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背徳の檻に咲く白銀 ~神の妻となった聖女は、冷酷な守護騎士の偽りの刃に抱かれる~  作者: 白狸
【第2章】偽りの平穏と白銀の覚醒 ~追憶の刃は再び愛を刻む~
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囚われの覚醒

冷たい水滴が、額へと不規則に落ちていた。


ピチョン、ピチョンと、頭蓋の芯に直接響くような硬質な音。


鼻腔を突いたのは、濃厚な鉄錆の匂いと、腐った木材、そして淀んだ地下水の饐えた悪臭だった。


(……ここは……?)


エレナの意識が、薬品による深い霧の底からゆっくりと浮上した。


激しい頭痛と吐き気がこみ上げる。


身じろぎをしようとした瞬間、両手首と胴体に食い込む荒い麻縄の摩擦が、皮膚を引き裂くような痛みを走らせた。


目を開けると、そこは完全な暗闇ではなかった。


壁に突き刺された数本の松明が、煤けた赤黒い炎を上げており、湿り気を帯びた岩肌を不気味に照らし出している。


見上げるほど高い天井には、腐食しかけた松の丸太が縦横に組まれ、地下水が岩肌をつたって黒い筋を作っていた。


旧帝国の廃坑――。


かつて銀を掘り尽くして放棄された、迷宮のような地下坑道。


エレナは背中を太い坑木の支柱に押し付けられ、両手を背骨の後ろで硬く縛り上げられていた。


足首も石床に打ち込まれた鉄環に縄で繋がれており、指先一つ動かすことすらままならない。


「……目覚めたか、偽りの聖女殿」


暗がりの奥から、擦れ切れた、耳障りな声が響いた。


まるで破れたふいごから漏れ出る空気のような、不快な雑音を含んだ声。


カツン、カツンと足音を響かせて現れたのは、泥と血にまみれた男だった。


ジークフリート。


その姿は、かつて王国の神殿で冷酷な気品を誇っていた執行隊長のものとは、見る影もなく変わり果てていた。


首元には、何重にも巻きつけられた麻布が生々しい赤黒い血で濡れそぼり、呼吸をするたびに傷口からヒュー、ヒューと気管の鳴る音が漏れている。


顔色は死人のように土気色で、充血した両目は眼窩の奥で血走っており、異様な熱を帯びてギラギラと爛れていた。


「……ジークフリート……様……」


エレナの唇から、掠れた声が漏れた。


やはり、生きていたのだ。


あの凄絶な雨の夜、レオンハルトに首を切り裂かれながら、この男は執念だけで生き延びていた。


ジークフリートは口端を吊り上げ、歪な笑みを浮かべた。


だが、その笑みは首の傷を刺激するらしく、男は顔を苦悶に歪め、喉元を手で押さえながら咳き込んだ。


「ゴホッ、ゲホッ……! 驚いたか……? 神殿の秘薬……『冥府の霊水』を三本、一気に煽ってな……。心臓を無理やり動かし、この傷を塞いだのだ……。貴様らの……首を持ち帰るまでは……地獄の底からでも這い戻ってやる……!」


男の周囲には、生き残った三名の暗殺隊員が、無言のまま抜き身の毒刃を下げて控えていた。


その切先からは、紫の毒液がポタポタと石床に滴り落ち、鉱毒を含んだ水溜まりと混ざり合っている。


「なぜ……」


エレナは縛られた手首に爪を立て、痛みに耐えながらジークフリートを睨みつけた。


「なぜ、そこまでして私たちを追うのですか……! 王太子殿下は失脚し、北方結界の真実も白日の下に晒されたはずです! 神殿の権威が地に堕ちた今、私やレオンハルトを殺したところで、あなたに何の栄華が残るというのです!?」


「黙れッ!!」


怒号とともに、ジークフリートの右手が振り抜かれた。


パァンッ――ッ!!


激しい衝撃と破裂音が、廃坑の岩壁に反響した。


エレナの顔が横へ弾かれ、口端からプツリと赤い鮮血が飛び散る。


頬に灼けるような激痛が走り、乱れた白銀の髪が目元を覆った。


「栄華だと……? 金や地位のために、俺が貴様らを追っているとでも思っているのか!?」


ジークフリートはエレナの髪を乱暴に掴み上げ、無理やり自らの顔へと引き寄せた。


至近距離。


男の口から放たれる、腐敗した血と劇薬の饐えた匂いが、エレナの鼻腔を痛烈に刺激する。


「貴様らの存在そのものが、俺への侮辱なのだよ!!」


ジークフリートは首の包帯を血で滲ませながら、狂乱の瞳で叫んだ。


「俺は名門公爵家の血を引き、幼少より神殿の厳しい戒律に身を捧げてきた! 感情を殺し、私欲を捨て、神の絶対の刃として生きてきたのだ! ……それなのに、なぜだ!? なぜ、あのスラムの野良犬風情が俺の頭上に立ち、黒曜騎士団長の座を奪ったのだ!!」


「っ……!」


「あいつは神など信じていなかった! 神殿の法も、主君への忠誠も、すべて嘲笑いながら……ただ貴様という女一人のためだけに、あの地位を奪い取ったのだ! そして貴様もそうだ……! 神の妻として生涯の純潔を誓ったはずの身でありながら、あの野良犬に情を通じ、戒律を泥の中に踏みにじった!!」


ジークフリートの指先が、エレナの髪を引きちぎらんばかりに締め上げる。


「許せん……! 俺が信じてきた神殿のすべてを、神の正義を、下賤な孤児どもの情欲ごときで汚されてたまるものか!! 貴様らは、俺の目の前で最も残酷な苦痛に喘ぎながら、自らの罪を神に詫びて死なねばならんのだ!!」


狂信。


そして、名門貴族としての肥大化した自尊心を、平民の少年に完膚なきまでに叩き潰されたことへの、醜悪なまでの嫉妬。


この男を動かしていたのは、信仰などではなかった。


己の空虚な人生を正当化するための、怨嗟と劣等感の塊だったのだ。


エレナの視界の端から、血の混じった涙が一筋、頬をつたって零れ落ちた。


けれど。


殴られた痛みの中でも、エレナの心は不思議なほどに冷徹だった。


(……この人は、可哀想な人だわ)


神殿という名の巨大な檻に囚われ、自分の心すら見失い、他者を憎むことでしか自らを保てない亡霊。


かつての自分も、一歩間違えれば、この男と同じように「神の妻」という虚飾の檻の中で、心を殺して死んでいくところだった。


だが、自分は違った。


あの泥だらけの少年が、自らの魂を地獄に売り渡してまで、自分を引きずり出してくれたのだ。


――俺の手が、汚れていたから……。


――貴女の手を、俺の血で汚すな。


脳裏に蘇るのは、雨の中、絶望に打ちひしがれて自らの素手を見つめていた、レオンハルトの痛々しい姿だった。


(私は……何ということをしてしまったのだろう)


胸の奥が、激しい悔恨で引き裂かれそうになる。


彼の手を恐れたのではない。


彼が自分のために人殺しになっていく姿を見るのが辛くて、彼をこれ以上傷つけたくなくて、逃げ出したのだ。


けれど、その結果はどうだ。


彼を一人残し、置き手紙一つで突き放した自分の行動は――十年間、命のすべてを懸けて愛し続けてくれた男の心を、誰よりも残酷に切り裂いてしまったのではないか。


『私を探さないで』


あの残酷な言葉を読んだとき、彼はどれほどの絶望の底へ叩き落とされただろう。


自分を信じ、自分の手を求めてくれた唯一の光に、自ら背を向けてしまったのだ。


「……ふふ……」


乾いた、微かな笑いがエレナの唇から零れた。


ジークフリートが怪訝そうに眉を跳ね上げ、エレナの顎を掴み直した。


「何がおかしい、魔女め。恐怖で狂ったか?」


「おかしいのは……あなたよ、ジークフリート様」


エレナは血の滲む唇を拭うこともせず、白銀の乱れ髪の隙間から、紫水晶の瞳で真っ直ぐに男を見据え返した。


その瞳には、かつての大聖堂で魔女として告発された時の絶望も、処刑台の上で死を待っていた無気力もなかった。


そこにあったのは、揺るぎない覚悟と、澄み切った誇りだった。


「あなたがどれほど神の正義を叫ぼうと、あなたの心には一片の愛もない。……レオンハルトは、違います。あの人は、神殿の欺瞞を誰よりも見抜き、ただ一人、世界中の誰よりも純粋に、私という生身の人間を愛してくれた」


「貴様……ッ!」


「私の体には、もう神聖誓約の刻印などありません。神の妻でも、生贄の聖女でもない。……私は、レオンハルト・ヴァルクの妻です。あなたの薄汚れた復讐心ごときで、私たちの愛を汚せると思わないで!」


凛とした声が、廃坑の岩肌を震わせた。


ジークフリートの顔が、屈辱と激怒で真っ赤に沸騰した。


「この……淫売の魔女がぁっ!!」


男は腰から細身の短刀を引き抜き、その冷たい切先をエレナの胸元――衣服の襟元へと突き刺した。


布地が裂け、白い鎖骨の素肌が剥き出しになる。


切先が皮膚に食い込み、タラリと一筋の鮮血が胸元をつたう。


「思い上がった口を利くな! あの男がここへ現れた瞬間、貴様の四肢の腱を一本ずつ断ち切ってやる! 貴様の悲鳴を聞きながら、奴が狂乱して罠に飛び込み、無様に肉片となる様を特等席で見せてやるわ!!」


ジークフリートは短刀を引き抜き、荒い息を吐きながら背後の部下たちへと怒鳴り散らした。


「坑道の入口に感応式の破砕魔導具を敷設しろ! 奴が入ってきた瞬間、天井ごと岩石で押し潰す! 生き残ったとしても、足止めされたところへ毒矢の一斉掃射を浴びせろ!!」


「ハッ!」


二名の暗殺者が頭を下げ、坑道の入口へと駆け戻っていく。


ジークフリートは残る一名をエレナの監視に残し、自らは入口の陰に身を潜めて、雨の闇をじっと睨み据えた。


(……レオン)


エレナは背中の支柱に頭を預け、目を閉じた。


胸元の切り傷から、チクチクとした痛みが広がる。


だが、その痛みは、エレナの魂を覚醒させるための呼び水にしかならなかった。


(もう、待っているだけの私じゃない)


エレナは意識を自らの身体の内側、そしてこの廃坑の大地へと沈めていった。


神殿にいた頃、エレナの力は「他人の苦痛を我が身に招き入れる代償」だった。


けれど、あの街で子供を救ったとき、そしてヴォルフラムの言葉を聞いたとき、エレナは自らの能力の真の姿を知ったのだ。


大地と草木の生命力を引き出し、循環させる力――『純粋浄化』。


エレナは背中の後ろで固く縛られた両手の手のひらを、支柱の木肌へとそっと押し当てた。


腐食しかけた、冷たく湿った松の丸太。


地下水に濡れ、青黒いカビと苔に覆われた、死にかけた樹木の残滓。


(……息吹を……思い出して)


エレナの魂の核から、極微細な、目に見えない霊力の波が、指先を通じて坑木へと染み込んでいった。


光は出さない。


敵に悟られぬよう、波長を極限まで抑え込み、ただ植物の繊維へと語りかける。


カビと苔が、エレナの霊力を吸って、微かに脈打った。


そして、エレナの手首を締め上げている荒縄――植物の麻から編まれた繊維へと、霊力が逆流していく。


ギチ、ギチ……と。


目に見えない速度で、麻の繊維が内側から急速に分解され、腐食し、脆い植物の糸へと変質していく。


手首に力を込めれば、いつでも引きちぎれるほどに、縄の張力が失われていくのが分かった。


さらにエレナは、廃坑の岩盤をつたう冷たい地下水へと、霊力の波を伸ばした。


岩の隙間に根を張る無数の微細な菌糸、地下水に含まれる鉱物の気、そして頭上を支える坑木の梁。


この廃坑全体が、エレナの研ぎ澄まされた感覚の中で、一本の巨大な生命の樹のように輪郭を現していく。


(レオン……聞こえる?)


胸の奥で、強く、強く祈る。


(あなたの手は、汚れてなんかいない。私のために血を流してくれた、世界で一番誇らしくて、温かい手よ。……もう二度と、あなたを一人にしない。二度と、あなたの手を離さないわ)


その時だった。


ヒュオオオオッ……と。


雨風の音に混ざって、廃坑の奥深くへ、かすかな冷気が吹き込んできた。


ピタリと、水滴の落ちる音が止まったかのような錯覚。


監視に立っていた暗殺隊員が、不意に息を呑み、腰の剣へと手を伸ばした。


入口の岩陰に潜んでいたジークフリートの背中が、目に見えて強張る。


「……来たか」


ジークフリートの掠れた呟きが、静まり返った廃坑に響いた。


闇の向こう。


坑道の入口から、カツン、カツンと、硬質な足音が近づいてくる。


それは、罠を警戒する者の足音ではなかった。


身を隠そうとする気配すら、微塵もない。


ただ真っ直ぐに、障害となるすべてを踏み砕いて進む、死神の歩調。


ドォォォォォンッ!!


突如として、坑道の前半部分で凄まじい爆発音が轟いた。


ジークフリートが仕掛けさせた感応式の破砕魔導具が、一斉に炸裂したのだ。


天井が崩落し、何トンもの巨岩が轟音とともに崩れ落ちる振動が、エレナの背中の支柱を激しく揺さぶる。


「くく……掛かったぞ! 岩石に押し潰されたか、あるいは……」


ジークフリートが歓喜に顔を歪めた、その瞬間だった。


ズバァァァッッ!!


爆発の煙と粉塵の幕を、漆黒の斬撃が一刀両断に切り裂いた。


吹き飛ばされたのは、何百キロもある巨大な落石だった。


真っ二つに両断された巨岩が左右の壁に激突して砕け散る中、煙の奥から歩み出てきたのは――。


泥と雨水に濡れそぼり、全身から紫黒の闘気を立ち上らせた、一人の男だった。


黒曜の甲冑はない。


濡れた漆黒の髪。


引き裂かれた無地のシャツ。


手袋のない、無骨な素手。


その両の手のひらには、彼自身の傷口から滴る生温かい鮮血と、砕けた岩石の破片が握りしめられていた。


そして、その氷藍の瞳。


光の一片すら通さない、地獄の底よりも昏い殺戮の猛炎が、廃坑の闇を青白く焼き焦がしていた。


「――エレナを、返してもらおうか」


低く、空気を震わせる獣の咆哮が、死の坑道を満たした。

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