暗殺者の爪痕
窓ガラスを叩く雨脚が、夜の深まりとともに激しさを増していた。
石造りの小さな借家の台所には、暖炉の薪が爆ぜる音と、屋根を打つ重苦しい雨音だけが満ちていた。
テーブルの上には、冷めきったハーブティーのカップが二つ。
午前中、氷狼城から戻って以来、二人の間には張り詰めた氷壁のような沈黙が横たわっていた。
「……何か、食べる?」
エレナは背中を向けたまま、掠れた声で問いかけた。
竈門の前に立つレオンハルトは、振り返らなかった。
彼は窓枠に左手をかけ、わずかに開けられた雨戸の隙間から、冷たい夜の闇をじっと見据え続けていた。
手袋のない、無骨な素手。
右手には、今朝エレナが巻いてやった白い木綿の包帯が痛々しく巻かれている。
かつては黒革の手袋で隠されていたその手が、いまや傷を露わにし、彼が背負ってきた苦悶の歴史を無言で訴えかけていた。
「腹は減っていない」
低く、硬質な返答。
その声の底に潜む頑なな拒絶に、エレナの胸がきしりと軋んだ。
昼間の査問室での口論が、鋭い棘となって互いの心臓に刺さったままだ。
『俺の手が汚れることなど、どうでもいい!』
『あなたが私のために魂を削っていく姿を見ることが、どれほどの地獄か分かって!』
互いを想うがゆえに放たれた刃。
愛しているからこそ、相手の痛みを許容できず、相手の自己犠牲を許せない。
十年間、触れ合うことすら許されなかった二人が、ようやく手に入れたはずの平穏の中で、皮肉にも己の愛の重さに圧し潰されそうになっていた。
(私が……彼を苦しめている)
エレナは自らのエプロンの布地を、指先が白くなるほど強く握りしめた。
もし自分が調合室を飛び出し、あの子供に霊力を込めた薬を飲ませなければ。
噂が広がることもなく、ヴォルフラムに見つかることもなく、王国の暗殺隊に嗅ぎつけられることもなかったはずなのだ。
すべては、自分の浅はかさが招いた災厄。
そのツケを、またしてもレオンハルトがその身を盾にして払わされようとしている。
「……レオン」
エレナは意を決し、彼の方へと一歩足を踏み出した。
「今夜の零時までに、ヴォルフラム閣下のところへ行きましょう。私が軍医監の契約にサインを……」
「――伏せろッ!!」
突如として放たれたレオンハルトの咆哮が、エレナの言葉を叩き割った。
「え……?」
状況を理解する暇などなかった。
強靭な腕がエレナの腰を乱暴に抱え込み、床へと押し倒したのだ。
ドスン、と激しい衝撃とともにエレナの背中が床板に叩きつけられる。
男の重厚な体躯が、覆いかぶさるようにエレナの全身をすっぽりと隠した。
その刹那――。
ドォォォォォンッッッッ!!
鼓膜を破るような轟音が、中庭を挟んだ隣家――アガサの診療所から炸裂した。
閃光が、窓の隙間から室内の影を真っ赤に焼き焦がすように差し込む。
爆風が雨戸を粉々に吹き飛ばし、無数のガラス片と石材の破片が、雹のように二人の頭上へと降り注いだ。
男の背中が盾となり、破片のすべてをその身に受け止める。
「くっ……!」
レオンハルトの口から、短い苦悶の呼気が漏れた。
「アガサ先生……!?」
エレナが悲鳴を上げ、炎上する窓の外を見開いた。
雨の中、アガサの診療所の屋根が、赤黒い炎を噴き上げて崩壊していくのが見えた。
ただの火事ではない。
紫がかった不吉な炎――王国神殿が異端殲滅のために用いる、消えることのない呪詛の業火『煉獄魔導弾』だ。
「先生! アガサ先生がまだ中に……!」
エレナが身を起こそうとした瞬間、レオンハルトの右手が彼女の肩を強引に押さえつけた。
包帯の巻かれた素手。
その指先には、骨がきしむほどの力が込められている。
「行くな! アガサなら、夕暮れ前に地下の薬草庫へ降りていた。あの地下室は厚い耐火石材で造られている、直撃でなければ無事だ!」
「でも……!」
「奴らの狙いは、最初からここだ!!」
レオンハルトはエレナを突き飛ばすようにして立ち上がると、腰の長剣を一息に抜き放った。
シュリンッ、と冷徹な鋼の擦過音が、炎の爆ぜる音を切り裂く。
割れた窓の向こう、雨煙の立ち込める中庭に、無音で次々と降り立つ黒い影があった。
全身を漆黒の耐魔コートで包み、顔面を銀の髑髏の仮面で覆った異形の兵たち。
その胸元には、紛うことなき神殿直属の刻印――銀の百合が彫り込まれていた。
手にしているのは、刀身に紫の呪毒が滴る細身の神聖銀剣。
十人、十五人――その足音は獣のように低く、一切の感情を排した殺戮の規律を纏っていた。
王国の暗殺執行部隊――『第零断罪執行隊』。
「……出迎えにしては、ずいぶんと賑やかだな」
低く、底冷えのする声。
中庭の暗殺者たちの背後から、傘も差さずにゆっくりと歩み出てくる一人の男がいた。
銀の刺繍が施された豪奢な黒外套。濡れそぼる金髪をオールバックに撫でつけ、その細長い瞳に歪んだ狂気を宿した男――隊長、ジークフリート。
ジークフリートは炎に包まれる診療所を一瞥し、嘲笑を浮かべながら拍手を鳴らした。
「久しいな、レオンハルト。……いや、薄汚れたスラムの脱走兵殿とお呼びすべきかな?」
「ジークフリート……」
レオンハルトの唇から、冷酷な吐息が漏れた。
彼は割れた窓枠を踏み越え、中庭へと一歩足を踏み出した。
冷たい秋雨が、一瞬にして彼の黒髪を濡らし、無地のシャツを肌に張り付かせる。
エレナは息を呑み、破片だらけの床を這いながら窓辺へとすり寄った。
「レオン、やめて……! 数が多すぎるわ!」
「部屋の奥に隠れていろ、エラ」
レオンハルトは振り返らなかった。
その背中は、かつて神殿の回廊で見た、あの冷酷無比な黒曜の騎士団長のものだった。
だが、あの時と決定的に違うのは――彼の手には、あの漆黒の革手袋がないことだった。
むき出しの素手。
エレナが巻いてくれた白い包帯が、降り注ぐ雨を吸って重く濡れていく。
その生身の手で、彼は冷たい鋼の柄を握りしめていた。
ジークフリートの細い目が、冷酷な愉悦に細められた。
「神殿の生贄を盗み出し、こんな寒村で夫婦ごっこか? 反吐が出るな」
ジークフリートは腰のレイピアの鍔を指先で弾き、唾を吐き捨てた。
「貴様が騎士団長を騙っていた間、俺がどれほど屈辱を味わったか……神の妻に発情した野良犬風情が、よくも偉そうな面をしてくれたものだ。……ユリシーズ殿下は失脚されたが、神殿長老会は貴様らの首に、公爵領一つ分の賞金を懸けておられるぞ」
「死人にくれてやる金など、あの腐った神官どもが持っていると思うか」
レオンハルトは眉一つ動かさず、切先を微かに下げた。
「減らず口を」
ジークフリートが冷ややかに片手を上げた。
「殺せ。……男の首を刎ねろ。魔女は手足を切り落として生かして持ち帰る!」
「――ハッ!」
号令とともに、最前列の暗殺者四名が、雨の帳を切り裂いて一斉に跳躍した。
左右、正面、そして頭上。
紫の毒刃が、寸分の狂いもない十字の死角を描いてレオンハルトへと襲いかかる。
エレナの喉が凍りついた。
「レオンッ――!!」
だが、その瞬間。
レオンハルトの姿が、掻き消えた。
ガギィィィンッッ!!
火花が闇を裂いた。
レオンハルトは正面の刺客の刺突を、剣の腹でミリ単位で受け流すと同時に、踏み込みざまに左手の素手――手袋のない生身の掌底を、敵の銀面めがけて叩き込んだのだ。
バキィッ!! と鈍い破壊音が響く。
髑髏の仮面ごと頭蓋を粉砕された暗殺者が、白目を剥いて泥水の中へと崩れ落ちる。
「なっ……!?」
空中にいた二人が息を呑んだ瞬間には、すでに遅かった。
レオンハルトは返しの刃で、左側の刺客の胴体を甲冑ごと真横に両断していた。
鮮血の飛沫が、噴水のように夜雨の中へと吹き上がる。
「グルルァッ!!」
背後から襲いかかった四人目の刺客の毒刃が、レオンハルトの左肩の肉を浅く切り裂いた。
だが、レオンハルトは痛みに顔を歪めるどころか、冷酷な笑みすら浮かべず、自らの肉を裂いた刃の峰を、右手の素手――包帯の巻かれた手で直接鷲掴みにした。
「ひ……っ!?」
神聖銀の毒が、包帯を焼き焦がし、彼の生身の皮膚からジュッと嫌な煙を上げる。
常人ならば発狂するほどの激痛。
だが、レオンハルトの瞳は凍りついたまま微動だにしなかった。
「――遅い」
レオンハルトは刃を握ったまま強引に敵を引き寄せると、空いた左手で刺客の喉仏を素手で掴み上げた。
そして、そのまま泥の地面へと叩きつけ、踵でその頸椎を容赦なく踏み砕いた。
ゴキリ、と。
生命の終わる音が、冷たい雨音の中に無慈悲に響き渡る。
わずか三秒。
精鋭と呼ばれた暗殺者四名が、物言わぬ肉塊となって泥の中に沈んでいた。
「バ、化物め……!」
「怯むな、囲め! 毒矢を射掛けろ!」
残る十名余りの暗殺者たちが色めき立ち、腰のクロスボウを構えようとする。
だが、一度解き放たれた黒曜の修羅を止める術など、この世のどこにも存在しなかった。
「邪魔だ」
疾風。
レオンハルトは泥を蹴り、敵の懐へと自ら突進していった。
剣が閃くたびに、腕が宙を舞い、首が転がり、鮮血が雨を赤く染め上げていく。
彼は剣だけではなく、自らの肉体そのものを凶器に変えていた。
素手で敵の目を潰し、関節を逆方向にへし折り、至近距離から喉笛を食いちぎらんばかりの勢いで屠っていく。
返り血が、彼の濡れた黒髪を、白いシャツを、そしてエレナが巻いてくれた白い包帯を、どす黒い赤へと染め変えていく。
(……あ……あ……)
窓辺でその光景を見つめるエレナの瞳から、光が失われていった。
息ができない。
胸の奥を、冷たい鉄の爪で抉られているような激痛が走る。
目の前で繰り広げられているのは、人間同士の戦いではなかった。
ただの、一方的な殺戮。
そして、その殺戮を行っているのは――かつてスラムの路地裏で、震える手で黒パンを分けてくれた、あの優しい少年なのだ。
昨夜、彼の手袋のない素手に触れたときの温もり。
「もう二度と手袋など嵌めるか」と微笑み、エレナの頬を慈しむように包み込んでくれた、あの愛おしい手。
その手がいま、他人の肉を裂き、骨を砕き、生温かい血に塗れている。
『貴女を守るためなら、俺は何千人でも殺す!!』
昼間の彼の怒号が、耳の奥で狂った鐘のように鳴り響く。
(私のせいだ……)
エレナの視界が、涙と血の色でぐにゃりと歪む。
この男に、この残酷な修羅の道を歩ませているのは、他でもないエレナ自身なのだ。
十年前、自分が神殿に連れ去られたから、彼は剣を握り、汚れ仕事を引き受け、魂を地獄に売り渡した。
そして今も――自分が無力に逃げ惑い、軽率に奇跡を起こしたせいで、彼は再び人殺しの獣へと戻らされている。
自分が彼の隣にいる限り。
この男は永遠に、返り血の海から抜け出すことはできないのだ。
「――死ねぇッ、レオンハルト!!」
ジークフリートの絶叫が響いた。
手下の全滅を見届けたジークフリートが、雨を突いて超低空から滑り込んできたのだ。
そのレイピアの切先には、神殿の秘術による漆黒の呪詛の光が渦巻いていた。
「貴様のその血塗れの手で、よくも聖女を抱けたものだな!!」
ジークフリートの刃が、レオンハルトの胸元を狙って電光のように突き出される。
直撃すれば、心臓を抉り抜かれる必殺の一撃。
だが、レオンハルトは回避しなかった。
彼は自らの左の掌――生身の素手を、突き出されたレイピアの切先へと、真正面から突き出したのだ。
グシャッ、と肉と骨の裂ける生々しい音が響いた。
「なっ……!?」
ジークフリートの目が、驚愕に見開かれる。
レイピアの刀身が、レオンハルトの左手の掌を完全に貫通していた。
手の甲から突き抜けた血塗れの切先。
だが、レオンハルトの顔には、痛みの色など微塵もなかった。
彼は貫かれた自らの手を万力のように握り締め、刃の動きを自らの肉で完全に封殺したのだ。
「貴様……狂っているのか……!?」
「狂っているさ」
レオンハルトは低く笑った。
その氷藍の瞳に宿っていたのは、人間のものではない、底知れぬ暗黒の業火だった。
「エレナを奪うためなら、俺は魂などとうに悪魔へ売り払っている」
「ひっ……!」
ジークフリートが恐怖に引き攣り、剣を捨てて後ずさろうとした瞬間。
レオンハルトの右腕――包帯の巻かれた手が、閃光のように唸りを上げた。
ザシュッ――ッ!!
鋼の刃が、ジークフリートの喉笛を、皮膚ごと真横に一文字に薙ぎ払った。
「カ……ッ、ガ……」
ジークフリートの両手が生温かい血の吹き出す喉元を押さえ、その場に崩れ落ちる。
泥水の中に膝をつき、痙攣しながら、男は血泡混じりの視線で、窓辺に立ち尽くすエレナを指差そうとした。
「……呪……われ……ろ……。お前が……あの男を……地獄へ……」
こと切れたジークフリートの身体が、泥水の中へと力なく倒れ伏した。
静寂が、戻ってきた。
激しい雨の音だけが、血の海と化した中庭を叩き続けている。
診療所を焼き尽くそうとしていた紫の炎も、大雨に打たれて黒煙へと変わりつつあった。
十五人の死体。
散乱する肉片と、赤く濁った泥水。
その惨劇の頂点に、レオンハルトは一人、立ち尽くしていた。
貫かれた左手から、ボタボタと夥しい血が泥の上に落ちていく。
白い包帯は完全に赤黒く染まり、泥と血に汚れたシャツの胸元が、激しい呼吸とともに上下していた。
「……はぁ、……はぁ……っ」
男が、ゆっくりと振り返った。
その顔は返り血で半分赤く染まり、濡れた黒髪の隙間から覗く氷藍の瞳は、まだ殺戮の興奮から冷めきれずにいた。
彼は窓辺に立つエレナを見つけると、ふっと憑き物が落ちたように表情を緩め、よろめく足取りで歩み寄ってきた。
「……エラ」
掠れた、震える声。
彼は貫かれた左手を庇いながら、血塗れの右手――包帯が赤黒く染まった手を、エレナの顔へと伸ばした。
傷ついていないか確かめようと、無意識に彼女の肌を求めようとした、その手。
だが――。
エレナの身体が、反射的に、小さく後ずさった。
ビクッ、と。
恐怖からではない。
あまりにも生々しい血の匂いと、その手で奪われた無数の命の重さに、エレナの魂が耐えきれず、拒絶するように身を引いてしまったのだ。
「……あ」
空中で、レオンハルトの血塗れの手が止まった。
男の表情が、凍りついた。
伸ばされた指先が、空を掴んだまま、激しく、痛々しいほどに震え始める。
自分の血と、敵の血で赤黒く染まった、無骨な素手。
手袋を捨て、彼女に触れるために取り戻したはずの生身の手が、いま、彼女を怯えさせ、後退させている。
「……すま、ない」
絞り出すような、掠れた男の呟き。
レオンハルトは自らの血塗れた手を見つめ、まるで汚らわしい汚物を見るかのように、力なくその手を引き戻した。
彼の氷藍の瞳が、絶望の深淵に呑み込まれるように、光を失っていく。
「汚して……しまったな」
自嘲の笑みが、血のついた唇に歪に浮かんだ。
彼はそれ以上エレナに近づこうとせず、背を向けて雨の中へと立ち尽くした。
「……レオン……違うの……! 私は……!」
エレナは叫ぼうとした。
違う、あなたを恐れたのではない。
あなたにそんな手をさせた自分が許せないのだと、抱きしめて泣き叫びたかった。
けれど、喉が痙攣して、声にならなかった。
足元に広がる血の海が。
雨に打たれながら、血塗れの手を握りしめて項垂れる男の後ろ姿が。
『お前があの男を地獄へ引きずり込んでいる』という死者の呪詛となって、エレナの胸を無慈悲に引き裂いていた。
雨は容赦なく降り続き、二人の間に横たわる溝を、決して埋まることのない血の川へと変えていくようだった。




