辺境伯の影
夕暮れの冷気が、開け放たれた扉の隙間から土間へと流れ込み、二人の足元を白く凍らせていくようだった。
「――『白銀の聖女』エレナ様、そして元・王国黒曜騎士団長殿とお呼びすべきかな?」
滑らかな、耳障りなほど抑揚のない男の声が、狭い家の中に落ちた。
空気が、一瞬にして凝固した。
時が止まったかのような静寂の中、男の背後に控える帝国親衛兵たちの甲冑が、微かにカチャリと擦れ合う音だけが響く。
「……ッ!」
刹那、土間の床板が軋みを上げて悲鳴を上げた。
レオンハルトの体が、思考よりも速く動いていた。
彼はエレナを自らの背後へと完全に覆い隠すように庇うと同時に、腰に佩いた狩猟短剣を音もなく抜き放った。
手袋のない素手。
無骨な指先が、鋼の柄を砕けんばかりの力で握りしめる。
右手の甲から手首にかけて刻まれた、あの薄紅色の火傷痕が、怒りと警戒の青筋とともに獰猛に浮き上がっていた。
「……一歩でもその敷居を跨いでみろ」
地獄の底から這い上がってきた獣の唸り声。
レオンハルトの氷藍の瞳から、昼間エレナに向けていた痛ましいほどの脆さは完全に消え去っていた。
そこに宿っていたのは、神殿の最年少騎士団長として数多の首を刎ね、処刑台を血で染め上げてきた「冷酷な処刑人」そのものの、凍てつくような殺気だった。
短剣一本。
刃渡り一尺にも満たない実用的な刃でありながら、彼が構えた瞬間、周囲の大気が鋭利な刃の切先で切り裂かれたように張り詰めた。
扉の外に控えていた歴戦の帝国親衛兵たちが、思わず反射的に腰の剣柄へ手をかけ、半歩後ずさるほどの凄絶な重圧。
だが――。
銀灰色のマントを羽織った男、ヴォルフラム・フォン・クロイツは、眉一つ動かさなかった。
「素晴らしい気迫だ、黒曜の騎士殿。噂以上の凶刃だな」
ヴォルフラムは薄く嘲笑を浮かべ、親衛兵たちへ向けて軽く片手を上げた。
「武器を引け。……彼が本気配で間合いを詰めれば、貴様らが剣を鞘から抜く前に、その喉笛は三度断ち切られている」
冷徹なまでの客観的な戦況分析。
ヴォルフラムは灰色の瞳を細め、短剣の切先を真っ直ぐに喉元へ向けられているにもかかわらず、平然と土間へと一歩足を踏み入れた。
磨き上げられた黒革の長靴が、古い床板をコツリと鳴らす。
「レオン、待って……!」
レオンハルトの背後から、エレナが彼のシャツの裾を強く握りしめた。
震える手。
だが、その瞳には凛とした光が宿っていた。
ここでレオンハルトが抜刀し、帝国軍人を殺害すれば、二人は今度こそこの国でも逃げ場のない大逆罪人となる。
それだけは絶対に防がなければならなかった。
エレナはレオンハルトの頑なな腕の横から、ゆっくりと顔を上げた。
深く被っていた亜麻色の三角巾がずれ、白銀の豊かな髪が夕闇の中にふわりとこぼれ落ちる。
「……私の名を口にされたということは、相応の確証をお持ちの上でのことですね。……帝国軍の将校閣下」
凛と通る声。
その所作、立ち居振る舞い、そして何より夕闇を照らす月のように透き通った紫水晶の瞳の輝きに、ヴォルフラムは満足げに目を細めた。
「隠すつもりもない、ということか。潔くて結構」
ヴォルフラムは胸元の双頭の狼の銀細工を軽く指先で叩いた。
「我が名はヴォルフラム・フォン・クロイツ。このヴェルデンを含む北部国境一帯を預かる辺境伯であり、帝国の情報統括を任されている者だ」
辺境伯――。
その名を聞いた瞬間、エレナの背筋に冷たい戦慄が走った。
ただの街の警備隊長や地方官ではない。
帝国軍の最高幹部であり、実質的なこの地の絶対支配者が、自らこのみすぼらしい借家の土間に立っているのだ。
「閣下自らのご足労とは、光栄至極だな」
レオンハルトは切先を微塵も下ろさず、冷酷な声音で吐き捨てた。
「帝国軍の頂点が、貧民街の薬草摘みを捕縛するために、わざわざ日暮れを待って忍び込んできたのか?」
「捕縛だと?」
ヴォルフラムは短く鼻を鳴らした。
「勘違いするな、野良犬。もし余が貴様らを捕らえるつもりなら、路地の両端を重装歩兵百名で封鎖し、この掘っ立て小屋ごと火矢で焼き払っている。……貴様がどれほど無双の剣腕を誇ろうと、守るべき女を抱えたままでは灰を免れまい」
痛烈な現実の指摘に、レオンハルトの顎の筋肉がギリと軋む。
反論の余地のない事実だった。
ヴォルフラムは武力による制圧ではなく、明確な意図を持って「対話」を選んでここに来ているのだ。
「……どうやって、私たちがここにいると気づいたのですか」
エレナが静かに問いかけた。
「簡単なことだ」
ヴォルフラムは土間の片隅にあった粗末な木製スツールに、鷹揚な仕草で腰を下ろした。
「三日前、鍛冶屋の倅が死の淵から生還したという一報が、余の耳に入った。黒咳病の末期、肺胞が壊死しかけた子供が、正体不明のシロップ一口で完治したとね。……我が帝国の優秀な軍医たちですら匙を投げた病を、市井の小娘がどうやって治した?」
ヴォルフラムの灰色の瞳が、冷ややかにエレナを射抜く。
「余は直ちに部下に命じ、その奇跡の残滓――子供の口元を拭った布の切れ端を回収させ、帝都から呼び寄せた宮廷魔導師に鑑定させた。……結果は驚くべきものだったよ」
彼は懐から、銀色の小さなピンセットで挟まれた布片を取り出し、見せた。
「布地に染み付いていたのは、ただのハッカや樹皮のエキスではなかった。この大陸全土でただ一人――かつて王国の祭壇で神の妻として祀られ、先日の新月の処刑台で忽然と姿を消した『白銀の聖女』が放つものと、魔力波長が完全に一致したのだ」
エレナは息を呑み、自らの胸元に手を当てた。
隠し通せるはずがなかったのだ。
あの時、子供を救うために無意識に解放してしまった自らの霊力。
それは、どんなに身なりをやつし、偽名を使おうとも、国家規模の情報網を持つ者にとっては、夜闇に灯された篝火のように明白な標識だった。
(私の……私の軽率さが、この人を危険に晒してしまった……)
激しい自責の念が、エレナの胸を締め付ける。
レオンハルトの言った通りだったのだ。
目立つなと、奇跡を起こすなと、彼は正しく警告してくれていた。
それを自らの甘さで破り、最悪の捕食者を招き寄せてしまった。
レオンハルトが、エレナの動揺を察したように、素手の左手で彼女の手首を背後からギュッと強く握りしめた。
『気にするな』と無言で伝えるような、痛いほどの力。
彼は切先をヴォルフラムの眉間へと向け直した。
「理由はどうあれ、正体は割れたわけだ。……で、帝国情報統括殿は、我らの首をどう料理する腹積もりだ? 本国へ突き出して莫大な身代金を要求するか? それとも、帝国の牢獄に繋ぎ、新たな生贄の道具として飼い殺す気か?」
「くく……相変わらず口の減らない男だ」
ヴォルフラムは低く笑った。
しかし、その瞳には一片の笑いも宿っていなかった。
「本国へ突き出す、だと? 冗談を言うな。あんな腐敗しきった王国の狂信者どもに、貴様らという極上の手駒をくれてやるほど、余はお人好しではない」
「手駒……?」
「そうだ」
ヴォルフラムは立ち上がり、軍用マントを翻してエレナの前へと歩み寄った。
レオンハルトが咄嗟に短剣を踏み込ませようとしたが、エレナがその腕を制した。
ヴォルフラムはエレナのわずか二歩手前で足を止め、その白銀の髪と、透き通る素肌を、まるで最高級の美術品を品定めするかのような冷徹な視線で見つめた。
「エレナ・アルスティア。貴女のその力は、神殿が喧伝していたような『代償治癒』などという呪われた欠陥品ではないな?」
「……何をおっしゃりたいのですか」
「先ほど、余は貴女の調合した薬を飲んだ患者たちを検分してきた。熱は下がり、病巣は消え去っていたが……驚くべきことに、その治癒のプロセスには、他者の傷を身代わりに引き受けるような魔力の反作用が一切見られなかった」
ヴォルフラムの口端が、冷ややかに吊り上がる。
「貴女は、力を変容させた。あるいは、神殿の欺瞞から解き放たれたことで、真の姿へ覚醒したのだ。……大地と草木の生命力を直接引き出し、副作用なく他者を治癒する『無償の奇跡』。余の推測に狂いはあるかな?」
エレナの喉が小さく鳴った。
この男は、神殿の長老たちや王太子ユリシーズよりも遥かに恐ろしい。
宗教的な迷信や権威に惑わされることなく、エレナの能力の本質を、冷徹な科学者や軍師のように正確に見抜いている。
「我が帝国は、合理的だ」
ヴォルフラムは静かに告げた。
「神への祈りなど一銭の価値も認めんが、実利のある『力』には相応の対価を支払う用意がある。……貴女のその調合術と治癒能力は、帝国軍の医療体制を根底から覆す至宝だ。前線で傷つく兵たちの生存率を飛躍的に跳ね上げることができる」
「……私を、帝国の軍医監として利用するおつもりですか」
「利用、と言えば聞こえが悪いな。『取引』と言ってもらおう」
ヴォルフラムは懐から、一通の親書を取り出し、土間のテーブルの上に放り出した。
重厚な羊皮紙に、帝国の国璽が赤蝋で捺されている。
「貴女が帝国軍医総監の直属としてその能力を提供するならば、余の権限において、貴様ら二人に帝国の最高位市民権と、新たな名、そして完全な身元の安全を保障しよう。過去の一切は不問。王国のいかなる法も、我が帝国の領土内では貴様らの指一本に触れることは叶わん」
甘美な毒のような提案だった。
逃亡者としての怯えに満ちた日々を終わらせ、堂々と光の下で生きていくための切符。
だが、レオンハルトは即座に吐き捨てた。
「断る」
「ほう?」
ヴォルフラムが眉を上げる。
「神殿の祭壇から、今度は帝国の軍門門下へ乗り換えろだと? ふざけるな。看板を架け替えただけで、やっていることは同じ搾取だ。エレナを権力者の道具にするなど、死んでも認めるものか」
「貴様に拒絶する権利があると思っているのか、黒曜の騎士」
ヴォルフラムの声音が、ふっと一段低くなった。
温度の消え失せた灰色の瞳が、レオンハルトを刺し貫く。
「貴様らが断れば、余は即座に貴様らを『不法入国した王国の危険因子』として拘束するまでだ。……だが、それだけではないぞ」
ヴォルフラムは意味深に目を細め、胸元の懐中時計をパチンと鳴らした。
「余がなぜ、今夜わざわざ貴様らの前に姿を現したと思う? ……時間の猶予がないからだ」
「何だと……?」
「王国の『第零断罪執行隊』。……聞き覚えがあるだろう、レオンハルト」
その名を耳にした瞬間、レオンハルトの全身が、雷に打たれたかのように凍りついた。
素手の指先が、目に見えて激しく震える。
「……ジークフリート……」
男の唇から、呪詛のような名が零れ落ちた。
「そうだ。貴様の元上官であり、かつて貴様に騎士団長の座を奪われた、狂信の塊のような男だ」
ヴォルフラムは淡々と告げた。
「ユリシーズの残党と神殿の狂信派長老どもが、裏資金を投じてあの狂犬を放った。すでに数十名の暗殺部隊が、非公式に帝国の国境線を突破し、このヴェルデンの近郊に潜伏している」
「っ……!」
エレナの息が止まった。
追手が、もうそこまで来ている。
「あの男の目的は一つ。貴様らの首を刈り取り、聖女の遺骸を本国へ持ち帰って、自らの栄達の生贄とすることだ」
ヴォルフラムは冷徹に言い放った。
「帝国軍の庇護なくして、貴様ら二人だけでその暗殺部隊を凌ぎ切れるかな? ……仮に貴様が敵を皆殺しにできたとしても、この街は火の海となり、貴女の愛しい聖女殿が無傷でいられる保証はどこにもない」
完璧な詰将棋だった。
帝国の取引を呑むか、王国の暗殺部隊に嬲り殺されるか。
二人に残された選択肢は、初めから存在しなかったのだ。
ヴォルフラムは踵を返し、扉へと向かった。
開かれた扉の向こう、夜の帳が完全に街を覆い尽くし、冷たい秋の霧が立ち込めていた。
「明朝八時、街の北にある余の居城『氷狼城』へ来い」
男は振り返ることなく、背中越しに冷酷な通告を落とした。
「出頭すれば、取引の契約を結ぶ。……もし逃亡を企てれば、その瞬間に帝国全軍へ貴様らの討伐令を下す。背後からは王国の暗殺隊、前方からは帝国の鉄騎兵。……せいぜい賢明な判断をすることだな」
カツン、カツンと響く拍車の音が、夜の石畳へと遠ざかっていく。
親衛兵たちも音もなく撤収し、やがて旧市街の路地には、死のような静寂だけが残された。
*
土間には、隙間風の音だけが虚しく響いていた。
「……くそっ……!」
ガシャンッ!! と凄まじい破壊音が静寂を叩き割った。
レオンハルトが、手袋のない素手の拳を、石壁へと力任せに叩きつけたのだ。
砕け散る漆黒の石材。
男の拳から、タラリと赤い鮮血が滲み出し、壁をつたって床へと落ちる。
短剣を床に投げ捨て、レオンハルトは壁に額を押し当てたまま、獣のように激しく肩を上下させていた。
「……俺の、失策だ……」
掠れた、血を吐くような呟き。
「もっと早く……街の噂が広がる前に、力ずくで貴女を連れ出すべきだった……。ジークフリートが国境を越えていることすら気づけないとは……俺は何のために、あの神殿で泥水をすすってきたんだ……ッ!」
男の背中が、絶望と怒りで激しく震えている。
王国最強と呼ばれた騎士が、自らの無力さに打ちひしがれ、血を流して項垂れていた。
エレナは胸が張り裂けそうな思いで、彼の背中へと歩み寄った。
「レオン……違うわ。あなたのせいじゃない……」
エレナはそっと、彼の血塗れの右手を、自らの両手で包み込んだ。
傷口から流れる生温かい血。
誓約を破壊した際の火傷痕の上に、新たな傷が重なっている。
十年前からずっと、この男はエレナのために、ただ一人で血を流し続けてきたのだ。
「私が……私が浅はかだったのよ。あなたの言いつけを守らず、調合室を飛び出して薬を使ってしまった……。私のせいで、あなたをこんな窮地に追い込んでしまった……!」
エレナの目から、ポロポロと涙がこぼれ落ち、彼の手の甲を濡らした。
「ごめんなさい、レオン……。ごめんなさい……!」
謝罪の言葉を繰り返すエレナを、レオンハルトは振り返り、乱暴な力で自らの胸へと抱き寄せた。
ガシィッ、と骨がきしむほどの抱擁。
血の匂いと、冷え切った夜気、そして彼の狂おしいほどの熱情が、エレナの全身を包み込む。
「謝るな……! 貴女が謝る必要など、何一つない……!」
レオンハルトはエレナの銀の髪に顔を埋め、痛切な声で叫んだ。
「貴女は人を救っただけだ! 悪いのは……貴女のその清らかな心を利用し、食い物にしようとする世界の方だ!!」
強く、強く抱きしめられる。
だが――その腕の力の中に、エレナは微かな、けれど決定的な「迷い」を感じ取っていた。
明朝、氷狼城へ行けば、帝国との契約が待っている。
エレナが軍医監となれば、二人の命は保障される。
だがそれは、再びエレナが国家という巨大な檻に囚われ、レオンハルトがその番犬として縛られることを意味していた。
かといって、逃げ出せば、迫り来る王国の暗殺部隊――かつての上官ジークフリートの刃が、二人を容赦なく切り刻む。
(どうすればいいの……?)
レオンハルトの激しい心臓の鼓動を聞きながら、エレナは暗闇の天井を見上げた。
二人が掴み取ったはずの、わずか数日間の素肌の平穏。
それはあまりにも脆く、冷酷な運命の嵐の前に、いま再び吹き消されようとしていた。




