四章:二十四話:2
「立てるか、エリン」
エリンの横にいたダニエルが立ち上がる。
離れていく気配を感じたエリンが、ダニエルの袖を引いた。
腰をかがめたダニエルと、不安げに見上げるエリンの視線が絡む。
「ダニエル様、あれは……、今のは……」
「驚いたか。驚くよな」
「私、あの……、太合様がダニエル様を……。あと、陛下も……」
「落ち着け。ゆっくりでいい。もう大丈夫……。もう、じゃないな。始めから大丈夫だったんだ」
ダニエルに宥められ、ちゃんとしなくてはとエリンは大きく息を吸った。
「太合様と陛下が、ダニエル様を、罠に嵌めようとしている。そう思っていました。そう思っていただけに……」
「事態が飲み込めないか……」
「はい」
「俺も聞いていたことと違うからな。元は、俺がエリンを屋敷に残して行くのが気がかりだったがために、城内で働くようにベイジルの提案にのったんだが、まさかな……」
眉間に皺を寄せたダニエルが、瞼をきつく閉じた。唸るように喉を鳴らす。
「ダニエル様が悩まれることはないです」
驚くことはあっても、大怪我をしたわけではない。怖くはあったが、結局は無事だった。思いつめないでほしいと、エリンはそっとダニエルを覗き込む。
「私は大丈夫です。怪我もしていません。事情が飲み込めなくて、混乱しているだけです」
「……すまない。巻き込むつもりはなかった」
袖を握るエリンの拳にダニエルが手を添える。
ぴりっと手の甲に刺激が走り、エリンはダニエルの袖をつかんでいる拳に気づいた。
拳から伸びる袖の皺をたどり、ダニエルの喉元、さらに足先へと視線を動かす。もう一度、下からゆっくり衣装を眺めまわすと、エリンはぴきっと凍り付いた。
(夜会のために用意された一張羅じゃない!)
エリンの瞳孔が開いた。脂汗が額の際に滲み出てくる。ぱっと袖から手を離す。途端に、エリンの頭は培ってきた経験が占拠した。
(こんな皺を作ったら、霧吹きで湿らせて、布を当てて、アイロンをかけなきゃいけないわ。夜会向けに用意した衣装になんてことを!)
泡を食ったエリンは後退さる。素早い変化を目の当たりにし、目を点にするダニエルに向けて、半泣きになりながらエリンはがばっと頭を下げた。
「すいません、大事なお衣装に皺を作ってしまいまして!」
謝罪するエリンの後頭部を見つめ、ダニエルは頬を引きつらせる。
「……そっち、かよ」
弱ったとばかりにダニエルは苦笑いを浮かべた。真から震えるエリンの肩に手を伸ばす。触れる直前で手を止めた。拳を握る。ため息を口内で零したダニエルは片膝をつけた。
「衣装は大丈夫だ。城内には専門の者がいる。ここは屋敷じゃない。働き手はいくらでもいる。まずは、顔をあげてくれ」
恐る恐るエリンは顔をあげた。ダニエルに上目をむける。
「エリン、子細なことは気にしなくていい。むしろ俺の方が、巻き込んですまなかったと謝るべきところだ」
「そんな、私はただダニエル様に言われたことを……」
言いかけた言葉をエリンは飲み込む。ダニエルとの約束を数々破り、仕事まで放り出している。度重なる失態にエリンはしゅんと肩を落とす。
「なにもかも中途半端にしてしまって……」
「それはいい。もういいんだ。皺も気にしなくていい。立てるか」
「はい」
膝に手を載せダニエルが腰を上げた。
促されるままに立ち上がったエリンがぱっぱっとスカートのほこりを払う。
「そこは手を差し伸べようよ、ダニエル」
一連のやり取りを見ていた陛下が茶々を入れる。
渋い顔でダニエルが声の主に目を向けた。
「細かいことをうるさいな」
「細かい? 大事な事でしょう。ねえ、エリンさん」
にこやかな陛下の意図が分からず、エリンは笑顔を顔に貼り付けた。
「……エリンが困るだろう」
「困っているようなら、助け舟ぐらい出すのに」
「いい加減にしろ。それよりも、だ。この事態はなんだ」
「この事態とは?」
「とぼけるなよ。俺が腹に据えかねていないとでも思っているのか」
憮然と腕組みするダニエルから、陛下がさっと視線を外す。
ダニエルから怒りの気配が漂いだし、エリンは笑顔を保ったまま口を噤むこととした。
「やっぱりさ。言うことと望むことは違うというのが人情じゃないか」
「だから?」
「どんなに復讐は望んでいないと言ったってさ。それが本心とは限らないということだよ」
「でっ」
「チャンスぐらい作っておくのも花道になるかと思うじゃないか」
「ああそうかい」
「親切心もあったんだよ」
「余計なお世話という言葉もある」
「……」
拳を腰に付けた陛下が身をよじった。
「……悪かったよ」
「……」
ピリピリした空気がエリンの半身に伝わってくる。
言葉を選びあぐねる陛下を目の前に、ダニエルに加担することも、陛下を弁護することもできないエリンは、知らず存ぜぬの気構えで気配を殺す。
二人の間になにか食い違いがあったとしても、エリンが口をはさむことではない。なによりエリン自身も未だ事態を理解しきれていないのだ。
(前王様の遺志だとしても、母親を陥れるって普通じゃないよね……)
母と二人過ごした時間を尊い記憶として胸に秘めるエリンからしてみれば、陛下の行動は受け入れ難く、とうてい理解できるものではなかった。
ダニエルを罠に嵌めようという雰囲気を醸していたことさえ、母親を失墜させる前振りでしかなかったのだ。
街中で見せていた姿から、気さくで好感が持てる人柄だと感じていただけに、前王の遺志だとは言え、どういった心境で母親を罠に嵌めたのか。それを決意するに至ったのか。
(王族だからって、人は人でしょうに……)
口出しできることなど一つもないと頭では分かっていても、やりきれなさがエリンの胸に迫る。
「エリンさん」
陛下に呼ばれ、エリンは顔をあげた。
「なにも説明することなく、巻き込んでしまって、申し訳ない」
突然の謝罪にぎょっとする。さらに陛下が頭まで下げようとするものだから、恐れ多いと狼狽したエリンは、大慌てで声をあげた。
「お待ちください。陛下から謝罪をうけるなんて恐れ多く! とんでもないことです!」
陛下がちらりとエリンの横に目配せする。
「私の都合で、巻き込んでしまったことだし、それにより怖い思いをさせてしまったことに変わりはないからね」
「いいんです、いいんです。私は五体満足ですし、何より陛下には十分に助けられていますから」
「そうだっけ」
「はい。私が困っていたときに、助けてくれたじゃないですか」
「なにかしたかな」
陛下が顎に手を添え、思いつかないとばかりに首を捻る。
「あれです、あれ。金貨です」
「ああ。あれかあ」
思いついたようで、陛下の表情が明るくなる。
「金貨を両替できるようにした件だね」
「はい。金貨しか手元になくなってしまって、生活に困ってしまった時です。金貨だけ手元にあっても、商店街で買い物一つできませんから!」
拳を握り、熱く訴えるエリンの横、ダニエルがしかめっ面になる。
「私の恰好では両替商なんて門前払いだったと思うんです。あの時は敷居が高かった両替商につないでくれて、本当にありがとうございます」
陛下が口元を綻ばせた。エリンの真横ににやにやした視線を流す。
「だってさ」
「……うるさい」
不機嫌なダニエルの存在に気付き、エリンは言いすぎたと自覚し、平手で口を覆った。
失言に怯えるエリンと、過去の行いを悔やむかのように渋い顔をするダニエルに、矛先がそれてほっと胸をなでおろす陛下。
三人三様の事情で沈黙すれば、地下聖堂内は耳鳴りがしそうなほど静かになった。




