孤狼の強襲
立ち込める硝煙と湿った粉塵の幕を、漆黒の殺気が鋭い刃のように切り裂いていた。
崩落した巨大な坑口の瓦礫を踏み砕き、男が一歩、前へ足を踏み出す。
引き裂かれたシャツ、雨と泥、そして彼自身の傷口から滴り落ちる赤黒い血。
装飾のない無骨な鋼の長剣を右手に提げ、微動だにしない氷藍の瞳は、地獄の底から這い上がってきた修羅そのものだった。
「レオン……ッ!」
木組みの支柱に縛り付けられたエレナの喉から、切迫した叫びが漏れた。
その姿を見た瞬間、レオンハルトの瞳の奥で、張り詰めていた狂気の炎が激しく爆ぜた。
「エラ……」
掠れた、低く震える男の声。
彼の視線は、エレナの裂かれた衣服から覗く胸元の血、そして殴られて赤く腫れ上がった頬の痕を正確に捉えた。
刹那、レオンハルトの全身から放たれる気圧が、目に見えて一段階跳ね上がった。
周囲の松明の炎が、彼の放つ漆黒の闘気に圧されて一斉に青白く縮み上がる。
「……貴様らか」
凍りつくような声が、廃坑の岩壁を揺らした。
「誰の許可を得て、その肌に傷をつけた」
「ひっ……!」
入口付近に控えていた二人の暗殺隊員が、本能的な恐怖に喉を鳴らし、思わず後ずさった。
破砕魔導具の爆発を真正面から浴び、何トンもの巨岩を自らの剣と肉体でへし折って突破してきた化物。
その生身の圧力は、人間の枠組みをとうに踏み越えていた。
「怯むなッ! 射殺せぇぇっ!!」
ジークフリートの濁った絶叫が、狭い坑道に響き渡った。
首の包帯から赤黒い血を滲ませ、男は狂乱の目で手下たちを叱咤する。
「左手をやられている! 間合いを取れ! 神聖銀の毒矢で蜂の巣にしろ!!」
号令とともに、二人の暗殺者が腰の対魔導クロスボウを一斉に構え、引き金を引いた。
バシュッ、バシュッ! と耳障りな発射音が重なる。
四本の鋼鉄の太矢が、空気を切り裂いてレオンハルトの心臓と両膝を正確に狙って飛翔した。
矢尻には、触れるだけで肉を腐らせる神聖銀の紫毒が塗布されている。
だが、レオンハルトは一歩も退かなかった。
ガギィィィンッ!
一瞬の閃光。
レオンハルトは右手の長剣を一閃させ、正面の二本を空中で叩き落とすと同時に、左半身をわずかに捻って三本目を紙一重でかわした。
そして、左太ももを狙った最後の一本――それを、彼は手袋のない左手、包帯の巻かれた掌で、飛来する矢のシャフトごと直接鷲掴みにして止めたのだ。
「なっ……素手で矢を……!?」
暗殺者が信じられないものを見る目で絶叫する。
メキリ、と乾いた木材のへし折れる音が鳴った。
レオンハルトは掴み取った矢を怪力で握り潰すと、泥を蹴って弾丸のように突進した。
速い。
傷を負った人間の動きではなかった。
瞬き一つの間に間合いを詰めたレオンハルトは、左側の射手の胸元へと踏み込み、手袋のない右手の肘を、相手の鳩尾へと真正面から叩き込んだ。
ドゴォッ!!
衝撃波が背中の衣服を突き破る。
胸骨を完全に粉砕された暗殺者が、血反吐を撒き散らしながら岩壁へと激突し、二度と動かなくなった。
「死ねッ!」
もう一人の暗殺者が、腰から抜いた神聖銀の短剣をレオンハルトの側頭部へ向けて突き出す。
だが、レオンハルトは身を屈めることすらせず、自らの左肩でその刺突を肉ごと受け止めた。
ザシュッ、と肉の裂ける鈍い音が響く。
肩に突き刺さった毒刃から、ジュッと白煙が立ち上り、劇痛が神経を焼く。
けれど、男の氷藍の瞳は眉一つ動かさなかった。
レオンハルトは刃が肩に刺さったまま、空いた左手の生身の五指で、敵の顔面を鷲掴みにした。
「ぎゃ……あ……っ!?」
手袋のない、固い胼胝に覆われた無骨な指先。
それが、敵の眼球と鼻梁を万力のような力で圧搾する。
レオンハルトはそのまま敵の巨躯を片手で持ち上げると、坑道の石床へと全力で叩きつけた。
ズドォォォンッ!!
頭蓋を粉砕された暗殺者が痙攣し、泥水の中に沈む。
わずか五秒足らず。精鋭二名が、物言わぬ骸へと変わっていた。
「バ、化け物……!」
エレナの監視に残っていた最後の暗殺隊員が、恐怖に顔を引き攣らせ、短剣を構え直した。
「動くな! 一歩でも近づけば、この女の首を掻き切る……!」
暗殺者がエレナの背後から手を伸ばし、その白銀の髪を掴もうとした――その刹那だった。
「――動くなと言ったのは、こちらです」
凛とした、澄んだ声が静寂を叩き割った。
エレナだった。
「な……っ!?」
暗殺者が息を呑む。
パチン、と乾いた植物の繊維が弾け飛ぶ音が重なった。
エレナは両手首と足首に巻かれていた荒縄を、自らの腕力で一瞬にして引きちぎったのだ。
注ぎ込み続けていた「純粋浄化」の力。
麻縄の内側の繊維を極限まで腐食させ、脆い枯草同然に変質させていたエレナの周到な準備が、いま完璧に結実した。
エレナは自由になった両手を素早く翻すと、背後の太い木組みの支柱――地下水とカビに覆われた松の丸太へと、両の素手の平を強く押し当てた。
(目覚めなさい……大地を支える、古き命の記憶よ!)
キィィィィン――ッ!!
エレナの掌から、目も眩むような純白の燐光が奔流となって坑木へと注ぎ込まれた。
かつてのように自らの肉体を傷つける代償ではない。
大地の霊脈と木々の残滓を共鳴させ、急速に組織を膨張・変形させる、真の聖女の力。
メキメキメキッッ!!
太い丸太の表面から、突如として無数の硬質な樹木の根が槍のように噴き出したのだ。
急成長した木の根は、エレナを襲おうとしていた暗殺隊員の全身を一瞬にして絡め取り、そのまま岩壁へと縫い付けるように拘束した。
「ぐわあああっ!? な、何だこの木は……動けん……ッ!!」
「レオンッ!!」
エレナは拘束を解いた支柱から駆け出し、泥まみれの床を踏みしめて叫んだ。
もはや、守られるだけの無力な人形ではない。
自らの足で立ち、自らの力で退路を切り拓き、愛する男の隣へと進み出る一人の生身の伴侶の姿が、そこにあった。
レオンハルトの瞳が見開かれた。
驚愕。
そして、泥と血にまみれながらも、白銀の髪をなびかせて自らの前に駆け寄ろうとする彼女の美しさに、男の呼吸が止まる。
「エラ……貴女……」
「話はあとです! 前を見て、レオン!!」
エレナの悲鳴のような警告が、空間を切り裂いた。
暗がりの奥から、凄まじい風切り音とともに、銀色の閃光が突進してきたのだ。
「――死ねぇぇぇぇッ、レオンハルトォォォッッ!!」
ジークフリートだった。
男は首の傷から夥しい血を吹き出しながら、神殿の禁忌薬『冥府の霊水』の暴走によって瞳を真っ赤に染め上げ、狂気の笑みを浮かべて跳躍していた。
その手にある細身のレイピアは、神聖銀の毒光を黒紫色の業火のように滾らせている。
速い。
常人の反射神経を遥かに超えた、命の前借りによる神速の刺突。
「レオン――ッ!!」
エレナが叫ぶ。
坑道の天井が低く、左右の空間も狭い。
完全な直線上の突き。
回避する隙間は、どこにも存在しなかった。
しかも、レオンハルトの左手は貫通傷で握力を失っており、左肩には先ほど受けた短剣の毒が回りはじめている。
(間に合わない……!?)
エレナの心臓が凍りついた。
だが――。
レオンハルトは、初めから躱す気など毛頭なかった。
「エラ」
突進してくる死の切先を前に、レオンハルトは小さく呟いた。
その声音は、驚くほど穏やかで、澄み切っていた。
「貴女の手紙を読んだ」
男は一歩、自ら前へ踏み出した。
「俺の手が汚れているから、去ったのだと……一瞬でも疑った俺を許してくれ」
「レオン……? 何を……避けて、レオンッ!!」
エレナの絶叫を置き去りにして、レオンハルトは自らの胸を――無防備な左胸を、ジークフリートの毒刃の前へと突き出したのだ。
ズブシュゥゥッッッッ!!!!
肉が裂け、肋骨が軋み、鋼が肉体を貫通する凄絶な音が、廃坑の岩壁に反響した。
ジークフリートのレイピアが、レオンハルトの右の脇腹――肺のすぐ下を、背中まで完全に貫通していた。
ドッと溢れ出る、騎士の熱い鮮血。
神聖銀の紫毒が、傷口の肉を一瞬にして焼き焦がし、ジュウジュウと嫌な音を立てて煙を立ち上らせる。
「ガ……ハッ……!」
レオンハルトの口から、大量の血泡が零れ落ちた。
「ぎゃははははッ! 刺したぞ! 貫いたぞ!!」
ジークフリートが狂乱の歓喜に顔を歪め、唾を撒き散らしながら叫んだ。
「神聖銀の致死毒だ! 五秒で全身の血管が腐り落ちる! 貴様の勝ち誇った人生も、これで終わりだ、レオンハルトォォォッ!!」
ジークフリートは剣を引き抜こうとした。
だが――抜けない。
「な……っ!?」
ジークフリートの瞳から、狂喜が急速に凍りつき、驚愕へと変わった。
剣が、ピクリとも動かないのだ。
レオンハルトが、自らの腹を貫くレイピアの刀身を、素手――包帯の巻かれた左手の素手で、骨ごと万力のように握り締めていた。
さらに、彼の屈強な腹筋が、刃を体内で締め付け、物理的に固定していたのだ。
逃がさない。
この男を、二度とエレナに近づけさせないための、己の肉体を肉の楔とした絶対の拘束。
「貴様……まさか、わざと……!?」
ジークフリートの顔から血の気が引いていく。
レオンハルトが、ゆっくりと顔を上げた。
血塗れの唇が、冷酷な三日月のように吊り上がっていた。
その氷藍の瞳に宿っていたのは、死を目前にした人間の恐怖などではない。
獲物の首を完全に捕らえた、孤狼の冷徹な笑みだった。
「言ったはずだ、ジークフリート」
低く、血の底から響くような男の声。
レオンハルトの右手――手袋のない、火傷痕の刻まれた生身の手が、鋼の長剣を力強く逆手に握り直した。
「エレナのいない世界に、何の価値がある」
「ひっ……!」
「彼女が俺の血塗れの手を恐れず、俺の隣に立とうとしてくれているんだ。……神だろうとお前だろうと、俺たちの邪魔をさせるものかよ」
「や、やめろ……! 助け……っ!」
ジークフリートがレイピアの柄を放し、悲鳴を上げて後ずさろうとした瞬間。
レオンハルトの長剣が、閃光となって下から上へと薙ぎ払われた。
ズバァァァァッッッッ!!!!
肉と骨、そして狂信に憑りつかれた魂そのものを両断する、圧倒的な一閃。
ジークフリートの胴体が、胸元から左肩にかけて斜めに一刀両断された。
吹き飛ぶ鮮血の奔流。
男の瞳から光が消え、上下に断ち切られた肉塊が、泥水の中へとドサリと崩れ落ちた。
絶命。
神殿の最後の亡霊は、自らが嘲笑った「スラムの野良犬」の刃によって、完全にその息の根を止められた。
静寂が、廃坑の闇を支配した。
松明の煤けた炎が、パチパチと小さく爆ぜる音だけが響く。
泥水の上に広がる、夥しい血の海。
「……ぐ……っ」
レオンハルトの巨躯が、糸の切れた人形のようにグラリと揺れた。
脇腹を貫通したままのレイピアから、ドクドクと赤黒い毒血が溢れ出し、男の膝が音を立てて石床へと崩れ落ちる。
「レオン――ッ!!」
エレナは泥を蹴り、滑り込むようにして倒れ込む男の身体を抱きとめた。
ガシャン、と重い音を立てて長剣が手から滑り落ちる。
レオンハルトの頭が、エレナの胸元へと力なく倒れ込んだ。
冷たい。
全身から吹き出す冷汗と、急速に失われていく男の体温。
貫かれた傷口の周辺の皮膚は、すでに紫色に変色し、血管が黒く浮き上がり始めていた。
神聖銀の猛毒が、心臓へと向かって凄まじい速度で侵食を始めている。
「レオン、しっかりして! レオン……ッ!」
エレナは泣き叫びながら、彼の手袋のない素手を――火傷痕の残る右手を、自らの両手で強く抱きしめた。
男の睫毛がかすかに震え、焦点の合わない氷藍の瞳が、薄く開かれた。
彼は吐血しながら、震える指先を微かに動かし、エレナの濡れた頬へと伸ばした。
血で汚れた、無骨な素手。
今度は、エレナは身を引かなかった。
彼女は自らその血塗れの掌へと頬をすり寄せ、大粒の涙をポロポロと彼の肌へと零した。
「……逃げ……なかった、な……」
掠れた、途切れ途切れの吐息。
男の唇が、痛々しいほど弱々しく、けれど心底愛おしそうに綻んだ。
「当たり前でしょう……! 逃げるわけがないじゃない! あなたを置いてどこへ行けというのよ……!」
エレナは彼の胸板に顔を埋め、慟哭した。
「ごめんなさい……手紙なんて書いて、本当にごめんなさい! あなたの手を汚らわしいなんて、一度だって思っていない! 私のために傷ついていくあなたを見るのが怖かったの……でも、もう絶対に離れない! 地獄の底まで、あなたと一緒に行くわ!!」
レオンハルトの指先が、エレナの涙を優しく拭おうとして、力なく滑り落ちそうになった。
「……よかった……。貴女が……俺の隣に、いてくれるなら……」
男の瞳から、すっと光が失われかける。
呼吸が浅く、途絶えそうになり、首筋の脈動が急速に弱まっていく。
「駄目……! 目を開けて、レオン!!」
エレナの叫びが、地下の闇に木霊した。
死なせない。
十年前の路地裏から、ずっと自分だけを守り続けてくれたこの男を、こんな冷たい泥の底で終わらせてたまるものか。
エレナの紫水晶の瞳に、かつてない強烈な光が灯った。
彼女は自らの両手を、レオンハルトの胸元――毒に侵され、貫かれた傷口へと強く重ねた。
大地の息吹。
草木の命。
いま、真の聖女の奇跡が、二人の愛のすべてを懸けて覚醒しようとしていた。




