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背徳の檻に咲く白銀 ~神の妻となった聖女は、冷酷な守護騎士の偽りの刃に抱かれる~  作者: 白狸
【第2章】偽りの平穏と白銀の覚醒 ~追憶の刃は再び愛を刻む~
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奇跡の薬草

秋の冷気が石畳の隙間を吹き抜けるヴェルデンの旧市街に、異様なざわめきが立ち込めていた。


まだ朝の霧も晴れきらぬ薄暮の刻から、アガサの診療所の前には、長蛇の列ができていた。


粗末な麻布を羽織った職人やその妻、咳き込む子供を抱いた母親、果ては身なりの良い商家の手代まで、数十人もの人々が寒さに白い息を吐きながら、固く閉ざされた診療所の板扉を見つめている。


「本当に、匙一杯で熱が引いたのかい?」


「ああ、鍛冶屋のトビアス坊主さ。昨日の夕方には、庭を走り回ってパンをねだってたって話だ」


「あんな末期の黒咳病から生還するなんて、帝都の大病院でもありゃしないよ」


「奇跡の薬草摘みがいるんだ。どんな難病もたちどころに治す、神の手を持つ娘が……」


ひそひそと交わされる囁き声は、渇いた草むらに落ちた火種のように、瞬く間に熱を帯びて広がっていた。


診療所の奥、擦りガラスの窓からその光景を見下ろしながら、老医師アガサは深いため息とともに煙管を吹かした。


紫煙が薄暗い部屋に燻る。


「……言わんこっちゃないね。噂ってのは、ペストのネズミより足が速い」


作業台の前で乾燥薬草の選別をしていたエレナは、思わず指先を止めた。


頭には亜麻色の三角巾を深く巻き、白銀の髪を隠している。


質素な灰色のワンピースに身を包んだその姿は、一見すればどこにでもいる薬草商の小間使いだった。


「アガサ先生……私、やはり軽率でしたでしょうか」


エレナの紫水晶の瞳に、かすかな後悔と不安が揺れる。


三日前、死の淵にあった五歳の少年トビアスを救ったあの瞬間。


助けたい一心だったとはいえ、あの薬効はあまりにも劇的すぎたのだ。


アガサは煙管の灰皿をトントンと打ち鳴らし、濁りのない灰色の瞳でエレナを鋭く見据えた。


「軽率だったかい、だと? ……馬鹿をお言い。あんたのおかげで、あの子は今朝も母親の作った粥を腹いっぱい食ってるよ。医者として、子供の命を救った手を軽率だなんて罵れるもんかね」


アガサは立ち上がり、作業台の上に並べられた小さなガラス瓶の列を指差した。


そこには、エレナが昨夜のうちに仕込んだ、淡い青緑色のシロップが詰められていた。


野生のハッカとトネリコの樹皮、カレンデュラを百花蜜で練り上げたもの。


だが、その液体からは、普通の煎じ薬には決して宿らない、澄み切った大地の息吹が微かに漂っている。


「ただね、エラ。この街は王都の温室じゃないんだ。ここは食うか食われるかの交易都市、帝国の最前線だよ。奇跡ってのはね、貧乏人にとっては救いだが、力を持つ連中にとっては極上の利権であり、あるいは排除すべき毒なんだよ」


アガサの重い言葉が、エレナの胸に冷たく突き刺さる。


神殿にいた十年間、エレナ自身が嫌というほど味わわされてきた真実だった。


奇跡を売り物にし、権力を肥え太らせていた神官たち。奇跡の独占のために命を削らされていた自分。


「……分かっています。目立つつもりは、決してありませんでした」


「あんたの素性は聞かない約束だ。あの物騒な目をした亭主が、ただの落ちぶれ傭兵じゃないことくらい、あたしの節穴の目でも分かるからね」


アガサは苦笑し、エプロンを締め直した。


「だが、外に並んでる連中を見な。今朝も冷え込みで、三人の年寄りと赤ん坊が咳で喉を詰まらせて担ぎ込まれてる。……どうするんだい? 薬草摘みの奥さん」


突きつけられた問いに、エレナは迷うことなく顔を上げた。


胸の奥で、確かな熱が脈打つ。


かつてのように、他人の苦痛を己の身体に引き受ける必要はない。


大地が育んだ草木の力を、自らの清らかな霊力で正しく引き出し、薬として届ける――それは、エレナが見出した、初めての「自分の意志による救済」だった。


「……配りましょう、先生。一人当たり、小さな匙に一杯ずつ。薄めて飲ませれば、熱は散り、呼吸は楽になります」


「いい度胸だ。だが、顔は決して上げるんじゃないよ。あんたのその浮世離れした顔立ちは、噂に油を注ぐだけだからね」


二人は診療所の扉を開けた。


待たされていた群衆から、地鳴りのような歓声が上がる。


エレナは深く被った三角巾の陰に視線を落とし、ただひたすらに薬匙を動かし続けた。


喉をかきむしっていた老人が、シロップを一口含むなり、驚愕に目を見張って呼吸を取り戻す。


高熱でぐずっていた幼子が、甘い薬液を飲み干すと、嘘のように穏やかな寝息を立て始める。


「ありがとう、お嬢さん……! 神様だ、あんたは神の御使いだ!」


老人がエレナの薬草で汚れた手を握りしめ、涙を流して拝もうとする。


エレナは慌ててその手を引き、静かに首を横に振った。


「違います……私は神の使いなどではありません。ただの、薬草の力です」


神の妻などではない。


もう二度と、祭壇の上の偶像には戻らない。


泥にまみれ、草木の匂いに包まれ、こうして市井の片隅で人の手の温もりを感じながら生きていくこと――それこそが、エレナが十年の地獄の果てに渇望していた「生きている実感」だった。


午前が過ぎ、正午を回り、用意していたシロップの瓶がすべて空になる頃には、外の行列はようやく捌け、診療所には静寂が戻っていた。


エレナは額の汗を拭い、心地よい疲労感とともに息を吐き出した。


身体のどこにも、かつてのような黒い侵食斑は現れていない。


心臓の激痛もない。


ただ、自らの霊力を他者のために使い、誰かの命を繋ぎ止めることができたという充実感が、乾ききっていたエレナの心を温かく満たしていた。


(私……役に立てている)


レオンハルトの重荷になるだけの、壊れかけの荷物ではない。


この街で、彼と共に、自分の足で立って生きていける。


その喜びに胸を弾ませ、エレナは裏口の通用門から、隣にある自分たちの借家へと戻った。


夕食の支度をしようと、竈門に火を熾そうとした、その時だった。


バァンッ!!


激しい音を立てて、表の扉が乱暴に蹴破るように開かれた。


エレナが息を呑んで振り返ると、薄暗い土間に立っていたのは、肩を激しく上下させ、全身から凍りつくような殺気を放つレオンハルトだった。


「……レオン……?」


彼の姿は異様だった。


北の山へ狩りに出ていたはずの彼は、獲物の毛皮も薬草の籠も持っていなかった。


手袋のない両の手のひらは、固く、血が滲むほど握りしめられ、その氷藍の瞳は、まるで戦場で敵の軍勢に包囲された時のように、狂気じみた緊張と焦燥にギラギラと尖っていた。


「……エラ」


低く、地を這うような声。


彼は大股で土間に踏み込むと、エレナの返答を待つこともなく、彼女の細い手首を掴み上げた。


「荷物をまとめろ」


「え……?」


「今すぐだ。外套と、当面の金だけを持て。あとの荷物はすべて捨てていく」


唐突すぎる宣告に、エレナの思考が追いつかなかった。


手首を掴むレオンハルトの素手の力は、骨がきしむほどに強く、そして微かに震えていた。


「待って……待って、レオン! 何を言っているの? 荷物をまとめるって……どこへ行くというの?」


「この街を出る」


レオンハルトはエレナの顔を真っ直ぐに見据えた。


その彫刻のような美貌は蒼白に引き攣り、顎の輪郭が怒りと恐怖で強張っている。


「街中で、噂が渦巻いているのを聞いた。『奇跡の薬草摘み』だと? 『死人を蘇らせる神の手』だと? ……裏通りのごろつきから、大通りの商人まで、誰も彼もがアガサの診療所の新しい女の話で持ちきりだ!」


「レオン、それは……!」


「言ったはずだ、目立つなと! 奇跡など起こすなと、俺は三日前に貴女に懇願したはずだ!!」


怒号が、狭い台所に轟き渡った。


レオンハルトはエレナの手首を引き寄せ、逃げ場を塞ぐように彼女を抱きすくめた。


彼の着ているウールのシャツから、冷たい針葉樹の匂いと、男の激しい汗の匂いが立ち込める。


「貴女のその力は、あまりにも異質すぎる。ただの市井の薬草商が、末期の黒咳病を一日で完治させるシロップなど作れるはずがない! こんな噂が広がれば、帝国の情報部が黙っていると思うか!? 王国からの追手が、この街に目をつけないとでも思っているのか!!」


「レオン……痛いわ、少し力を緩めて……」


「失うわけにはいかないんだ!!」


レオンハルトはエレナの懇願を遮り、彼女の肩に爪を立てるようにして叫んだ。


その瞳から、狂おしいまでの執着と、恐怖が溢れ出している。


「北のさらに奥……帝国の国境警備も及ばぬ、極北の雪山へ行く。そこに古い炭焼き小屋の跡があるのを、今日見つけてきた。そこなら、誰も来ない。商人も、間者も、病人も、誰一人として貴女を見つけることはできない!」


「極北の……雪山……?」


エレナの血の気が、すっと引いていく。


「そこで何をして暮らすというの? 誰とも会わず、外の光も見ず、ただ息を潜めて……一生を隠れて過ごせというの?」


「そうだ! それで何が不満だ!」


レオンハルトは迷うことなく言い放った。


彼の氷藍の瞳には、一切の迷いがなかった。


彼にとって、エレナの命と安全以外のすべては、初めから存在しないも同然だったのだ。


「俺が獲物を狩る。俺が木を伐り、薪を割り、貴女に暖を与え、食事を運ぶ。貴女はただ、小屋の中で静かに笑っていればいい! 誰の傷を背負う必要もない、誰の祈りに応える必要もない……俺の手の中だけで、生きていればいいんだ!!」


その言葉が、エレナの鼓膜を激しく打ち据えた。


(……ああ……)


胸の奥が、冷たい氷の刃で切り裂かれたように痛んだ。


十年前、神殿の白銀宮に閉じ込められていた日々。


豪奢な檻の中で、ただ与えられる食事を口にし、神官たちの命じるままに奇跡を起こすだけの、生贄の人形。


いま、レオンハルトが自分に与えようとしているのは――名前を変えた、もう一つの「檻」ではないか。


彼が愛ゆえにそう叫んでいることは、痛いほど分かっていた。


十年間、泥水をすすり、命を削って自分を奪還してくれた男の、あまりにも深すぎるトラウマ。


自分がまた誰かに奪われ、傷つけられることを、彼は狂乱するほど恐れているのだ。


けれど。


「……嫌です」


静かな、けれど凛とした声が、二人の間に落ちた。


レオンハルトの息が止まった。


彼は信じられないものを見るように、目を見張り、エレナを見下ろした。


「……何と……言った?」


「嫌です、レオン。私は、逃げません」


エレナは自らの腕に力を込め、レオンハルトの拘束を、自らの意志で押し返した。


手袋のない、生身の男の手が、エレナの拒絶によってわずかに離れる。


「嫌だと? 貴女は……自分が置かれている状況が分かっているのか!? 捕まれば、今度こそ処刑台だぞ! 俺の手が届かない場所へ連れて行かれ、二度と……二度と会えなくなるんだぞ!!」


「分かっています! 危険なことくらい、最初から分かっています!」


エレナの紫水晶の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。


だが、その視線は決して逸らされることなく、レオンハルトの瞳を真っ直ぐに射抜いていた。


「でも、レオン……! あなた一人に、すべての業を背負わせて、自分だけ安全な雪山に隠れて生きるなんて……そんな生き方、私は絶対に嫌です!」


「俺が背負うと言っているんだ! 貴女が気にする筋合いはない!」


「気にするに決まっているでしょう!!」


エレナの叫びが、部屋の空気を震わせた。


十年間、押し殺し続けてきたエレナの魂の叫びが、激しい感情となって溢れ出す。


「私はあなたの何なの!? 守られるだけの、壊れやすい人形なの!? あなたが泥水をすすり、血を流し、人を殺して……その果てに守られるだけの存在で、私が幸せになれると本気で思っているの!?」


「エラ……」


「私は、あなたと共に生きたいのよ!」


エレナは彼の手袋のない素手を――あの薄紅色の火傷痕が残る右手を、自らの両手で強く、痛いほどに握りしめた。


「あなたの隣に立ちたいの! あなたが傷ついたら手当てをし、あなたが疲れたら温かいスープを作り、この街で、誰かの役に立ちながら、胸を張って『私たちはここに生きている』と笑い合いたいの! ……なぜ、それを分かってくれないのよ……っ!」


涙が、レオンハルトの火傷痕の上へと零れ落ちる。


エレナの温かい体温と、生々しい魂の訴え。


レオンハルトは息を呑み、言葉を失ったように立ち尽くした。


彼の氷藍の瞳が、激しい葛藤と動揺に揺れ動く。


守りたい。閉じ込めたい。傷つけたくない。


だが、目の前で泣き叫ぶ女性は、もはや十年前の無力な少女でも、神殿の冷たい祭壇で死を待っていた無気力な聖女でもなかった。


自らの意志で、自らの足で、彼と共に歩もうとする――誇り高き、一人の生身の人間だった。


「……俺は……」


レオンハルトの唇が震えた。


握りしめられた彼の手が、エレナの手の中で、微かに力を取り戻そうとした――その時だった。


トントン、トントン。


静まり返った部屋に、軽やかな、けれど異様に規則正しいノックの音が響いた。


二人の身体が、同時に凍りついた。


表の扉は、レオンハルトが乱暴に入ってきたため、わずかに隙間が開いたままになっていた。


その隙間から、冷たい夕暮れの風とともに、カツン、カツンと響く硬質な拍車の音が近づいてくる。


「――お取り込みのところ、失礼するよ」


低く、耳障りなほど滑らかな男の声が、薄暗い土間に滑り込んできた。


レオンハルトが瞬時にエレナを背後へと庇い、腰の狩猟短剣の柄へと手を伸ばした。


その素手の甲に、青筋が浮き上がる。


開かれた扉の向こう、夕闇に染まる路地に立っていたのは――。


銀の刺繍が施された、重厚な軍用マントを羽織った長身の男だった。


氷のように怜悧な灰色の瞳。撫でつけられた銀灰色の髪。


その後ろには、帝国の紋章を刻んだ漆黒の甲冑を纏う数名の親衛兵が、音もなく通路を封鎖していた。


男は薄く冷ややかな笑みを浮かべ、土間の二人に視線を注いだ。


その眼光は、獲物の急所を正確に見定めた猛禽のように鋭かった。


「素晴らしい奇跡の薬草だと聞いてね。……帝国の軍医監として、ぜひその調合の秘術を拝見したいと思っていたのだが」


男はゆっくりと、胸元の紋章――双頭の狼が刻まれた、帝国最高位貴族の証を指先で弾いた。


「いや……『白銀の聖女』エレナ様、そして元・王国黒曜騎士団長殿とお呼びすべきかな?」


静寂。


呼吸すら凍りつくような冷気が、逃亡者たちの隠れ家を完全に支配した。

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