秘密の調合室
ガチャン、と外側から重い鉄の閂が落とされる音が、静寂の土間に冷たく響き渡った。
レオンハルトが山へ向けて出発してから、およそ半刻。
石造りの小さな家の中には、窓の外を通り過ぎる馬車の車輪の軋みと、遠くの鍛冶場から届く微かな槌音だけが、途切れ途切れに漂っていた。
「……鍵までかけていくなんて」
エレナは苦笑交じりに呟き、エプロンの紐をキュッと締め直した。
彼の激しすぎる執着と心配性は、もはや病的な域に達している。
けれど、十年間も白銀の檻に隔てられ、処刑台の刃の下まで追い詰められた記憶を思えば、彼を責めることなどできるはずもなかった。
彼にとってエレナは、いまなお「少し目を離せば壊れて消えてしまうガラス細工」なのだ。
(でも、私はもう、壊れかけの道具ではないわ)
エレナは自らの両手を広げ、じっと見つめた。
透き通るような白い肌。
左腕の二の腕まで這い上がっていた禍々しい紫黒の侵食斑は、跡形もなく消え去っている。
心臓の奥でチリチリと燃え盛っていた神聖誓約の痛みもない。
あの新月の朝、レオンハルトが己の血を注ぎ込んで呪縛を粉砕してくれた瞬間から、エレナの肉体は、生まれ変わったかのように軽やかで、澄み渡っていた。
「まずは……ここを片付けましょう」
じっとしていては気が滅入る。
エレナは埃を払うための羽根箒と雑巾を手に取り、奥の調合室へと足を踏み入れた。
薄暗い調合室の壁一面には、乾燥した薬草を収める無数の小さな引き出しが並んでいた。
中央には傷だらけの頑丈な作業台、真鍮の天秤、大小さまざまな乳鉢や蒸留器。
かつてアガサの亡夫が使っていたというその場所は、長い間放置されていたらしく、薄く埃を被っていたが、道具の一つ一つには職人の手入れの跡が残っていた。
引き出しを一つずつ開け、乾燥薬草の状態を検分していく。
カモミール、トネリコの樹皮、野生のハッカ、乾燥させたエルダーフラワー。
指先で葉を摘むと、乾いた香気とともに、植物たちがかつて大地から吸い上げた生命の記憶が、かすかな痺れとなってエレナの肌をくすぐった。
(不思議……)
エレナは目を細めた。
神殿にいた頃、エレナの能力は他者の毒と苦痛を己の身体に引き受けるだけの「代償」だった。
痛みを奪い、自分の肉体をすり減らすことしか知らなかった。
だが今、こうして薬草に触れていると、植物の内側で眠っている微かな息吹が、水底から浮かび上がる泡のように、鮮明に感じ取れるのだ。
その時だった。
壁の向こう――裏口の渡り廊下で繋がっている、アガサの診療所の方から、切迫した叫び声が飛び込んできたのは。
「――先生! アガサ先生、頼む、助けてくれぇっ!!」
男の悲痛な絶叫。
続いて、扉が乱暴に叩き開けられる音と、重いものが床へ運び込まれる気配が、石壁を伝って響いてきた。
「トビアス! 目を開けて、トビアス……っ! ああ、息が、息が止まりそうだわ……!」
若い母親の狂乱した泣き声。
エレナの手が止まった。
胸の奥が、冷たい水に浸されたように急速にざわめき始める。
「騒ぐんじゃないよ! 寝台に寝かせな!」
アガサの鋭く、けれど焦りを孕んだ嗄れ声が響く。
「……黒咳病の末期かい。胸が完全に塞がっちまってる。熱もひどいね……これじゃ気道が焼き切れるよ」
「先生、薬は!? この子の熱を冷ます薬はないのかい!?」
「今朝から街中でこの病気が吹き荒れてるんだ! 肺を冷やす『青氷草』のエキスは、さっき貴族街の使官に全部買い占められちまったよ! 手元にあるありあわせの煎じ薬じゃ、もって半刻……今夜を越すのは奇跡頼みだね」
「そんな……! 嘘だろ、先生……っ! まだ五歳なんだぞ、この子は……!」
母親の絶望的な慟哭が、調合室の壁を震わせた。
ヒュー、ヒューと、掠れた笛のような、痛々しい子供の呼吸音が、途切れ途切れに聞こえてくる。
エレナの足が、無意識に扉へと向かっていた。
――絶対に、この家から一歩も外へ出るな。
レオンハルトの切迫した声が、脳裏をよぎる。
扉には外から鍵がかけられている。
彼との約束を破ってはならない。
もし自分の素性が露見すれば、彼が血を流して勝ち取ってくれたこの平穏が、一瞬で瓦解してしまうかもしれない。
(でも……!)
ヒュー……ッ、ゴホッ、ゲホッ……!
子供の激しい痙攣の音が、エレナの胸を鋭い針のように突き刺した。
見捨てるのか。
目の前で幼い命の灯火が消えようとしているのを、己の保身のために、ただ耳を塞いでやり過ごすというのか。
かつてスラムの路地裏で、飢えと寒さに震えていた自分たちを救ってくれたのは、誰かの差し出してくれた一切れの温もりだったはずだ。
「……青氷草がないなら」
エレナは踵を返し、調合室の棚へと駆け寄った。
青氷草は、北方の高山に自生する極めて寒冷な気を宿した薬草だ。
肺の熱を冷まし、気道を広げる特効薬。
だが、それがないのなら――代わりになるものはあるはずだ。
エレナは引き出しを素早く引き抜き、いくつかの薬草を取り出した。
野生のハッカ――熱を散らす気を持つ。
トネリコの樹皮――抗炎の力。
カレンデュラの乾燥花――組織を修復し、痛みを和らげる。
そして、棚の隅に置かれていた、純度の高い百花蜜の小壺。
「これだけじゃ……普通の調合なら、気休めの咳止めにしかならない」
エレナは作業台の上に薬草を広げ、乳鉢にハッカの葉と樹皮を放り込んだ。
すりこぎを握りしめ、目を閉じる。
(神よ……いいえ。私の、命よ)
かつてのように、他者の病魔を我が身に招き入れる祈りではない。
エレナは胸の奥底――かつて神聖誓約が砕け散り、レオンハルトの生命の熱が満ちた魂の核へと意識を沈めた。
大地に根を張り、雨露を浴びて育った薬草たちの、小さく眠れる命の残滓に語りかけるように。
すりこぎを回すエレナの指先から、ポロポロと、淡い白銀の燐光が零れ落ちた。
「……目覚めなさい」
祈りとともに、エレナの純粋な霊力が薬草へと注ぎ込まれる。
刹那、乳鉢の中で砕かれていた乾燥ハッカが、まるで朝露を浴びたかのように鮮やかな青緑色へと蘇り、ツンと鼻腔を突き抜けるような、清冽極まりない冷気が立ち上った。
トネリコの樹皮は黄金色の粉末へと変わり、カレンデュラの花弁は陽光を閉じ込めたような輝きを帯びる。
痛みの代償は、どこにも発生しなかった。
左腕の肌は白いまま。
心臓の激痛もない。
ただ、エレナの体内を通った霊力が、薬草本来の治癒の力を何倍、何十倍にも増幅し、研ぎ澄まされた奇跡のエキスへと昇華させていく。
「できた……!」
エレナはすり潰した薬草を百花蜜と混ぜ合わせ、小鍋で弱火にかけながら練り上げた。
完成したのは、翡翠の輝きを帯びた、とろりと甘く清らかな特製シロップだった。
香りを嗅ぐだけで、荒れた喉の奥がすっと通るような、信じがたい清涼感が漂う。
エレナは作業台の脇にあった茶色い麻布を手に取り、自らの白銀の髪をきつく包み込み、顔の下半分を覆い隠した。
そして、裏口の鍵――調合室と診療所を繋ぐ、内側から開けられる小さな通用扉の閂を、音もなく外した。
*
「トビアス、しっかりおし! 息をお吸い!」
アガサの診療所は、血と汗と、薬草の饐えた匂いに満ちていた。
粗末な木製ベッドの上で、五歳ほどの金髪の少年が、首筋に紫の血管を浮き上がらせて激しく喘いでいた。
胸がペコペコと不自然に窪み、唇は完全に紫色に変色している。
窒息寸前だった。
母親は床に膝をつき、髪を振り乱して神に祈り、父親は壁に頭を打ちつけて泣いていた。
アガサの手も、焦燥で微かに震えている。
「くそっ……気道が完全に塞がってる。切開するしかないかい……だが、この子の体力じゃ術のショックに耐えられない……!」
「――アガサ先生!」
凛とした、澄んだ声が診療所の空気を切り裂いた。
アガサが血走った目を跳ね上げると、通用口の陰から、頭を茶色の布で覆ったエレナが滑り込んできたところだった。
その手には、湯気を立てる小さな陶器の小瓶が握られている。
「エラ……!? あんた、部屋にいなさいと……」
「これを! トビアスちゃんに飲ませてください!」
エレナは躊躇うことなくベッド脇へと駆け寄り、小瓶の蓋を開けた。
瞬間、診療所の淀んだ空気の中へ、まるで雪解けの針葉樹林の朝のような、圧倒的な清涼感が広がった。
アガサの鼻腔がピクリと動く。
老医師の目が、信じられないものを見るように見開かれた。
「な……何だい、この香りは……!? 青氷草……いや、違う、もっと純粋な……!」
「肺の熱を冷まし、気道を押し広げるシロップです! 蜂蜜で苦味を消してあります。早く……スプーンを!」
エレナの気迫に圧され、アガサは反射的に銀のスプーンを差し出した。
エレナは翡翠色のシロップをスプーンに満たすと、痙攣する少年の顎を優しく上向かせ、震える唇の隙間へと、一滴、また一滴と流し込んだ。
甘く清らかな雫が、少年の喉の奥へと滑り落ちていく。
(お願い……届いて……!)
エレナは少年の胸元に、布越しにそっと手を添えた。
祈り。
命を救いたいという、純粋な願い。
刹那――少年の喉から、ゼエッ、と大きく痰の切れる音が響いた。
「ゴホッ! ゲホッ、オエッ……!!」
少年が激しく咳き込み、喉を塞いでいた黒い粘液を吐き出した。
そして――。
スゥ……と。
長く、深い、穏やかな呼吸が、少年の小さな胸を満たした。
「あ……」
母親が息を呑んだ。
少年の唇から紫色が引き、頬にみるみるうちに健康的な薔薇色の血色が戻っていく。
首筋に浮き出ていた禍々しい血管の鬱血が嘘のように消え去り、額の熱気が潮のように引いていくのが、触れずとも分かった。
少年はふう、と満足げな寝息を立てると、固く握りしめていた母親の指を緩め、安らかな眠りへと落ちていった。
「トビアス……? トビアス……! ああああっ、息をしてる! この子の息が戻ったわ……!!」
母親がベッドにすがりつき、歓喜の涙をボロボロと零した。
父親が「助かった……神様、助かった……!」とエレナの前で床に額を擦りつけて泣き崩れる。
アガサは呆然と立ち尽くし、眠る少年の脈を測った後、震える視線をエレナへと向けた。
その濁りのない老眼の奥には、畏怖と、驚愕が渦巻いていた。
「……ありえないよ。黒咳病の末期が、たった匙一杯のシロップで……完全に熱が下がりきってる。……あんた、一体何者だい?」
「私は……」
エレナはハッと我に返り、一歩後ずさった。
やってしまった、という冷たい戦慄が背筋を駆け上がる。
あまりにも劇的な効果。
いくら薬草の調合とはいえ、これは市井の薬草摘みができる領域を遥かに逸脱していた。
「……ただの、故郷に伝わる古い煎じ薬です。効いて、本当によかった……」
エレナは深く頭を下げると、感謝を叫ぶ両親の声を背に受けながら、逃げるように通用口へと飛び込み、調合室の扉を固く閉ざした。
*
「……はぁ、……はぁ……っ」
薄暗い調合室に戻ったエレナは、扉に背を預け、乱れた呼吸を整えた。
心臓が激しく早鐘を打っている。
子供は助かった。
命を救うことができた。
その事実は、胸の奥を温かい光で満たしていた。
けれど、同時に押し寄せてきたのは、レオンハルトに対する激しい罪悪感だった。
外へは出なかった。
けれど、診療所へ足を踏み入れ、霊力を込めた薬を使ってしまった。
もしアガサに怪しまれ、街の噂にでもなれば――。
(早く、片付けなきゃ……)
エレナは慌てて作業台の乳鉢を洗い、小鍋を隠そうとした。
その時だった。
ガタガタッ!! ドォンッ!!
表の重い木製扉が、閂ごと引きちぎられんばかりの凄まじい力で叩き開けられた。
エレナの心臓が跳ね上がった。
土間に雪崩れ込んできたのは、肩で激しく息をする一人の男だった。
泥に塗れた傭兵の革鎧。
背中には山盛りの薬草を詰めた背負い籠。
そして――手袋のない、無骨な素手。
レオンハルトだった。
「エラッ!!」
怒号のような叫びとともに、彼が調合室へと踏み込んできた。
予定より半刻以上も早い帰還。
北の山から、獣のように全速力で駆け戻ってきたのだろう。
乱れた濡れ羽色の黒髪から汗が滴り落ち、その氷藍の瞳は、狂気にも似た恐慌に血走っていた。
「レオン……お帰りなさ……」
エレナの言葉は、最後まで紡がれなかった。
ドサリ、と重い背負い籠が床へ投げ捨てられると同時に、レオンハルトの屈強な身体がエレナを襲った。
ガシィッ、と。
強い衝撃とともに、エレナの背中が調合室の石壁に押し付けられる。
「きゃっ……!?」
逃げ場を塞ぐように、男の両腕がエレナの頭の真横の壁へと叩きつけられた。
近すぎる。
彼の荒い呼気、泥と汗の匂い、そして研ぎ澄まされた雄の殺気が、エレナを完全に呑み込んでいた。
だが、男の瞳が見つめていたのは、エレナの顔ではなかった。
彼の視線は、作業台の上に残された翡翠色のシロップの飛沫、そして――エレナの指先に、今なお微かに残る、あの清冽な白銀の霊力の残滓へと注がれていた。
レオンハルトの顔から、急速に血の気が引いていく。
見る見るうちに、死人のような青白さへと変わっていった。
「……使ったのか」
地を這うような、低く掠れた声だった。
顎の筋肉が、ギリギリと音を立てて軋む。
「霊力を……使ったのか、エレナ」
「レオン……それは……」
「答えろッ!!」
怒号が、狭い調合室を叩き割った。
レオンハルトの素手が、エレナの細い二の腕を掴んだ。
痛いほどの握力。
かつて黒革の手袋で覆われていたその手は、いまや生身の熱を持って、エレナの皮膚を骨ごと砕かんばかりに締め上げている。
「なぜだ……! なぜ約束を破った!? この部屋から出るなと……誰とも関わるなと言ったはずだ!!」
「痛い、レオン……放して……!」
「放すものか!!」
レオンハルトはエレナの腕を掴んだまま、自らの額を彼女の首筋へと乱暴に押し当てた。
巨躯が、目に見えて激しく震えている。
怒り狂っているのではない。
この男は――泣きそうなほどに、怯えていたのだ。
「表の通りに……アガサの診療所に、神聖な霊気の匂いが漂っていた……。俺がどれほど肝を冷やしたか、貴女に分かるか……!?」
レオンハルトの指が、エレナの左腕の袖を強引に捲り上げた。
露わになった白い素肌。
そこに侵食斑がないことを、彼は自らの指先で、貪るように、何度も何度もなぞって確かめた。
「まだ斑紋は出ていない……だが、もしまた毒が回ったらどうする!? あの悪夢のような激痛が、貴女を襲ったらどうするんだ!!」
「レオン、聞いて……! 代償治癒じゃないの!」
エレナは必死に叫び、彼の乱れた黒髪に素手を伸ばした。
「傷を引き受けたんじゃないわ! 私の身体には、何の毒も入ってきていない! ただ、薬草の力を霊力で引き出しただけなのよ! 子供が……五歳の男の子が、息を引き取りそうだったの! 放っておけなかったのよ……!」
「他人の子供など、どうでもいいッ!!」
レオンハルトはエレナの言葉を、聞く耳を持たずに切り捨てた。
氷藍の瞳に、大粒の涙が浮かんでいた。
あの冷酷無比な騎士団長が、子供のようにボロボロと涙を零しながら、エレナを睨みつけていた。
「この世のすべての人間が死に絶えようと、俺の知ったことか! 俺に必要なのは、貴女だけだ! 貴女一人が生きていてくれれば、都が滅びようが、世界がどうなろうと構わないんだよ!!」
「レオン……」
「毎晩……悪夢を見るんだ」
レオンハルトの声が、急激に崩れ落ちた。
彼はエレナの腰を抱き寄せ、床に崩れ落ちるようにして、彼女の腹部に顔を埋めた。
逞しい背中が、子供のように小さく痙攣している。
「貴女が冷たい処刑台から落下していく夢を……胸の刻印が燃え上がり、灰になって消えていく夢を……毎晩、目が覚めるたびに、貴女の息を確かめずにはいられないんだ……」
男の素手が、エレナの背中を、服が破れんばかりの力で掻き抱いた。
「また奪われたら、俺は今度こそ死ぬ。……貴女のいない世界で生きるくらいなら、あの場で首を刎ねられていた方が何千倍もマシだった……! 頼むから……頼むから、もう奇跡など起こさないでくれ……。ただの、俺の女でいてくれよ、エレナ……ッ!」
慟哭。
十年間の飢餓と絶望が、彼の中に植え付けた巨大な傷痕。
それは、どれほど肌を重ねても、どれほど言葉を交わしても、簡単には消えない深淵の呪いだった。
エレナの目からも、涙が零れ落ちた。
彼の髪に指を沈め、震える頭を優しく抱きしめる。
「ごめんなさい……怖がらせて、ごめんなさい、レオン……」
手袋のない彼の肌から、痛烈なまでの愛と、恐怖が伝わってくる。
愛されている。狂おしいほどに、命の重さそのもので愛されている。
けれど――。
抱きしめられながら、エレナの胸の奥には、拭い去れない小さな痛みが沈殿していた。
彼はエレナを守るために、己の命のすべてを捧げようとしている。
だが、その守り方は――エレナの魂の翼を捥ぎ、暗い箱の中に閉じ込めることと同じだった。
自分は、ただ震えて守られるだけの存在に戻りたいわけではない。
彼と共に、この手で誰かを救い、光の下を胸を張って歩けるようになりたいのだ。
すれ違う二人の願い。
調合室の薄暗がりの中で、強く抱き合いながらも、二人の心は、愛ゆえの新たな迷宮へと迷い込んでいた。




