循環する命、真の奇跡
死の冷気が、男の指先から静かに這い上がっていた。
「……レオン……? 嘘でしょう、目を開けて……!」
泥と血にまみれた廃坑の石床の上で、エレナは膝をつき、抱きかかえた男の頬に自らの額を押し当てた。
肌と肌が直接触れ合っている。
かつては触れることすら許されず、心臓を灼く焔の罰をもたらした神聖誓約は、もうどこにもない。
けれど、直接触れ合う彼の頬は、外に降りしきる秋雨よりも冷たく、凍てつくように熱を失いかけていた。
レオンハルトの右の脇腹には、ジークフリートの細身のレイピアが、背中まで深く突き刺さったままだった。
刺突孔の周囲の皮膚は、神聖銀の致死毒によって黒紫に変色し、焼けただれたように煙を上げている。
そこから溢れ出る血はすでにどす黒く凝固しかけ、男の唇からは弱々しい血泡が絶え間なく零れ落ちていた。
浅い、途切れ途切れの呼吸。
トクン、……トクン、と。
エレナの胸に押し当てられた男の胸板の奥で、命の鼓動が、今にも消え入る蝋燭の灯火のように間隔を広げていく。
「抜かなきゃ……この刃を、抜かなきゃ……!」
エレナは震える両手を伸ばし、彼の脇腹に突き刺さる白刃の柄へと触れた。
金属の冷たさと、神聖銀特有の禍々しい霊気が、指先をピリピリと刺す。
このまま抜けば、傷口から夥しい大出血を引き起こし、それだけでショック死しかねない。
だが、刺したまま放置すれば、毒が心臓に達して全身の組織が完全に壊死する。
猶予は、数秒も残されていなかった。
「……エ……ラ……」
男の掠れた、息ともつかない微かな音が、エレナの耳朶を打った。
半ば焦点を失った氷藍の瞳が、薄く開かれ、泣きじゃくるエレナの顔を虚ろに捉えていた。
手袋のない、無骨な素手。
右手の甲に刻まれた薄紅色の火傷痕。
その手が、泥に汚れ、血に濡れながら、震える力でエレナの膝の布地を握りしめようとしていた。
「に……げ……ろ……」
男は途絶えそうな声で、血を吐きながら言った。
「城へ……行け……。あの男の……庇護を……受けろ……。俺のことは……置いて……」
この期に及んで。
命の最後の一滴が零れ落ちようとしているこの瞬間にすら、この男は自分を顧みず、ただエレナの生存だけを願っていた。
「馬鹿な人……っ!」
エレナの瞳から、大粒の涙が滝のように零れ落ち、レオンハルトの青白い頬を濡らした。
「置いていくわけがないでしょう! あなたを置いて、私一人でどこへ行けというの!? あなたがいなければ……世界中のどこへ行ったって、そこは冷たい檻と同じよ!!」
エレナは彼の右手を、自らの両手で強く、骨がきしむほどに握りしめた。
十年間、ずっと彼がエレナを守るために血を流し続けてきた。
身分差に引き裂かれ、神殿の冷酷な罠に嵌められ、幾重ものすれ違いと裏切りに苛まれながら――それでも、この男は泥水をすすり、命を削り、ただ一人でエレナを白銀の檻から奪い返してくれたのだ。
今度は、自分の番だ。
守られるだけの存在で終わるのではない。
愛する男の命を、この手で、この魂で、絶対に地獄の底から引きずり戻す。
(神よ……いいえ、神になど祈らない)
エレナの紫水晶の瞳から、迷いの色の一切が消え去った。
冷酷な神殿の神など、初めからこの男を救ってはくれなかった。
奇跡を搾取し、人間を生贄にする偶像など、この場所には一片の価値も持たない。
エレナは深呼吸をし、廃坑の湿った冷気を肺の奥深くまで吸い込んだ。
岩肌をつたう地下水。
天井を支える坑木の樹皮。
足元の泥の中に眠る、太古の鉱石と土の息吹。
(命は……奪い合うものではない。誰かが犠牲になって引き受けるものでもない)
神殿で教え込まれていた「代償治癒」の呪縛を、エレナは自らの魂の底から完全に切り捨てた。
他人の苦痛を我が身に引き受け、己を毒で満たすなど、まともな奇跡であるはずがない。
大地に雨が降り、草木が芽吹き、枯れ葉が土へと還るように――命とは、循環し、清められ、新しく紡がれるものなのだ。
「レオン……私を信じて」
エレナは右手をレオンハルトの脇腹のレイピアの柄へ、左手を彼の貫かれた胸元へと添えた。
「――っ、ふ……!!」
気合の一閃とともに、エレナは男の肉体を貫いていた神聖銀の刃を、一気に引き抜いた。
ドッ、と激しい鮮血が傷口から噴き出す。
レオンハルトの身体が激痛に大きく弓なりに反り、男の瞳が反転しかけた。
その瞬間。
「――目覚めよ、万物を育む大地の血潮よッ!!」
エレナの口から紡がれたのは、祝詞ではなく、生命への絶対の号令だった。
キィィィィン――ッッッッ!!
廃坑の闇が、一瞬にして真昼の光で満たされた。
エレナの両の手のひらから解き放たれたのは、これまでの蛍のような燐光ではなかった。
純白と淡い新緑の光が混ざり合った、目も眩むような巨大な生命の奔流。
光はレオンハルトの傷口を覆うと同時に、廃坑の岩肌、湿った土、そして地下水へと、無数の光の根となって張り巡らされた。
(大地よ……この人の命を支えて!)
エレナの意識を通じて、廃坑全体の大気の気、水脈の清冽な力、岩盤に眠る大地の鼓動が、一斉に逆流するように集まり始めた。
傷口から噴き出していた鮮血が、光の網に捕らえられて止まる。
そして、レオンハルトの体内を蝕んでいた神聖銀の紫毒が、エレナの肉体へ入ってくるのではなく――光の奔流に巻き込まれ、足元の泥の中へと、害のない土の養分へと還元され、霧散していく。
毒を己で背負うのではない。
大いなる自然の循環の渦へと放り込み、無力化し、浄化する。
「……あ……、ぁ……っ!」
エレナの全身を、清冽な風が吹き抜けた。
かつて代償治癒を使った際に走った、あの血管を灼き切るような激痛は、どこにもない。
左腕の素肌は透き通るように白いまま。
胸の奥に侵食の影すら生じない。
ただ、自らの肉体を「大地の恵みを仲介する器」とすることで、エレナの体内を通る霊力は、より純度を増し、神聖な輝きを放ち続けていた。
バキバキと、レオンハルトの体内で骨が結合する音が響く。
貫かれていた筋肉の繊維が、目に見える速度で網の目を編むように再生していく。
肺胞の裂傷が塞がり、壊死しかけていた血管が瑞々しい赤みを取り戻し、毒に侵されていた心臓の鼓動が、急速に力強いリズムを取り戻していった。
ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ――!!
廃坑の静寂を叩き割るように、逞しい心音の拍動が蘇る。
さらに、光の奔流は彼の左手――レイピアに貫かれて穴の開いていた掌をも包み込んだ。
焼けただれていた肉が剥がれ落ち、新しい健康な皮膚が覆い尽くしていく。
右手の火傷痕の炎症も鎮まり、戦いで負った全身の無数の裂傷が、まるで最初から存在しなかったかのように、傷痕一つ残さず消え去っていった。
「……は……っ、ふ……」
光が、ゆっくりと収束していった。
嵐のような霊気の渦が静まり、廃坑には再び、冷たい水滴の音だけが戻ってきた。
エレナは肩で激しい息をつきながら、両手をレオンハルトの胸元から離した。
疲労はある。
けれど、それは心地よい運動の後のような疲労感であり、かつてのように死線を彷徨う衰弱では決してなかった。
(治った……? 本当に……?)
エレナは自らの白い掌を見つめ、そして、倒れ伏す男の顔へと視線を落とした。
レオンハルトの顔色から、あの死人のような土気色は完全に消え去っていた。
健康的な血色が頬に戻り、引き結ばれた唇は赤みを帯び、規則正しい、深く穏やかな呼吸が、彼の逞しい胸板を力強く押し上げていた。
右脇腹の衣服には巨大な穴が開き、血がこびりついているが、その下の皮膚は、傷一つなく滑らかに塞がっていた。
「……レオン……?」
エレナが震える声で呼びかけた、その時だった。
スッ、と。
男の長い睫毛が震え、氷藍の瞳が真っ直ぐに開かれた。
濁りのない、冷徹で、けれど澄み切った青空のような光を宿した瞳。
「……エラ」
低く、力強い声が、静寂の坑道に響いた。
「レオン……ッ!」
エレナの胸から、堰を切ったように感情が溢れ出した。
彼女は我を忘れ、男の胸板へと自ら飛び込み、その首元に両腕を回して抱きついた。
ガシィッ、と。
受け止められた。
目覚めたレオンハルトの両腕が、エレナの細い背中に回され、骨がきしむほどの力で、自らの胸へと強く抱きしめ返したのだ。
幻ではない。
手袋のない、生身の男の腕。
力強く、熱く、何ものにも揺るぎない、本物の生命の体温。
「エラ……貴女、その傷は……代償は、どこへ行った……!?」
レオンハルトはエレナの身体を引き離すと、激しい焦燥の瞳で彼女の全身を検分した。
手袋のない素手が、エレナの左腕の袖を強引に捲り上げる。
白い素肌。
紫黒の侵食斑など、どこにも現れていない。
彼はエレナの胸元に耳を押し当て、その心音を確かめた。
狂乱の脈動も、呪いの熱も、一片たりとも存在しない。
「ない……。代償の毒が、どこにもない……」
信じられないものを見るように、男の瞳が激しく揺れ動く。
「ええ、ないわ」
エレナは涙を零しながら、優しく微笑んだ。
彼女は彼の手袋のない素手を――完全に穴の塞がった左手と、火傷痕の残る右手を、自らの両手でそっと包み込んだ。
「もう、痛みを我が身に引き受ける必要なんてないの。大地が……命の循環が、あなたの傷を癒してくれたわ。……私はもう、壊れかけの生贄ではないのよ、レオン」
「エラ……」
男の喉が、引き裂かれるように小さく鳴った。
彼は額を、エレナの胸元へと押し当てた。
逞しい背中が、目に見えて激しく波打ち、男の目からポロポロと熱い涙が零れ落ちて、エレナの衣服を濡らした。
十年間。
少女を救う力欲しさに剣を握り、人を殺し、冷酷な獣となって生き抜いてきた男。
彼女が代償の毒で磨り減っていく姿に怯え、いつか彼女を奪われ、死なせてしまう悪夢に苛まれ続けてきた男。
その魂を縛り続けていた、最後の呪縛が。
いま、この瞬間、完全に音を立てて砕け散ったのだ。
「……すまなかった」
レオンハルトは掠れた声で、子供のように泣きじゃくりながら言葉を絞り出した。
「貴女の手紙を読んで……俺は、狂ってしまっていた。……貴女を信じきれず、俺の手が汚れているから見限られたのだと……浅ましい絶望に逃げ込んでいた……」
「違うわ……謝らないで、レオン」
エレナは彼の濡れた黒髪に指を沈め、優しく抱きしめた。
「私こそ、ごめんなさい。あなたの愛の深さを信じきれず、あなたを一人残して逃げ出したりして……本当にごめんなさい。……あなたの手を汚らわしいなんて、一度だって思ったことはないわ。私のために傷ついてくれた、世界で一番誇らしい手よ」
レオンハルトは顔を上げ、濡れた瞳でエレナを見つめた。
視線が絡み合う。
触れ合う寸前の距離。
二人の間に、もはや身分差の壁も、神殿の戒律も、すれ違いの疑念も、何一つ残されていなかった。
「……二度と、俺の前から消えるな」
男の低く、狂おしいまでの囁き。
「ええ。もう二度と、あなたの手を離さないわ」
交わされた誓いとともに、唇が重ねられた。
激しく、熱く、互いの魂を確かめ合うような口づけ。
泥の匂いと、微かな血の味。
けれど、その奥にある男の熱い呼気が、エレナの口腔の隅々まで満たし、全身を甘美な痺れで震わせた。
レオンハルトの素手が、エレナの腰を引き寄せ、壊れ物を慈しむように、けれど二度と逃がさないと誓うように、力強く抱きすくめる。
素肌と素肌の触れ合い。
かつては禁じられていた体温の交歓が、いま、誰に咎められることもない真実の愛となって、冷え切った廃坑の闇を温かく溶かしていく。
唇が名残惜しそうに離れたとき、二人は額をコツンと合わせ、小さく笑い合った。
泥と血にまみれた、けれど世界で一番幸福な笑み。
その時だった。
パチパチ、パチパチ――。
静寂の坑道に、乾いた、冷ややかな拍手の音が響き渡った。
二人の身体が同時に反応した。
レオンハルトが瞬時にエレナを背後へと庇い、落ちていた長剣の柄に素手を伸ばす。
坑道の入口、崩落した瓦礫の陰から、漆黒の軍用マントを翻して歩み出てきたのは――。
銀灰色の髪に、冷徹な灰色の瞳を光らせた男。
帝国辺境伯、ヴォルフラム・フォン・クロイツだった。
その背後には、抜き身のサーベルを構えた数十名の帝国親衛兵が、完璧な包囲陣を敷いて坑道を埋め尽くしていた。
ヴォルフラムは足元に転がるジークフリートの亡骸を一瞥し、薄く口端を持ち上げた。
「……見事な幕引きだ。王国の狂犬どもを、たった二人で完全に片付けてくれるとはね」
冷徹な軍師の眼光が、完全に傷の塞がったレオンハルト、そして白銀の光の名残を宿すエレナへと注がれる。
「さて……約束の零時はとうに過ぎたが、契約の話の続きをしようか。……白銀の聖女殿」
新たな運命の扉が、夜明け前の闇の中で、重々しく軋みを開けようとしていた。




