第8話 結界が、軋んでいる
ジジッ……ギィィィンッ!
夜空を覆う王都の防衛大結界が、ガラスを引っ掻くような不快な音を立てて明滅を繰り返していた。
「結界の魔力供給が不安定になっている……? いや、外側から何か巨大な力がぶつかっているのか」
俺は市場の空を見上げ、眉をひそめた。
市場の復旧で少しだけ活気を取り戻していた市民たちも、頭上で起こっている異常事態に気づき、怯えたようにざわめき始めている。
「先生! あそこ、王都の西側の空が……!」
ミリアが指差した先。
暗闇に包まれた王都の外縁、そのさらに向こう側の空に、蠢くような不気味な黒い影がいくつも浮かび上がっていた。
「魔物の群れか。……不運なことだ。自動魔法の停止で都市の魔力が乱れ、それに引き寄せられたのだろう」
本来なら、結界に魔物が接触した時点で自動迎撃魔法が発動し、市民が気づく前に消し炭にされるはずだった。
だが今は、その《アルカナ》が眠っている。
「基点の一つが近い。行くぞ、ミリア」
「はいっ!」
俺とミリアは、市場を抜けて西区の城壁近くにある広場へと急いだ。
そこには、結界の魔力中継点である巨大な石柱がそびえ立っている。
だが、広場に到着して目にしたのは、無惨なほどに混乱しきった王国防衛隊とエリート魔術師たちの姿だった。
「おい、早く『防衛結界・第三層』の起動句を唱えろ!」
「ダメです! 魔力を吸われるだけで弾かれます!」
「一覧表の四十五番、『修復』はどうだ!」
「それも起動しません!」
分厚い起動句のマニュアル本を片手に、顔を青ざめさせて叫び合う魔術師たち。
彼らは結界の構造を何一つ理解していない。
ただマニュアルに書かれた言葉を叫べば、世界が勝手に自分たちを守ってくれると信じて生きてきたのだ。
「……愚かだな。結界の基礎構造が崩れかけているのに、その上に命令だけを上書きしようとしている」
俺が呆れ半分に呟いた、その時だった。
「きゃあああっ!」
広場の隅に避難し遅れた数人の学院の生徒たちがいた。
彼らの頭上で、軋みを上げていた結界の一角が耐えきれずに歪み、危険な魔力の余波が稲妻のように弾け飛んだのだ。
「危ないっ!」
生徒たちを庇うように、一人の若い男性教師が飛び出した。
彼は両手を広げ、魔力の余波をまともに背中に受ける。
「ぐあっ……!」
ローブが焦げ、若い教師が苦悶の声を上げて膝をつく。
ロイドだ。俺がいた古典詠唱科のすぐ隣の教室で、一般魔法学を教えていた新任の教師。
彼もまた自動魔法の恩恵を受けてきた世代だが、生徒を守ろうとする気概だけは本物のようだった。
「ロイド先生!」
「逃げろ……早く……っ!」
再び結界から魔力の火花が散り、今度こそ彼らを直撃しようとした瞬間。
(魔力指定、空間。属性、風。相殺ではなく――逸らす)
俺は杖を抜き放ち、滑り込むように彼らの前に出た。
「――流転」
短い手動詠唱。
俺の杖の先から生まれた緩やかな風のドームが、降り注いできた魔力の雷を柔らかく受け止め、そのまま後方の空へと受け流した。
「ユ、ユーリス先生……!」
ロイドが痛みで顔を歪めながらも、驚きの声を上げる。
「無茶をするな、ロイド。だが……生徒を守ろうとしたその姿勢は評価する。良い覚悟だ」
俺は彼に手を貸して立ち上がらせ、背中の火傷に軽い治癒の応急処置を施した。
「ありがとうございます……。俺は、何もできなくて……起動句を叫ぶことしか……」
「気にするな。知らなかっただけだ。……下がって、休んでいなさい」
俺が彼らを安全な場所へ誘導し終えると、防衛隊の魔術師たちがこちらに気づいて声を荒げた。
「お、おい! ユーリスじゃないか! ちょうどいい、貴様を動かせるんだろう! 早くこの結界を直せ!」
「命令するなと言ったはずですが」
俺が冷たく一蹴すると、彼らは顔を真っ赤にして詰め寄ろうとした。
「下がれ、無礼者ども」
凛とした、しかし威厳のある少女の声が響いた。
広場に現れたのは、数人の近衛兵を従えた美しい銀髪の少女だった。
「フェリシア王女殿下……!」
魔術師たちが慌てて膝をつく。
彼女は俺の追放を直接決定したわけではないが、王国の頂点に立つ王族の一人だ。
フェリシア王女は魔術師たちを一瞥した後、真っ直ぐに俺の前に歩み寄り、そして――深く頭を下げた。
「ユーリス・クロフト先生。これまでの王国の無礼を、どうかお許しください」
「……殿下、頭をお上げください。俺はただの解雇された教師です」
「いいえ。宮廷の魔術師たちでは、この危機を乗り越えられないと悟りました」
王女は顔を上げ、真剣な瞳で俺を見つめた。
「彼らは『直せ』と命令するだけ。ですが、それでは根本的な解決にはならないのでしょう? ……どうか、私に教えていただけないでしょうか。この結界の、本当の仕組みを」
王国の象徴たる彼女が、身分を捨てて正面から教えを請うている。
権力者の面子を守るためではなく、本気で学ぶ意思があるのなら。
「……いいでしょう。そこにいるロイド、そしてミリア。君たちもよく聞きなさい」
俺は防衛隊が見ている前で、即席の授業を始めた。
「エリート諸君は、結界を『固い壁』だと思っている。だから力任せに分厚い壁を作ろうとして、魔力を無駄に消費し、魔物の打撃に耐えきれずに割れてしまう」
俺は杖の先で、空中に緩やかなカーブを描く光の線を描いた。
「結界の基礎は、壁ではなく『流れを逸らす構造』だ。川の中にある丸い石を想像しなさい。石は水流を正面から受け止めるのではなく、左右に受け流している」
王女とロイドが、ハッとしたように目を見開く。
「魔力指定は曲面。相手の打撃の方向をズラし、威力を散らす安全弁を構築する。それが真の防衛魔法だ」
「力を受け止めるのではなく……逸らす……!」
「だから先生はさっき、魔力の雷を空へ流したんですね……!」
王女とロイドが、理論の核心を理解し、自分たちの魔力で小さな曲面のイメージを作り始めている。
ミリアも横で深く頷き、手のひらの上で滑らかな光のドームを形作ってみせた。
基礎を嘲笑っていたエリート魔術師たちは、王女や落ちこぼれが次々と魔法の真理に近づいていく姿を、ただ指をくわえて見ていることしかできなかった。
よし。これなら、彼らを中心に応急的な補強ができるかもしれない。
俺がそう判断し、具体的な術式の指導に移ろうとした、その時だった。
ズゴォォォォォォンッ!!
王都の西側から、地響きを伴う凄まじい轟音が轟いた。
「な、なんだ!?」
「空を……空を見てください!」
上空を覆っていた結界のドーム。
その西側の一角に、巨大な亀裂が走り、まるでガラス細工のように粉々に砕け散ったのだ。
積年の負荷と、魔物の大群の集中攻撃。
俺たちがいる基点とは別の場所が、ついに限界を迎えた。
直後、王都中に、最悪の事態を知らせる悲痛な警鐘が鳴り響いた。
========================================




