帝国との契約
冷え切った地下の空気に、重厚な革靴の足音が規則正しく響いていた。
崩落した岩石の隙間から滑り込んできたのは、銀の飾緒を付けた漆黒の軍用マント。
その背後には、サーベルの鞘に手をかけた数十名の帝国親衛兵が、一切の足音を殺して扇状に展開し、抜き身の切先を無言で二人へと向けていた。
「……下がっていろ、エラ」
低く、地を這うような声。
レオンハルトが瞬時に立ち上がり、エレナの前に鉄壁の身体を滑り込ませた。
右手で握りしめた長剣の切先が、ミリ単位のブレもなくヴォルフラムの眉間へと向けられる。
手袋のない、無骨な素手。
右手の甲から手首にかけて刻まれた薄紅色の火傷痕が、再び戦闘の殺気とともに青筋を立てて浮き上がっていた。
「ヴォルフラム。貴様、最初から見ていたな」
レオンハルトの氷藍の瞳は、夜の氷壁のように冷徹だった。
足元に転がるジークフリートの亡骸。
そして散乱する暗殺隊の骸。
帝国軍の包囲があまりにも迅速で、一切の混乱もなく完了していること自体が、彼らがずっと以前から坑道の外に潜み、事態の推移を冷徹に監視していた動かぬ証拠だった。
ヴォルフラムは眉一つ動かさず、薄く嘲笑を浮かべた。
「当然だろう。王国の狂信者どもの牙を削るために、余が自ら泥を被る必要などどこにもない。……貴様という希代の凶刃が、勝手に奴らの喉笛を噛み千切ってくれると分かっていたからな」
悪びれもしない、徹底した冷血の論理。
ヴォルフラムは足元に転がるジークフリートの首の傷を一瞥すると、視線をゆっくりとレオンハルトの胴体へと移した。
そして――その怜悧な灰色の瞳の奥に、隠しようのない戦慄の光が走った。
衣服は引き裂かれ、血塗れになっている。
ジークフリートの神聖銀レイピアによって背中まで貫かれ、全身の血管が腐り落ちるはずだった男の右脇腹。
そこには、赤黒い返り血の汚れこそ残っているものの、貫通孔も、紫毒の爛れも、傷痕一つ存在していなかった。
それどころか、先ほどまで失血と毒で死人のようだった男の肌には瑞々しい血色が宿り、その全身からは周囲の兵を圧倒するほどの強大な生命の気が立ち上っている。
「……ありえないな」
ヴォルフラムの喉から、掠れた呟きが漏れた。
常に完璧な計算と合理性で物事を見据えてきた情報統括総監の仮面に、明らかな亀裂が入っていた。
「神聖銀の致死毒による心臓壊死。胸部貫通の致命傷……。帝国最高位の宮廷魔導師百人を集めて霊薬を注ぎ込もうと、助かる道理のない深手だ。……それを、わずか数分で完全に消し去ったというのか」
ヴォルフラムの視線が、レオンハルトの背後――静かに立ち上がる白銀の髪の女性へと注がれた。
「……これが、貴女の真の力か、エレナ様」
親衛兵たちが一斉にざわめき、切先を微かに震わせる。
死者を蘇生させるがごとき奇跡。
宗教的な迷信を嫌う帝国軍人たちにとって、それは信仰の対象ではなく、理解を超えた絶対的な「超常の脅威」そのものだった。
「剣を収めなさい、レオン」
静かな、けれど凛と澄み渡った声が、男の背後から落ちた。
エレナが、一歩前へ進み出た。
レオンハルトの逞しい肩にそっと手を添え、彼の前に並び立つ。
汚れきった灰色のワンピース、泥のついた素足、頬に残る打撲の赤み。
だが、その背筋は一本の白銀の槍のように真っ直ぐに伸び、紫水晶の瞳には、かつて神殿の豪奢な檻の中で見せていた憂いなど微塵も残っていなかった。
「エラ……」
レオンハルトが驚愕に眉を跳ね上げ、制止しようと手を伸ばす。
エレナはその手袋のない彼の素手を、自らの手で優しく、けれど断固たる力で押し留めた。
「大丈夫よ、レオン。もう……あなただけに刃を受けさせたりしない」
エレナは微笑み、ヴォルフラムの冷徹な眼光を真正面から見据え返した。
「約束の零時は過ぎました、ヴォルフラム閣下。……ですが、この状況を見届けてなお、私をただの逃亡者として捕縛するおつもりですか?」
ヴォルフラムの口端が、わずかに引き攣った。
百戦錬磨の軍師である男が、目の前に立つ華奢な女性の放つ圧倒的な威厳に、気圧されていた。
「……捕縛だと? そんな無駄骨を折る気はないさ」
ヴォルフラムは懐から、あの『特別任官契約書』の羊皮紙を取り出し、指先で弾いた。
「貴女の価値は、余の予想を遥かに超えていた。……この奇跡があれば、我が帝国軍は不滅となる。いかなる重傷兵も即座に前線へ復帰させ、死の概念すら書き換えることができるのだ。……契約を結ぼう、エレナ様。貴女に与える領地と富を、当初の十倍に引き上げても良い」
甘美な毒の誘惑。
国家の至宝として君臨し、富と権力を一身に浴びる約束。
だが、エレナは冷ややかに首を横に振った。
「お断りいたします」
「何だと……?」
ヴォルフラムの瞳がすっと細められた。
「私の力は、あなたの軍隊を不滅にするための兵器ではありません」
エレナの声は、迷いなく廃坑の闇を切り裂いた。
「先ほど私が起こした奇跡は、自然の摂理と大地の息吹を循環させた結果に過ぎません。誰かを無理やりに生かし、再び戦場へ送り出して他者を殺させるための道具ではないのです。……もし私を前線の医療拠点へ連れ出し、兵士を使い潰すための回復装置として酷使するおつもりなら、私は二度とその力を使いません」
「拒絶すればどうなるか、貴女にも理解できているはずだ」
ヴォルフラムの声が一段低くなり、周囲の親衛兵たちが一斉にサーベルの切先を突き出した。
冷たい鉄の気迫がエレナの肌を刺す。
だが、エレナは瞬き一つしなかった。
隣に立つレオンハルトの身体から、呼応するように爆発的な闘気が噴き上がり、足元の泥水を激しく波打たせる。
『一歩でも近づけば全員殺す』という無言の圧力が、親衛隊の切先を物理的に押し留めていた。
「脅迫は無意味です、閣下」
エレナは淡々と告げた。
「私を力ずくで檻に閉じ込めようとすれば、レオンハルトはあなた方を皆殺しにするまで止まらないでしょう。そして私もまた、自らの魂を閉ざして死を選ぶ。……あなたに残るのは、二つの死体と、永遠に失われた医療技術だけです。それは、合理主義者を自認するあなたにとって、最も受け入れがたい『損失』ではありませんか?」
痛烈なまでの論理の刃。
ヴォルフラムの眉がピクリと跳ねた。
国家の権威にも、軍隊の暴力にも怯むことなく、自らの価値と相手の弱点を正確に突いてくる。
かつて神殿に幽閉されていた無力な聖女の姿など、そこには欠片も存在しなかった。
愛する男を守るために覚醒した、誇り高く聡明な一人の生身の女性が、そこに立っていた。
ヴォルフラムは短く息を吐き出し、サーベルを構える部下たちへ軽く手を振った。
兵たちが困惑しながらも切先を下げる。
「……ほう。では、貴女は何を望むのだ? ただの薬草摘みとして、世界の片隅で朽ち果てる気か?」
「いいえ」
エレナは首を振った。
「取引をいたしましょう、ヴォルフラム閣下」
「取引だと?」
「ええ。対等な、契約です」
エレナは自らの胸元に手を当て、明確な条件を突きつけた。
「私はヴェルデンに留まり、アガサ先生の診療所、および帝国軍の指定する施薬院にて、帝国の医師たちに私の持つ薬草栽培と調合の技術を惜しみなく伝授いたします。黒咳病をはじめとする難病を根絶するための特効薬の製法も、すべて帝国に無償で公開しましょう」
「……何?」
ヴォルフラムの灰色の瞳に、真の驚愕が走った。
「奇跡を独占するのではなく、技術として体系化し、誰でも作れる形にして帝国全土へ広めるのです。そうすれば、私が戦場へ駆り出される必要はありません。帝国の医療水準そのものが底上げされ、年間数万の民と兵の命が救われるはずです。……これは、私一人を軍の檻に閉じ込めるよりも、遥かに莫大な国益となるはずですが?」
沈黙が、廃坑を支配した。
ヴォルフラムは言葉を失い、エレナの顔を凝視していた。
門外不出の神聖な秘術を、惜しげもなく「公の医学」として差し出すという発想。
神殿の長老たちも、王国の貴族たちも、決して持ち得なかった――真の慈愛と知性の融合。
「……面白い」
ヴォルフラムの口端から、かすかな感嘆の吐息が漏れた。
「技術の体系化と無償供与か。……確かに、貴女一人を拘束するよりも、帝国の医療制度そのものを掌握できる方が、国家にとっては計り知れない利益だ。……だが、その代償として、貴女は何を要求する?」
「条件は、三つです」
エレナは毅然と指を立てた。
「第一に、私とレオンハルトに、何者にも脅かされない帝国の正式な平民市民権を授与すること。過去の一切の素性を抹消し、王国のいかなる引き渡し要求も遮断すること」
「認めよう。余の権限で容易いことだ」
「第二に――」
エレナは隣に立つレオンハルトを見上げた。
彼の引き締まった横顔、そして手袋のない、傷だらけの無骨な素手。
「レオンハルトを、帝国のいかなる軍事組織にも組み込まないこと。彼を戦争の道具として徴募せず、他人の血で手を汚す任務を一切課さないこと。……彼は軍の特務護衛官などではなく、ヴェルデン郊外に開く私の薬草園の『私領守護騎士』として、完全な身分の自由を保障してください」
「エラ……」
レオンハルトの喉が、引き裂かれるように鳴った。
男の瞳が、激しい感情に揺れ動く。
彼女は自分の身の安全や富ではなく、レオンハルトを血塗られた修羅の世界から永遠に解放するために、この巨大な帝国軍と対峙しているのだ。
「……騎士団長の剣を眠らせろ、と?」
ヴォルフラムは苦笑交じりに肩をすくめた。
「王国最強の剣腕を、畑の番犬にするとは……なんという贅沢だ。だが……良かろう。この男が貴女以外の誰の命令にも従わない狂犬であることは、余も骨身に沁みて理解している。軍に組み込めば、いつ余の喉笛が噛み切られるか分かったものではないからな」
ヴォルフラムは承諾の頷きを返した。
「最後の条件は?」
「第三に、ヴェルデン郊外の湖畔に、土地と小さな家を下賜してください。……私たちはそこで、誰にも怯えることなく、一組の普通の夫婦として生きていきます。監視は最小限にし、私たちの私生活への干渉を一切禁じていただきます」
すべての条件が提示された。
それは、莫大な権力でも、豪奢な貴族の地位でもなかった。
ただ、互いの手を握り締め、自分の足で大地を踏みしめて生きていくための――ささやかで、けれど何よりも尊い「平穏の権利」。
ヴォルフラムは腕を組み、深く目を閉じた。
坑道に、水滴の落ちる音だけが響く。
数十秒の沈黙の後、男は目を開けた。
その灰色の瞳には、冷酷な軍師の色ではなく、一人の類まれなる指導者としての、相手への真摯な敬意が宿っていた。
「……完敗だな、白銀の聖女殿。いや……エラ女史とお呼びすべきかな」
ヴォルフラムは懐から万年筆を取り出すと、羊皮紙の条文の数箇所を迷いなく線で塗り潰し、エレナの要求通りの文言を流麗な文字で書き加えた。
そして、自らの指輪の印章を、赤蝋の上へと力強く押し付けた。
「契約は成立だ。……ヴェルデンの病院における医療改革の指導、楽しみにしているぞ」
差し出された羊皮紙を、エレナは両手で受け取った。
インクの匂いとともに、刻まれた帝国の国璽。
十年前のスラムから始まった、過酷な身分の檻。
神聖誓約の戒律、代償治癒の苦痛、そして国家の追撃――二人の魂を縛り続けていたすべての鎖が、いま、自らの手によって断ち切られたのだ。
「……感謝いたします、辺境伯閣下」
エレナが深く頭を下げると、ヴォルフラムは踵を返し、漆黒のマントを翻した。
「おい、野良犬」
去り際、ヴォルフラムは背中越しにレオンハルトへ声を投げかけた。
「貴様は世界で最も恐ろしく、最も誇り高い妻を持ったな。……せいぜい、その鋭い牙を研いでおくことだ。余の領内で、その女の髪一筋でも傷つける者が現れたなら、その時は貴様の暴力の出番だからな」
「言われずとも」
レオンハルトは低く応じ、長剣を鞘へと滑らかに収めた。
カチリ、と静かな金属音が鳴り、二人の間の殺気が完全に霧散した。
「撤収する!」
ヴォルフラムの号令とともに、親衛隊員たちが一斉に回れ右をし、暗闇の坑道へと消えていった。
静寂が、廃坑の最奥に戻ってきた。
*
「……終わったのね」
エレナの身体からふっと力が抜け、膝が崩れそうになった。
それを、逞しい両腕が正面から受け止めた。
ガシィッ、と。
レオンハルトの胸元へと倒れ込む。
男の心臓の力強い鼓動。
そして、手袋のない素手の熱い掌が、エレナの背中を、腰を、壊れ物を慈しむように包み込んでいた。
「エラ……」
男の声が、激しく震えていた。
彼はエレナの額に、自らの額を押し当てた。
混ざり合う吐息。男の氷藍の瞳から、大粒の熱い涙がポロポロと零れ落ち、エレナの頬を濡らした。
「なぜ……なぜ、俺のためにあそこまで……」
「言ったでしょう?」
エレナは涙を拭い、彼の頬に自らの両手を重ねた。
ざらりとした男の肌。
右手の火傷痕の温もり。
「私は、あなたと共に生きたいの。あなたが私を守ってくれたように……私も、私のすべてを使って、あなたを守りたかったのよ」
「……ああ」
男の喉から、切ない慟哭が漏れた。
彼はエレナの腰を引き寄せ、唇を重ねた。
深く、熱く、十年の苦悶と血の匂いをすべて洗い流すような口づけ。
舌先が絡み合い、互いの命の熱を確かめ合う。
もう、誰の目も怯える必要はない。
二人は、自らの意志と力で、自由な世界を勝ち取ったのだ。
「行こう、エラ」
唇を離したレオンハルトが、優しく微笑みながらエレナの手を握り締めた。
指と指が、隙間なく絡み合う。
「ええ、レオン」
二人は手を取り合い、廃坑の出口へと歩み出した。
崩落した瓦礫を乗り越え、外へと踏み出した瞬間――。
エレナの視界を、眩い光が満たした。
雨は、完全に上がっていた。
東の稜線の向こうから、黄金色の太陽が雄大に昇り始め、夜露に濡れたヴェルデンの山々を、一面の白銀と黄金の光で染め上げていた。
冷たく澄み切った朝の風が、二人の乱れた髪を優しく撫でて吹き抜けていく。
夜明けだ。
偽りの刃を捨て、神の檻を打ち砕いた二人の前には、どこまでも広大で、何者にも縛られない、真実の光に満ちた世界が広がっていた。




