素肌の朝露
冷たく澄んだ朝の気配が、石造りの寝室を満たしていた。
木枠の隙間から差し込む薄青い夜明けの光が、粗末なリネンのシーツを淡く照らしている。
窓の外からは、遠く教会の鐘ではなく、霧深い針葉樹の森を抜けてくる風のざわめきと、早起きした小鳥たちの鋭い囀りが微かに届いていた。
(……温かい……)
エレナは微睡みの中で、自らの肌を包む濃厚な熱に意識を委ねていた。
冷え切った大理石の床も、肉体を苛む代償の毒熱もない。
背中に触れているのは、逞しく引き締まった男の胸板の厚みと、腰を抱き寄せる強靭な腕の重みだった。
規則正しく、力強く刻まれる心音。
トクン、トクンと、エレナの背骨を直接震わせるその律動が、いま自分が「生きている」ことを、誰かの生贄ではなく一人の女としてここに存在していることを、何よりも雄弁に告げていた。
エレナが身じろぎをすると、腰に回されていた腕が、無意識の箍を締めるようにぎゅっと力を増した。
「……ん……」
耳元に吹きかかったのは、低く掠れた熱い呼気。
首筋に、男の唇が柔らかく押し当てられる。
チクチクとした無精髭の感触と、寝起きの乾いた唇の熱が、エレナの白い肌を甘く痺れさせた。
「……起きたのか、エラ」
低く濁った声。
「エレナ」ではなく、偽名の「エラ」。
帝国の辺境都市ヴェルデンに潜入して三日。
二人は、戦乱で故郷を焼かれて落ち延びてきた「傭兵のレオン」と「薬草摘みの妻エラ」として、この街の片隅に息を潜めていた。
「おはよう、レオン……。苦しいわ、そんなに強く抱きしめられたら息ができない」
エレナが小さく微笑みながらシーツの中で身を捩ると、レオンハルトは名残惜しそうに腕の力を緩め、けれど決して彼女を腕の中から逃がそうとはしなかった。
シーツを押し下げ、エレナが身を起こす。
波打つ白銀の長い髪が、朝露を弾く糸のように肩先から滑り落ち、むき出しになった背中を覆った。
その肌に、かつてのような禍々しい紫黒の侵食斑は一片も残っていない。
新月の朝、レオンハルトが自らの血と生命力を口づけで注ぎ込み、神の呪縛を噛み砕いたあの日から、エレナの左半身は奇跡のように清らかな、透き通るような白銀の素肌を取り戻していた。
「……綺麗だ」
背後から、レオンハルトの掠れた声が落ちる。
彼の大きな手が、エレナの背中へと伸びてきた。
だが――その指先が、エレナの素肌に触れるわずか一寸手前で、ピクリと不自然に静止した。
エレナは見逃さなかった。
彼の手のひらが、虚空を掴むように微かに硬直し、躊躇うように宙を彷徨ったのを。
十年間、神聖誓約の刃から彼女を守るため、決して素手で触れることを己に禁じ、あの冷酷な黒革の手袋を嵌め続けてきた男の、骨の髄まで染み付いた呪縛のような習性。
(レオン……)
エレナの胸がきしりと痛んだ。
手袋は、あの処刑台の上で彼自ら投げ捨てた。
神殿の呪いも消え去った。
それでも、彼の中にある「自分は彼女を汚してしまうのではないか」という恐れは、まだ完全には癒えていないのだ。
エレナは躊躇うことなく自ら身を翻し、空中で止まっていた彼の右手を、両手でしっかりと包み込んだ。
「あ……」
レオンハルトの氷藍の瞳が、微かに揺らぐ。
エレナは、彼の掌に自らの頬を優しく押し当てた。
無骨で、固いタコに覆われた、歴戦の騎士の手。
その手の甲から手首にかけて、誓約を破壊した際の雷撃が残した、薄紅色の火傷痕が今も鮮明に刻まれている。
「痛くないわ、レオン。……私はもう、あなたの手で壊れたりしない」
エレナが微笑み、彼の掌の内側にそっと口づけを落とすと、レオンハルトの瞳の奥で、張り詰めていた氷が音を立てて溶けていくのが見えた。
「……ああ」
男の喉から、切ない吐息が漏れた。
今度は迷うことなく、レオンハルトの指先がエレナの滑らかな頬を包み込み、引き寄せた。
重なり合う唇。
朝の冷気を溶かすような、深く、甘美で、どこまでも優しい口づけ。
舌先が微かに触れ合い、互いの体温を確かめ合うように貪る。
昨夜も幾度となく肌を重ね合ったはずなのに、男の求める熱情は一向に衰える気配を見せなかった。
十年の断絶を埋めるには、一晩の抱擁などあまりにも短すぎるのだと言わんばかりに、レオンハルトの手がエレナの華奢な肩を、腰を、生身の熱で慈しむように撫で上げていく。
「……ん……レオン……もう、朝よ……」
「少しだけだ。……まだ、夢を見ているようで怖い」
乱れた黒髪をエレナの首筋に埋め、レオンハルトは子供のように頑なに彼女を抱きしめた。
逞しい肉体、王国最強の騎士団長と恐れられた偉丈夫が、エレナの腕の中では、ただ一人の傷ついた少年のように脆く、切迫した熱を放っている。
その愛おしさに胸を打たれながらも、エレナは彼の広い背中を優しく撫でた。
「夢じゃないわ。私はここにいる。……あなたの隣に」
*
ベッドから抜け出し、身支度を整えた二人は、二階の寝室から古びた木製階段を軋ませて階下へと降りた。
ここは、ヴェルデンの旧市街、職人や小商人が暮らす裏通りの外れにある小さな家だ。
一階には街道に面した小さな店先と、奥に竈門を備えた土間、そしてかつて診療所として使われていた調合室がある。
三日前、国境を越えてこの街へ辿り着いた二人は、街の外れの古びた医院で、一人の老女に出会った。
アガサ・クローデル。五十五歳。
かつては帝都で名を馳せた腕利きの女医師だったが、宮廷の権力闘争に嫌気がさし、この辺境の街で貧民相手の診療所を開いている、無愛想だが腹の据わった人物だった。
アガサは、薄汚れた傭兵服のレオンハルトと、あまりにも浮世離れした美貌を持つエレナを一瞥するなり、その素性を一切詮索することなく言ったのだ。
『怪我人と訳ありの逃亡者は見飽きるほど診てきたさ。……ちょうど亡くなった亭主の作業場が空いてる。家賃代わりに、うちの薬草の選別と力仕事を手伝いな。名前なんか、呼べれば何だっていい』
そうして貸し与えられたのが、この古い家だった。
「スープを温めるわね」
エレナは麻のエプロンを締め、竈門の火を起こそうと薪に手を伸ばした。
だが、その細い手首を、背後から伸びてきた大きな手が素早く制した。
「俺がやる」
レオンハルトだった。
彼はすでに無地の厚手のシャツに着替え、慣れた手つきで火打ち石を取り出すと、瞬く間に竈門の種火を熾してみせた。
「……ありがとう、レオン。でも、火起こしくらい私にもできるわ」
「薪の棘が刺さる。貴女の手に傷でもついたらどうする」
レオンハルトは眉をひそめ、至極真面目な顔で答えた。
彼は鍋を火にかけ、昨日アガサから分けてもらった干し肉と根菜を無骨な手つきで切り刻んで放り込んでいく。
エレナは苦笑交じりに、木製のテーブルの上へ素朴な木皿と匙を並べた。
「傷だなんて、大袈裟よ。私、これでもスラムの生まれなのよ? 十年前は、泥水を汲むのも薪を拾うのも平気だったわ」
「十年前とは違う」
レオンハルトの手が止まり、氷藍の瞳が鋭くエレナに向けられた。
「貴女の身体は、神殿の連中に酷使され続けてきたんだ。代償の傷が消えたとはいえ、霊力の枯渇も貧血も、完全に癒えたわけじゃない。……無駄に動く必要はない。飯の支度も、力仕事も、すべて俺がやる」
「でも……」
「座っていろ、エラ」
低く、しかし有無を言わせぬ命令の響き。
エレナは息を呑み、言われた通りベンチへと腰を下ろした。
レオンハルトの甲斐甲斐しい働きぶりは、見事という他なかった。
冷徹な処刑人などと呼ばれていた男が、手袋のない素手で黒パンを切り分け、熱々の具沢山スープを器に注ぎ、丁寧にエレナの前へと差し出す。
湯気とともに、香草と干し肉の素朴で温かい匂いが立ち上った。
「……いただきます」
木匙でスープをすくい、口に運ぶ。
塩気と野菜の甘みが、冷え切っていた胃腑にじんわりと染み渡っていく。
十年間、神殿で与えられていたのは、豪奢ではあるが毒味のために冷めきった銀器の料理か、過酷な断食祈祷による飢餓だけだった。
こうして、愛する男が目の前で作ってくれた出来立てのスープを、同じ食卓で向かい合って食べる――それだけで、涙が出そうになるほど美味しかった。
「美味しいわ、レオン。すごく温まる」
エレナが破顔すると、レオンハルトの硬かった表情が、わずかに和らいだ。
彼は自らの分の黒パンをちぎりながら、満足げに小さく頷いた。
「口に合ってよかった。……足りなければまだある」
「ふふ、十分よ。あなたこそ、もっと食べて。山へ薬草を採りに行くのでしょう?」
「ああ」
レオンハルトはスープを飲み干すと、腰の革ベルトを締め直した。
昨日のアガサとの取り決めで、今日の午前中、レオンハルトは街の北にある霧深い山へ入り、診療所で使うための希少な薬草を採取してくることになっていた。
急斜面を登る危険な作業だが、元最強騎士の彼にとっては散歩のようなものだ。
「正午には戻る。それまで……」
レオンハルトは荷袋を肩に掛け、玄関の重い木製扉の前に立つと、振り返ってエレナを見据えた。
その瞳に宿ったのは、先ほどまでの穏やかな温もりではなく――どこか切迫した、獲物を閉じ込める檻の番人のような鋭い光だった。
「絶対に、この家から一歩も外へ出るな」
「え……?」
エレナは木匙を止め、目を瞬かせた。
「外へ出ないでって……でも、店先の掃除もしなければならないし、アガサ先生の診療所へ薬草の受け取りに行こうと……」
「駄目だ」
レオンハルトは即座に遮った。
足音を忍ばせるようにエレナの前へと戻ってくると、彼はテーブル越しに身を乗り出し、エレナの細い両肩を力任せに掴んだ。
痛いほどの圧力。
黒革の手袋を捨てたはずの素手が、エレナの肩の骨をきしませるように締め上げている。
「ヴェルデンは交易都市だ。帝国中から商人が集まるが、同時に各国の間者や賞金稼ぎも紛れ込んでいる。……貴女のその髪、その瞳、その美貌は、あまりにも人目を引きすぎる」
「フードを深く被れば大丈夫よ。それに、街の人たちに顔を覚えてもらわなければ、これからここで暮らしていくことも……」
「暮らす必要などない!」
レオンハルトの声が荒げられた。
狭い土間に、男の低い怒号が反響する。
「俺が稼ぐ。俺が獲物を狩り、日雇いの仕事をこなせば、貴女一人を食わせることくらい造作もない。貴女が働く必要も、誰かと関わる必要もないんだ」
「レオン……?」
エレナの息が止まった。
目の前にある男の顔は、あまりの切迫感に青白く引き攣っていた。
氷藍の瞳の奥で、昏い炎が狂乱のように揺らめいている。
それは、大聖堂の祭壇でエレナを奪還した時の――全世界を敵に回してでも彼女を手元に囲い込もうとした、あの狂気じみた執着そのものだった。
「貴女を……誰の目にも触れさせたくない」
レオンハルトは掠れた声で囁き、エレナの額に自らの額を押し当てた。
震える男の吐息が、エレナの唇を熱く濡らす。
「神殿の奴らに奪われた十年間を思い出すだけで、気が狂いそうになるんだ。……もし、帝国の連中に見つかったら? もし、誰かが貴女の力に気づき、またあの白銀の檻へ引き戻そうとしたら? ……俺は今度こそ、この街ごとすべてを皆殺しにしてしまうかもしれない」
「レオン……そんなこと……」
「頼むから、エラ」
懇願だった。
王国最強と恐れられた黒曜の騎士が、まるで迷子の子供のように、エレナの肩に縋り付いて震えている。
「俺の目の届かない場所へ行かないでくれ。この部屋の中で……俺の手の届く場所だけで、笑っていてくれ」
ぎりぎりと、肩に食い込む指の力。
それは、彼がエレナを愛するがゆえの――あまりにも深く、重く、歪んだ「過保護の檻」だった。
エレナは胸の奥が締め付けられるような痛みを覚えながら、震える彼の広い背中にそっと手を回した。
「……分かったわ、レオン。外へは出ない。ここで、あなたの帰りを待っているわ」
優しく宥めるように背中を叩くと、レオンハルトは安堵したように深く息を吐き出した。
彼はエレナの唇に、焼き印を押すような痛烈な口づけを一度だけ落とすと、名残惜しそうに身を引き離した。
「……鍵は内側から固く締めておけ。誰が来ても、絶対に開けるな」
カチャリ、と重い鉄の鍵が外側から掛けられ、足音が石畳の路地へと遠ざかっていく。
静寂が、再び部屋を支配した。
エレナは一人、食卓の前に立ち尽くし、自らの肩を抱きしめた。
彼の素手が残していった、熱い圧迫感の余韻。
愛されている。
狂おしいほどに、命のすべてを懸けて愛されているのだと分かっている。
十年間、触れ合うことすら許されなかった彼が、自分を失う恐怖に怯えているのも痛いほど理解できた。
(けれど……)
エレナは、かつて診療所として使われていた奥の調合室へと視線を向けた。
埃をかぶった無数の薬草瓶、乾燥させた香草の束、すり鉢と天秤。
自分は、ただ彼の手の中で守られ、消費されるだけの無力な人形になりたいわけではない。
神殿の檻を出たのは、彼と共に、自分の足で大地を踏みしめて生きていくためだったはずだ。
窓の外を見上げれば、朝霧の向こうに、ヴェルデンの冷たい青空が広がっていた。
二人が掴み取ったはずの平穏の裏で、新たなすれ違いの種が、静かに、けれど確実に芽吹き始めていた。




