルトは一歩退き、感情の消えた機械のような礼を執った。
エレナはそれ以上、彼と言葉を交わす気力を失い、震える足で歩き出した。
背後から、規則正しい重厚な足音が、一定の距離を保ってついてくる。
その距離が、今の二人の間にある埋めようのない深淵そのもののように感じられた。
自室の重い樫木の扉の前に辿り着き、エレナは振り返ることなくノブに手をかけた。
「……お引き取りを、ヴァルク団長」
「明朝六時、お迎えに上がります。遅殿なきよう」
扉が重々しい音を立てて閉まり、二人の視界を遮断した。
室内に入った瞬間、エレナの張り詰めていた糸が切れ、絨毯の上に崩れ落ちた。
「うっ……、く……っ」
抑え込んでいた代償治癒の毒が、一気に全身を駆け巡る。
激痛と、それ以上に胸を裂くような絶望感に、エレナは冷たい床を掻きむしりながら涙を零した。
あの瞳の中に、かつてのレオンはいなかった。
自分を蔑み、ただの道具として冷淡に扱う騎士の姿しかなかった。
十年間、心の片隅で縋り続けていた淡い希望――いつか彼が迎えに来てくれるかもしれないという幼い夢は、今夜、完全に打ち砕かれたのだ。
だが。
扉の向こう、静まり返った回廊に残されたレオンハルトの姿を、エレナは知る由もなかった。
黒曜騎士団長は、閉ざされた扉の前で一人、彫像のように立ち尽くしていた。
壁に背を預け、ゆっくりと右手を持ち上げる。
エレナの顎に触れていた、黒革の手袋。
その指先は――自制を失ったかのように、激しく震えていた。
「……馬鹿な女だ」
掠れた呟きが、闇に溶ける。
手袋越しに伝わってきた、彼女の尋常ではない熱と、微かな震え。
そして、聖衣の袖口から一瞬だけのぞいた、あの禍々しい紫黒の斑紋。
レオンハルトは氷藍の瞳を苦悶に歪め、自身の黒革の手袋を噛み締めた。
ギリ、と革が軋む音が鳴る。
(どれほど……どれほどその身を削れば気が済む。あの腐った神官どもに、骨の髄まで搾り取られるまで笑っている気か)
十年。
彼が剣を握り、返り血を浴び、汚れ仕事をすべて引き受けてこの地位まで這い上がってきた唯一の理由。
それは、神の生贄にされた少女を、あの白銀の檻から引きずり降ろし、奪い去るためだった。
だが、今の彼女の身体には、神の呪縛が深く根を張っている。
不用意に触れれば誓約が発動し、彼女を殺しかねない。
神殿の監視の目が光る中、わずかでも情を見せれば、エレナは即座に処刑台へ送られるだろう。
だからこそ、冷酷な獣にならねばならなかった。
彼女にどれほど憎まれようと、軽蔑されようと、決して本心を悟られてはならない。
「……死なせはしない」
レオンハルトは低く、呪詛のように呟いた。
扉の奥、微かに聞こえる嗚咽に耳を澄ませながら、彼は冷たい剣の柄を、砕けんばかりの力で握りしめた。
「神に渡すくらいなら――俺の手で、地獄へ堕としてでも奪い取ってやる」
闇の中、黒曜の騎士の瞳に、狂気にも似た執着の炎が静かに揺らめいていた。




