第21話 魔王軍は、灯りを必要としない
「魔王軍が……国境を突破しただと!?」
伝令の絶叫に、第一中枢塔の広場は凍りついた。
たった今、大結界の崩壊を食い止め、歓喜に沸いていた空気が一瞬にして冷え切っていく。
魔王軍。
かつて人類と激しい生存競争を繰り広げ、ここ数十年間は沈黙を保っていたはずの北方の脅威。
「馬鹿な! 奴らとは長年の不可侵条約が結ばれているはずだ! なぜ突然……!」
宮廷魔術師長ガルドが、血相を変えて伝令に詰め寄った。
だが、伝令の兵士は絶望に顔を歪め、首を横に振った。
「条約など、奴らにはもう何の意味もありません! 奴らは略奪も破壊もせず、ただ一直線に進軍しています。その狙いはただ一つ……我々の拠点にある《中継晶》です!」
「なんだと……っ!」
ガルドの顔から、完全に血の気が引いた。
《中継晶》。それは大魔導基盤アルカナから供給される魔力を、大陸全土へ行き渡らせるための巨大な中継アンテナだ。
もしそれが物理的に破壊されれば、仮にアルカナの《源流封印》が解けたとしても、魔法の恩恵は二度と地方へ届かなくなる。
「国境の正規軍は何をしている! 自動防衛線が作動しなくとも、軍隊としての数はいるはずだろう!」
「駄目なのです! 相手は、完全な暗闇の中で襲撃してきました。我々人類は、魔灯や自動の夜視魔法がなければ、夜は何も見えません。通信の魔法も死んでおり、部隊間の連携も完全に崩壊しました!」
伝令の悲痛な報告が、現実の残酷さを浮き彫りにする。
魔物は元々、夜の闇に生きる存在だ。
彼らは道を照らす灯りなど必要としない。
遠くの部隊と連携するための、便利な通信魔法も必要としない。
アルカナという巨大なシステムが停止した今、暗闇の中で混乱し、目と耳を塞がれて弱り果てているのは、それに依存しきっていた人類側だけなのだ。
「正規軍は、暗闇の中でパニックに陥りました。誰もが起動句を叫ぶだけで、飛び交うのは暴発した魔力の残滓ばかり。国境の砦の正門は、あっけなく破られました……」
「……ならば、お前はどうやってここまで逃げてこられたんだ」
俺が静かに尋ねると、伝令の兵士はハッとして顔を上げた。
その瞳には、恐怖だけでなく、確かな希望の光が混じっていた。
「数人の衛兵たちが、助けてくれたのです。彼らはつい先日、王都から休暇で砦に戻ってきたばかりの者たちで……『塾で基礎を習ってきた』と言っていました」
「俺の生徒か」
「はい。彼らは暗闇の中でも決して慌てず、起動句を叫びませんでした。破られた正門の前に立ち、自分たちの手で土を盛り上げ、風を操り、分厚い『手動の結界』を作り上げたのです」
周囲のエリート魔術師たちが、信じられないというように息を呑む。
「決して大規模な魔法ではありませんでした。ですが、彼らが物理的に塞いでくれたその小さな穴のおかげで、魔物の足が止まり、私や非戦闘員が逃げ延びる時間ができたのです」
「……そうか。彼らは、自分の役割を全うしたんだな」
俺は目を閉じ、遠い国境で戦う生徒たちの姿を思い浮かべた。
正規軍のエリートたちが暗闇で恐慌状態に陥る中、基礎を学んだ数人の衛兵だけが、自分の頭で考え、自分たちにできる最大の魔法を構築した。
彼らが学んだことは、決して無駄にはならなかったのだ。
「だが、状況は最悪だな」
俺は目を開き、広場に集まった生徒たちや王国の上層部を見渡した。
「相手はただの魔物の暴走ではない。人類が魔法を失い、インフラが崩壊したこのタイミングを正確に狙い澄ましている。そして、復旧の要である中継晶だけを的確に潰しに来ている」
これは、明確な意思を持った『侵略』だ。
人類の弱点を完全に理解している者のやり方だ。
「ユーリス先生……。私たち、どうすれば……」
ミリアが不安げに俺の袖を掴む。
「焦るな、ミリア。相手がどれほど強大でも、俺たちがやるべきことは変わらない。一つ一つ、基礎を積み上げて対抗するだけだ」
俺の言葉に、ミリアやロイド、セレスティアたちが力強く頷いた。
彼らの胸元には、つい先ほどアルナから認定されたばかりの《源紋》が、確かな希望の光として淡く輝いていた。
同じ頃。
王都から遠く離れた、国境を見下ろす高い塔の上。
吹きすさぶ夜風の中、黒衣を纏った長身の男が、眼下に広がる光景を冷ややかに見下ろしていた。
「……脆いものだ」
男――ゼクスは、機械化された半顔の赤い義眼を細め、嘲るように呟いた。
彼の視線の先では、かつて不落を誇った人類の国境砦が、音もなく魔物の群れに蹂躙されていた。
そこには、魔法の光は一切ない。
ただひたすらな暗闇の中を、統率された魔物たちが静かに、そして確実に進軍していく。
「人間は、便利さを手に入れるとすぐに本来の力を手放す。光がなければ歩けず、通信がなければ隣の味方さえ信じられない」
ゼクスは、塔の縁に立ち、遠く遥か先にある王都の方角へと視線を向けた。
「お前たちは魔法を使っていたのではない。ただ、機構に使わせてもらっていただけの脆弱な生き物だ」
彼は知っていた。
人類が、すでに自らの力で立つ方法を忘れ去っていることを。
だからこそ、この《源流封印》のタイミングは、彼にとって人類を愚かな依存から『解放』する、あるいは『清算』する絶好の機会だった。
「残る中継晶をすべて破壊し、アルカナという甘い幻想を完全に終わらせてやる」
ゼクスの低い声が、夜の闇に溶けていく。
だが、彼の赤い義眼は、王都の方向にだけ、微かに消えずに残っている小さな光の集まりを捉えていた。
「……抗うか、最後の教師よ。ならば、見せてもらおうか」
黒衣の男は、一切の感情を排した声で呟き、夜の闇の中へ姿を消した。
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