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背徳の檻に咲く白銀 ~神の妻となった聖女は、冷酷な守護騎士の偽りの刃に抱かれる~  作者: 白狸
【第2章】偽りの平穏と白銀の覚醒 ~追憶の刃は再び愛を刻む~
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査問への招待

夜明けの光は、白く乾いた霜となって旧市街の屋根瓦を白銀に染め上げていた。


借家の狭い台所で、エレナは静かに息を潜めながら、レオンハルトの右手に白い木綿の包帯を巻き進めていた。


手袋のない、無骨な男の手。


甲から手首にかけて刻まれた薄紅色の火傷痕の上に、昨夜、彼が自責の怒りに駆られて石壁を叩き割った際の生々しい裂傷が重なっていた。


傷口はエレナの霊力を帯びた薬草軟膏によってすでに塞がりかけていたが、赤黒く腫れた皮膚が生々しい痛みを物語っている。


「……痛む?」


エレナが掠れた声で尋ねると、レオンハルトはわずかに首を横に振った。


「痛くない」


低い、感情を押し殺した声。


彼は椅子に腰掛けたまま、包帯を巻くエレナの白い指先をじっと見つめていた。


神聖誓約の消え去った今、こうして指先と肌が触れ合っても、心臓を灼く焔の罰は下らない。


エレナの柔らかな指の温もりと、朝露のように澄んだ香りが、直に彼の皮膚を伝って魂を震わせる。


その温もりが尊ければ尊いほど、レオンハルトの氷藍の瞳には、昏く重い影が落ちていた。


「エラ」


男の左手が、包帯を留め終えたエレナの細い手首を、下からすくい上げるように包み込んだ。


手袋のない、熱い生身の掌。


「……城へ行くのは、俺一人でいい。貴女はアガサの地下室に隠れていろ。あそこなら、古い抜け穴がある」


「嫌です」


エレナは迷うことなく、彼の瞳を真っ直ぐに見据え返した。


「昨夜、ヴォルフラム閣下は『二人で来い』とおっしゃいました。あなたが一人で行けば、それだけで帝国に対する反逆と見なされます。……それに、あの男が求めているのは、私の力です。あなたを身代わりに差し出して、私だけが隠れ潜むなんて、絶対にできません」


「俺がどうなろうと構わないと言っている!」


レオンハルトの声が荒げられた。


包帯の巻かれた右手が、ギシリと音を立てて握りしめられる。


「あの男の目が分からなかったのか? 神殿の連中と同じだ。貴女のその奇跡を、今度は帝国の軍隊を維持するための都合のいい兵器として利用しようとしている。……貴女を再び、誰かの所有物になどさせるものか!」


「所有物になど、なりません」


エレナは彼の手を、両手で力強く握りしめ返した。


「十年前の私は、無力でした。神殿の言われるがままに毒を呑み、生贄として祭壇に縛られることしか知らなかった。……でも、今の私は違います。自分の足で、自分の意志で、あなたの隣に立つと決めたのです」


紫水晶の瞳に宿る、凛とした不屈の光。


レオンハルトはその眩しさに息を呑み、唇を噛み締めて目を伏せた。


守りたい。閉じ込めたい。


けれど、目の前の女性は、彼が命を賭して白銀の檻から解き放った瞬間に、彼の手の中だけに留まる小鳥ではなくなっていたのだ。


「……時間だ」


レオンハルトは立ち上がり、腰に一本の質素な長剣を帯びた。


神殿の黒曜石の剣ではない。帝国で手に入れた、装飾のない鋼の刃。


黒革の手袋を嵌めることのなくなった素手で、彼は古びた旅台の扉を開けた。


外には、吐く息を白く凍らせる北方の冷気が、二人を待ち構えていた。



ヴェルデンの北、切り立った黒い岩山を背負うようにして築かれた「氷狼城ひょうろうじょう」。


王国の豪奢で優美な白亜の宮殿とは対照的に、その城塞は徹底した実用性と軍事合理主義の塊だった。


装飾を排した分厚い花崗岩の城壁には無数の銃眼と監視塔が穿たれ、城門をくぐる二人の頭上からは、漆黒の甲冑に身を包んだ帝国歩兵たちの冷徹な視線が無数に降り注ぐ。


案内されたのは、城の最上層に位置する、円卓の置かれた石造りの査問室だった。


窓の外には、眼下に広がるヴェルデンの街並みと、その向こうにうねる広大な針葉樹の樹海が一望できた。


円卓の奥の革張りの椅子に、ヴォルフラム・フォン・クロイツが足を組んで腰掛けていた。


仕立ての良い漆黒の軍服に、銀の飾緒。


その手元には、湯気を立てる紅茶の白磁のカップと、一枚の分厚い羊皮紙が広げられている。


「時間通りだな。……よく来た、エレナ様、そして元騎士団長殿」


ヴォルフラムは冷ややかな灰色の瞳を上げ、薄く口端を持ち上げた。


その背後には、抜き身のサーベルを手にした二名の親衛将校が、彫像のように直立している。


レオンハルトはエレナの半歩前に立ち、左手の親指を腰の剣の鍔にかけたまま、室内を威圧するように見据えた。


手袋のない指先が、微塵の隙もなく敵の動態を捉えている。


「挨拶は不要だ、辺境伯」


レオンハルトの声が、石壁に低く反響した。


「用件を聞こう。昨夜の戯言の続きを、どう正当化する気だ」


「無作法な男だ。だが、戦場でしか息のできない人種の性分は嫌いではないよ」


ヴォルフラムは紅茶に口をつけると、卓上の羊皮紙を指先で滑らせ、二人の前へと押し出した。


「帝国の最高意思決定機関たる元老院の承認を前倒しで取り付けた、正式な『特別任官契約書』だ」


エレナは歩み寄り、その羊皮紙に視線を落とした。


そこに記されていた条項は、驚くほど緻密で、そして現実的なものだった。


第一条:エレナ・アルスティアに対し、北方帝国最高軍医監補佐の役職、および準貴族相当の帝国市民権を授与する。


第二条:同人に対し、帝都および王国のいかなる機関からも秘匿された、完全な新戸籍と身元保証を提供する。


第三条:レオンハルト・ヴァルクに対し、帝国軍北部方面軍直属の「特務護衛官」の身分を与え、エレナの常時警護の専任権を認める。


第四条:両名に対し、王国からの引き渡し要求、異端審問、または司法追及の一切を帝国主権の下で永久に拒絶・遮断する。


「……身元の完全保証と、レオンの護衛官任官……」


エレナの胸が、小さく震えた。


神殿のように、エレナを「神の妻」として祭り上げ、一切の自由を奪って生贄にする契約ではない。


帝国の医療組織の一員として公式の地位を与え、レオンハルトをその唯一の護衛として公認するという、極めて破格の待遇だった。


これがあれば。


逃亡者として常に背後に怯え、路地裏の湿った家で息を潜める日々は終わる。


レオンハルトが「反逆の脱走兵」として追っ手に怯えることもなくなり、二人は光の下で、公に寄り添って生きていくことができるのだ。


だが――。


「ふざけるな」


レオンハルトの冷酷な拒絶が、査問室の空気を叩き割った。


彼は羊皮紙を一瞥しただけで、侮蔑を込めて吐き捨てた。


「綺麗に整えられた首輪だな、ヴォルフラム。……第五条に何が書かれているか、貴様は口にしていないぞ」


ヴォルフラムは眉一つ動かさず、冷ややかに目を細めた。


「第五条:『軍医監として、帝国軍が指定する前線医療拠点における特製薬草シロップの大量調合、および新薬開発の義務を負う』……何か不服かな?」


「すべてが不服だ!」


レオンハルトが一歩踏み出した。その足音が、重く床を震わせる。


「エレナのその力は、大量生産の工場ではない! 前線医療拠点だと? 要するに、帝国の侵略戦争の最前線に彼女を連れ回し、兵を使い潰すための回復装置として酷使する腹積もりだろうが! 神殿がやっていたことと、寸分違わぬ搾取だ!!」


「搾取だと? 言葉を選べ、野良犬」


ヴォルフラムの声音が、冷たい剃刀のように研ぎ澄まされた。


「神殿の豚どもがやっていたのは、無知な小娘に『自己犠牲こそが神の愛』と吹き込み、体内に毒を溜め込ませて殺す狂気の儀式だ。……だが、我が帝国が求めているのは、彼女が編み出した合理的な『薬草調合術』の体系化と、その指導だ。彼女の肉体をすり減らすことなど、毛頭求めてはおらん」


「同じことだ!」


レオンハルトは譲らなかった。


「彼女の名が広まれば、王国だけでなく、帝国内の権力亡者どもが次々と群がってくる。……俺はエレナを、誰の政治闘争の具にもさせない!」


「では、貴様はどうやって彼女を守る?」


ヴォルフラムの灰色の瞳が、残酷な現実を突きつけるように細められた。


「昨夜も言ったはずだ。すでに王国の『第零断罪執行隊』――ジークフリートの部隊が、ヴェルデンの包囲網を完成させつつある」


ヴォルフラムは懐から、一本の折れた黒い矢を取り出し、円卓の上に放り出した。


矢羽には、王国の神殿執行隊を示す「銀の百合」の刻印が刻まれている。


「今朝方、旧市街の南の森で我が哨戒兵が回収したものだ。……奴らは三十名。全員が神聖銀の毒刃と対魔導結界を装備した、暗殺の専門家だ。奴らがこの街に踏み込めば、アガサの診療所など一瞬で灰燼に帰すぞ」


「……ッ!」


エレナの喉が小さく引き攣った。


「帝国軍の庇護なくして、貴様一人でその三十人を皆殺しにできるか? ……仮にできたとして、その返り血の嵐の中で、エレナ様が無傷でいられる確率は何パーセントだ?」


ヴォルフラムは立ち上がり、エレナへと視線を移した。


「エレナ様。貴女は聡明な女性だ。……狂乱した愛に目を眩ませ、二人きりで雪山へ逃げ込めば生き延びられるなどという、男の幼稚な夢想の愚かしさが、貴女には理解できるはずだ」


「ヴォルフラムッ!!」


レオンハルトの殺気が爆発し、長剣の柄にかけた手がミリ単位で刃を抜こうとした。


「やめて、レオン!!」


エレナの鋭い叫びが、彼の手を止めた。


エレナは震える足で進み出ると、羊皮紙の上に自らの右手を置いた。


包帯を巻いたレオンハルトの右手とは対照的な、傷一つない白銀の素手。


「……閣下。条件があります」


「エラ……!?」


レオンハルトが驚愕に目を見張る。

エレナは彼を見ず、ヴォルフラムの灰色の瞳を真正面から見据え返した。


「私が帝国の軍医監補佐の任に就きます。ヴェルデンの病院にて、薬草の栽培と調合の技術を帝国軍医たちに惜しみなく伝授いたします」


「ほう?」


「その代わり――第三条を修正してください。レオンハルトを、軍の護衛官ではなく、完全に自由な身分として認めてください。彼を軍の指揮系統に組み込まず、いかなる軍事行動にも従事させないこと。……それが私の絶対の条件です」


静寂。


査問室の空気が、凍りついたように止まった。


レオンハルトの顔から、急速に血の気が引いていく。


「何を……何を言っているんだ、エレナ……!?」


男の声は、激しい動揺に震えていた。


彼はエレナの肩を強引に掴み、自らの正面へと引き戻した。


手袋のない素手の熱が、エレナの華奢な肩の骨をきしませる。


「俺を自由にして、貴女が一人で軍の檻に入るだと!? ふざけるな……! そんな契約、誰が認めるか!!」


「レオン、聞いて!」


エレナは叫んだ。


紫水晶の瞳から、大粒の涙が溢れ出していた。


「あなたはもう、十分に血を流したわ! 十年間、神殿で泥水をすすり、私のために騎士団長の地位を捨て、処刑台で死にかけた……! これ以上、あなたに誰かを殺させたくない! 軍の猟犬として、他人の血で手を汚す生活に戻したくないのよ!!」


「貴女を守るためなら、俺は何千人でも殺す!!」


レオンハルトの怒号が、石壁を激しく叩いた。


氷藍の瞳に、狂気じみた絶望と執着が渦巻いている。


「俺の手が汚れることなど、どうでもいい! 俺の命など、貴女の笑顔一つの前には塵芥だ! ……なぜそれが分からない!? 俺が求めているのは、俺自身の安寧ではない! 貴女が誰にも脅かされず、誰の道具にもならずに生きることだけなんだ!!」


「それが嫌だと言っているのよ!!」


エレナは彼の胸板を、両の手のひらで力いっぱい押し返した。


涙が頬をつたい、顎から床へと零れ落ちる。


「あなたが私のために魂を削り、傷だらけになっていく姿を見ながら生きることが……私にとってどれほどの地獄か、なぜあなたは分かってくれないの!? 私だって、あなたを守りたい! 私の持っている力で、あなたに平和な人生を返してあげたいのよ!!」


互いの魂を剥き出しにした、痛烈な叫びの衝突。


愛している。


世界で誰よりも、己の命よりも深く愛し合っている。


なのに――相手を幸福にしたいと願うその手段が、あまりにも残酷に、決定的にすれ違っていた。


レオンハルトは息を呑み、言葉を失って立ち尽くした。


エレナの流す涙。


その奥にある、彼に対する深すぎる愛と苦悶。


それが刃となって、男の心臓を無残に貫いていた。


「……実に見事な愛の劇場だ」


冷ややかな拍手の音が、二人の間の張り詰めた空気を叩き割った。


ヴォルフラムが、退屈そうに目を細めて立ち上がっていた。


「互いを想い合っての譲歩か。美しいことだな。……だが、議論はそこまでだ」


ヴォルフラムは懐中時計を確認し、冷淡に宣告した。


「返答の猶予は、今夜の零時までだ。……契約書にサインをして余の軍門に下るか、あるいは二人で街の外へ出てジークフリートの刃に切り刻まれるか。……結論を出して、再びここへ来い」


ヴォルフラムはマントを翻し、親衛将校たちを従えて部屋を出て行った。


重々しい鉄扉が閉ざされ、査問室には再び、冷たい静寂が降り注ぐ。


窓の外では、朝の霜が溶け、どんよりとした灰色の雨雲が、ヴェルデンの空を重く覆い尽くそうとしていた。


背中を向け合ったまま、二人は一言も言葉を交わすことができなかった。


手袋のない素肌の温もりを知ったはずの二人の間に、十年の断絶よりも冷たく深い溝が、音を立てて口を開けていた。

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