冷たい雨と、偽りの別離
夜の雨は、中庭に散乱する十五の骸から立ち上る血の匂いを洗い流すこともできず、ただ重く、暗く、石畳を叩き続けていた。
割れた窓から吹き込む冷気が、室内の蝋燭の炎を激しく揺らしている。
台所の片隅、古い木製スツールに座らされたレオンハルトは、項垂れたまま微動だにしなかった。
「……動かないで。すぐ、縛るから」
エレナの震える声が、狭い台所に落ちる。
彼女は床に膝をつき、水盆の水で血を洗い流しながら、清潔な麻布をレオンハルトの左手へと巻きつけていた。
貫通傷。
レイピアの白刃に貫かれた男の掌は、真ん中に親指大の穴が開き、皮膚が焼けただれたように赤黒く裂けていた。
常人ならば激痛で気を失うほどの深手。
だが、レオンハルトは眉一つ動かさず、ただ虚ろな氷藍の瞳で、濡れた床板の一点を見つめ続けていた。
手袋のない素手。
傷口を覆うエレナの白い指先が、生温かい男の血に染まっていく。
エレナは体内に残るわずかな霊力を呼び起こし、掌の上にそっと重ねた。
(塞がって……お願い、傷を塞いで……!)
祈りとともに、エレナの掌から淡い白銀の燐光が滲み出る。
大地と草木の気を編み込んだ、純粋浄化の力。
裂けた筋肉が蠢き、血管が収縮し、ドクドクと溢れ出ていた出血が急速に止まっていく。
だが、神聖銀の毒刃に貫かれた傷は深く、肉を完全に再生させるには至らない。
「……もう、いい」
低く、乾ききった声が頭上から降ってきた。
レオンハルトが、自らの左手を強引に引き戻したのだ。
まだ完全に包帯を巻き終えていない手が、エレナの指先から滑り落ちる。
「レオン、まだ固定が終わって……」
「触るな」
短い、拒絶の言葉。
エレナの息が止まった。
レオンハルトは顔を上げない。
濡れた濡れ羽色の黒髪が顔を覆い隠し、その表情を窺い知ることはできなかった。
だが、その引き結ばれた唇は白く乾き、顎の筋肉が引き攣るように痙攣していた。
「……汚れる」
男の喉から絞り出されたのは、あまりにも痛々しい、掠れた呟きだった。
「貴女の手を……俺の血で汚すな。……先ほど、引いただろう」
「え……」
「俺が手を伸ばした時……貴女は、身を引いた」
レオンハルトは自らの右手――包帯が赤黒く染まり、敵の返り血で汚れた素手を持ち上げ、忌々しそうに見つめた。
その指先が、カタカタと震えている。
「当然だ。十五人の首を刎ね、目を潰し、喉を裂いた……化物の手だ。こんな血生臭い手で触れられて、気味の悪い思いをさせたな」
自嘲の笑みが、男の口端に歪に刻まれる。
それは怒りではなかった。
自らの存在のすべてを否定された男の、底知れぬ絶望の響きだった。
「違う……! 違うの、レオン!」
エレナは叫び、彼の膝にすがりつこうとした。
「私はあなたを恐れたんじゃない! あなたの手を汚らわしいなんて、一度だって思ったことはないわ! 私が恐れたのは……」
「もういい」
レオンハルトは低く遮り、立ち上がった。
足元がわずかによろめく。
左手の激痛と、失血、そして何より魂を削るような戦闘の疲労が、王国最強の騎士の肉体を確実に蝕んでいた。
「俺の手がどれほど汚れようと、俺は貴女を守る。……明日、夜明け前にこの街を出る。荷物をまとめておけ」
背中を向け、男は軋む木製階段を上り、二階の寝室へと消えていった。
重い扉が閉ざされる音。
そして、ベッドの上に巨躯が倒れ込む気配が、天井の床板を通じて微かに伝わってきた。
台所に、エレナは一人、取り残された。
*
シンと静まり返った部屋の中で、エレナは血で赤く染まった水盆を見つめていた。
水面に映る自分の顔は、幽霊のように青白く、絶望に歪んでいた。
――貴様が騎士団長を騙っていた間、俺がどれほど屈辱を味わったか。
――呪われろ……。お前があの男を、地獄へ引きずり込んでいる……。
死の間際にジークフリートが吐き捨てた呪詛が、耳の奥で何度も、何度も木霊する。
(私のせいだ……。本当に、私のせいなのだわ)
エレナは自らの胸元を強く抱きしめた。
神聖誓約の消え去った胸の奥が、かつての激痛よりも深く、冷たく疼いている。
レオンハルトは、エレナを守るために自らの手を血で染め続けている。
敵を殺し、傷を負い、そのたびに「自分は汚れている」と己を呪い、絶望の深淵へと堕ちていく。
彼が求めているのは、エレナの安全だけだ。
そのためなら、彼は全世界を殺戮し、自らが怪物に成り果てることすら厭わない。
だが――その先に、何があるというのか。
極北の雪山へ逃げ、二人だけで息を潜めたとして、彼の手から血の記憶が消えることはない。
追手が来るたびに彼は人を殺し、自らの魂を削り、やがて完全に狂気の中へと呑み込まれていくだろう。
(あの人を……救わなければならない)
エレナの紫水晶の瞳に、悲壮な光が宿った。
レオンハルトの手を汚している元凶は、自分自身なのだ。
自分が彼の隣にいる限り、王国はどこまでも暗殺者を放ち続け、彼に人殺しを強要し続ける。
彼をこの血塗られた地獄から救い出す方法は、たった一つしかなかった。
エレナは静かに立ち上がり、台所の棚から一枚の羊皮紙と、インク壺を取り出した。
ペンを握る指先が、微かに震える。
涙が一滴、紙の端へと零れ落ち、インクを丸く滲ませた。
『愛している、レオン。
私の命よりも、世界の何よりも、あなたを愛しています。
だからこそ、これ以上あなたに誰かを殺させたくない。
私のために、あなたが悪魔になっていく姿を、私はもう見ていられません。
どうか、私を探さないで。
あなたの手を汚してしまった私を、許してください。
あなたがいつか、血の匂いのしない、本物の光の中で笑える日が来ることを、心から祈っています』
震える文字で書き終えた手紙を、エレナはテーブルの中央、あの安物の押し花ロケットの隣へとそっと置いた。
十年前、スラムで彼に手渡した、真鍮のリンドウのロケット。
これだけは、持っていくわけにはいかなかった。
これは、汚れを知らなかった頃の二人の、無垢な誓いの残滓なのだから。
エレナは質素なウールの外套を羽織り、深くフードを被った。
足音を忍ばせ、二階の寝室の扉の前へと歩み寄る。
扉の隙間に耳を澄ますと、部屋の奥から、失血と疲労によるレオンハルトの重苦しい寝息が聞こえていた。
昏睡に近い眠り。
左手の傷の痛みを散らすため、エレナが先ほど調合した鎮静の薬草茶が、彼の意識を深く沈めているはずだった。
(さようなら、私のレオン……)
エレナは扉の木肌に、そっと額を押し当てた。
涙がとめどなく溢れ出し、冷たい木を濡らす。
(私の夫になってくれた人。私のために、神を殺してくれた人。……どうか、生きて)
エレナは踵を返し、音もなく玄関の扉を開けた。
夜の冷たい雨が、容赦なく彼女の全身を打ち据える。
彼女は一度も振り返ることなく、暗闇の旧市街の路地へと駆け出していった。
目指すのは、街の北にそびえる「氷狼城」。
ヴォルフラム・フォン・クロイツの元へ単身で出頭し、帝国の軍医監としての契約書にサインをする。
自らが帝国の檻に入ることと引き換えに、レオンハルトに対する完全な自由と不可侵を買い取る――それが、エレナが選んだ、愛する男への最後の代償だった。
*
雨脚が、さらに強まっていた。
泥水が川のように流れる旧市街の石畳を、エレナは外套の裾を濡らしながら必死に走り続けていた。
だが――。
大通りへと抜ける薄暗い路地の曲がり角に差し掛かった、その時だった。
カサリ、と。
雨音の隙間を縫って、耳障りな衣擦れの音が響いた。
エレナの足が止まった。
背筋に、氷水を流し込まれたような悪寒が走る。
闇の奥、崩れかけたレンガ塀の影から、ぬらりと姿を現した影があった。
泥と汚水にまみれた、破れ鐘のような黒外套。
その男の首元には、肉が裂け、赤黒い血が凝固した生々しい傷跡が刻まれていた。
先ほど中庭で、レオンハルトの刃によって喉笛を両断されたはずの男――ジークフリート。
「……あ……っ!?」
エレナの喉から、短い悲鳴が引き裂かれた。
生きていた。
神殿の秘薬によって仮死状態を装っていたのか、あるいは頸動脈の直撃を奇跡的に免れていたのか。
男は傷口を左手で乱暴に押さえつけ、血走った目を狂乱のように見開いて、エレナを見下ろしていた。
「……見つけたぞ……聖女様……」
喉が潰れ、擦り切れたような声。
男の右手には、紫の毒が滴る細身のレイピアが握られていた。
「逃げられると……思ったか……? あの野良犬の元を……自ら離れてくれるとはな……くく……神の御加護だ……」
「来ないで……!」
エレナが踵を返して逃げ出そうとした瞬間、背後の暗がりから、さらに二人の残党が音もなく飛び出してきた。
冷たい布が、エレナの口と鼻を強引に塞ぐ。
「ん……っ、む……!?」
刺激的な薬品の匂いが鼻腔を突いた。
意識が、急速に白濁していく。
手足の力が抜け、視界がぐるぐると回転する。
「連れて行け……氷狼城近くの……あの廃坑だ……」
ジークフリートの掠れた声が、遠のく意識の向こうで響いた。
「あの男を誘き出し……目の前で貴様を切り刻んでやる……」
エレナの身体が崩れ落ち、暗闇の中へと引きずり込まれていった。
冷たい雨水の中に、彼女が落とした外套の留め金だけが、虚しく沈んでいった。
*
ガタッ、と。
二階の寝室で、レオンハルトの意識が唐突に浮上した。
「……っ!」
激しい動悸とともに、男は跳ね起きた。
左手の掌に、焼けるような激痛が走る。
額には脂汗がびっしりと浮かび、呼吸は荒く乱れていた。
胸騒ぎ。
魂の芯を、氷の杭で貫かれたような、耐え難い恐怖。
「……エラ?」
掠れた声で呼びかけるが、返答はない。
部屋の中には、窓を叩く激しい雨の音しか聞こえなかった。
レオンハルトは包帯の解けかけた左手を抱え、階段を駆け下りた。
土間へ飛び込む。
台所の蝋燭は燃え尽き、冷え切っていた。
そして――。
テーブルの上に置かれた、一枚の白い羊皮紙。
その隣に置かれた、あの安物の真鍮のロケット。
「……な……にを……」
レオンハルトの足が止まった。
床が抜けたかのように、全身の血が足元から抜け落ちていく。
彼は震える素手で、その羊皮紙を掴み取った。
インクの滲んだ、エレナの筆跡。
『愛している、レオン。
だからこそ、これ以上あなたに誰かを殺させたくない。
どうか、私を探さないで。
あなたの手を汚してしまった私を、許してください』
「あ……」
声にならなかった。
レオンハルトの氷藍の瞳が、限界まで見開かれ、そして激しく痙攣した。
手紙が、指先からハラリと落ちた。
『私のせいで、あなたを地獄へ縛りたくない』
『探さないで』
「う……あ……ああああっ……!!」
男の喉から、引き裂かれた獣のような絶叫がほとばしった。
心が、粉々に砕け散っていく。
拒絶された。
やはり、あの時引かれた手は、恐怖と嫌悪の拒絶だったのだ。
自分の血塗れの手が、彼女を怯えさせ、彼女を追い詰めてしまったのだ。
「俺が……俺の手が……汚れていたから……っ!!」
レオンハルトは自らの乱れた黒髪を両手で激しく掻きむしり、壁に頭を叩きつけた。
激痛。
だが、胸の奥で音を立てて崩壊していく絶望の痛みに比べれば、何の意味も成さなかった。
置き去りにされた。
十年間、彼女を奪還することだけを神に祈り、泥水をすすり、生きる意味のすべてだった女性が、自分を捨てて消えてしまった。
「嫌だ……」
地を這うような、狂気じみた呟き。
男の瞳の奥で、絶望を突き抜けた暗黒の炎が、ボッと音を立てて燃え盛った。
「逃がすものか……。絶対に、逃がすものかッ!!」
レオンハルトは床に落ちていた真鍮のロケットを拾い上げ、砕けんばかりの力で握りしめた。
金属が掌に食い込み、新たな血が滲み出る。
「俺を拒絶してもいい! 俺を化け物と蔑んでもいい! ……貴女のいない世界で、俺が一人で生きられると思うなッ!!」
男は一本の長剣をひったくるように掴むと、玄関の扉を蹴破った。
外は、土砂降りの雨。
中庭に飛び出した瞬間、レオンハルトの鋭利な視線が、地面に散乱する死体の山の一角を捉えた。
泥水の上に残された、不自然な引きずり跡。
そして――ジークフリートが倒れていたはずの場所に、死体はなかった。
「……ジークフリート……」
男の顔から、人間としての表情のすべてが消え失せた。
殺気。
街そのものを、世界そのものを焼き尽くさんばかりの、漆黒の殺戮の意志が、レオンハルトの全身から吹き荒れる。
「――殺す」
男は泥を蹴り、雨の闇の中へと弾丸のように疾走していった。
傷口から滴り落ちる血の雨を、誰にも拭われることのないまま、ただ愛する女の影を求めて。




